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生きてゆく力がなくなる時

2024.07.12 05:51

Facebook長岡 美妃さん投稿記事  人間には二つの相反する欲動がある。

一つは「生きたい」という欲動 もう一つは「死にたい」という欲動

生きたいと思わせるものは自我であり、死にたいと思わせるものは自己である。現代社会においては、自我のみが強化され自己は抑圧されている。それ故に人間はこじんまりとせせこましく生きることを余儀なくされるのだ。

では「生きたい」という自我の欲動に満足はあるのかと問えば、答えはNOである。分散していく生の世界にはどこを探しても満ち足りるところはない。お金があっても、社会的成功を納めても、有名になっても、欲しいものを手に入れても、そこには尽きることのない欲求の渦巻く地獄がある。現代社会はその反映であろう。

では「死にたい」欲動とは何か?・・・それは「自分」という空虚さを完全に無にしたいという欲求に他ならない。SEXの没入、スポーツの没入、祭りの狂気、それらは「自分」を無くしてしまいたい欲求の表れ。しかしどれを取っても一時的な満足に留まるために完全に満たされることはない。ゆえに人は反復強迫に陥るのだ。。。輪廻転生を繰り返すのも反復強迫と言えるだろう。

「生きるも地獄、かと言って死ぬこともできない人間はどうすればいいのか!」そんな問いが生まれるのも頷ける。

だからギリシャ神話の賢者シレナスは言う。「この世で最もいいことは、生まれてこないことだ。次にいいことは、できるだけ早く死ぬことだ。」と。。。しかし輪廻転生は否が応でも訪れる。どうすりゃいいのさ?

だからこそ、、、人間には、生きたまま完全に死ぬ智慧が必要なのだ。そもそも中途半端に死ぬから中途半端な生になる。完全死のみが完全な満足を、完全な生を裏付けることができる。

完全死とは自分と自分の宇宙が一点も残さずに消えてしまうことだ。目の前の現実が何も変わっていないのに、すべてが変わっていることが認識できることだ。死の終わりを知ってしまうことだ。

自分を満たそうとすれば空虚さが押し寄せ、反対に「自分」が消え去った快感は癒しを与える。その時にはじめて「生きる」と「死ぬ」が同時にある今ここの不二を悟り知る。二つの欲動を同時に満足させる智慧を得る。


Facebook石垣 美幸さん投稿記事·  💗「近づく」ということ。

「相手に近づきたい」という思い。「近づく」には、自分を開かなければならない。

「相手に自分を開きたい(私を知ってほしい)」という思い。

「あなたを知りたい(私にあなたを教えて)」という思う。 近づく……

そして少しずつ分かり合っていく。楽しい時も、そうでない時(辛い時)も、「そばにいたい」と思う。ぶつかることもあるだろう……

ある時期は、求めすぎて辛くなる時もあるかもしれない。「そこ」には、きっと自分のなにかがあるはず。

それを見つけ、認め、受容して……そしてまた相手(自分)と向き合う。

相手を通して、自分自身が変容する。自分を通して、相手が変容する。人間同士の化学反応によるプロセス。【錬金術】

それは、やっぱり「愛❤」なのだろう…

Facebook瀧本 遵一さん投稿記事  「人間到る所青山在り」

それはある小説の中で、主人公が「人間至る所に青山あり・・だよ」と言われて「人間(人間)?。そりゃ《にんげん》ではなく《じんかん》と詠むんだよ」と言いたくなる場面のことだ。この漢詩は、私のような山口県生れの人間は子供の頃からよく聞かされた漢詩で、頭に染み付いているようなものなのだ。

男児立志出郷関  男児 志を立て郷関を出ず

学若無成不復還  学もし成るなくんばまた還らず

埋骨何期墳墓地  骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地

人間到処有青山  人間到る所青山あり

周防の国(山口県)に生まれた、僧・月性の詩である。

しかし、私も《人間到処》という部分を《にんげん いたるところ》と詠んでいたように思うのだ。

ここで言うところの《じんかん》というのは、世の中、世間のことを言うのであり、「青山」(せいざん)というのは墓場のことである。

「詠んでいた」というのは、大声で詩吟のように朗詠していたということだ。

私達の子供の頃は、この詩の外に「頼山陽こと頼三樹三郎」の《少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰 軽んずべからず》

・・・などという郷土の先輩の詩を、半ば強制的に覚えさせられたものだった。 

その矢鱈と立身出世主義を煽るところが、長州という風土であったの・・・だが、それが今となっては懐かしい。

(注)・・広辞苑によると、《にんげん》とも《じんかん》とも読んでいいそうである。

以前、日本経済新聞の夕刊の「人間発見」という欄があり、あの「竹中平蔵」氏が「逆風に向かって飛べ」という半生記を連載していたことがある。

竹中氏は和歌山県の商家の出らしいが、読んでいるとこの人は多分に子供の頃から「立身・出世」に憧れていたことが窺われるのである。

例えば 『昨年、サッカーのワールドカップで日本代表が敗退したとき、新聞の見出しは「これが世界だ」でした。グローバリゼーションやIT(情報技術)革命で世界のフロンテイアでの競争は激化していて、格差も世界的に広がっている。

そこで戦わないと日本は豊かになれません。まず皆にフロンテイアへの挑戦の機会を与えないと始まらないから、規制緩和も必要です。失敗した人の再挑戦システムやセーフテイネットも構造改革の中身なんです。構造改革をするから格差が広がる、は間違いです』 ・・と書いているのだが、 竹中氏の頭の中では、人間の中でも「挑戦する人」「豊かになりたい人」「戦う人」のような、積極果敢な人生を行く人だけが肯定されているのである。

逆に「挑戦しない人」や「豊かさばかり求めない人」や「戦いたくない人」たちは否定的で、敗北者に過ぎないとでも思っているのではないだろうか。

つまり竹中氏は、この人たちは人生の初めからセーフテイネットにも引っ掛からない類の連中なのだ、と言っているようなものなのだ。

しかし、世界には、静かに質素に暮らしたい人だって多いのである。「貧しさなんか怖くない。小さな幸せと争いごとのない平和が欲しい」と思っているだけの人もいるのである。

そんな「名もなく 貧しく 美しく 生きたい」と考えている人たちに 「そんなんじゃダメだ。もっと文明を謳歌しなくちゃダメだ」と「グローバルなんだ」「世界標準にあわせろ」 と無理矢理に競争を煽っているのが自分たちだってことが、彼は気付いていないのだ。

人間は「競争」をするために生まれて来ているのではない。「勝ち組」に成りたいためにだけ生きたいのでもない。

「競争」=「争い」は常に外から意図的に持ち込まれ、お互いを争わせ、弱いもの同士の競争を利用して、そこに産まれる「利益」を掠め取る連中が必ずいるということを忘れてはいけないのである。

竹中平蔵という人が、過去も現在も 「世界に競争を持ち込んで、利益をピンはねできる立場」 の人間であることは間違いない。

だからそのうちに、この国はハイエナに食い散らされた荒野になってしまうのだろうなぁ、と私は思っている。

そんな風に思うと、「世間には 到るところに 墓場がある」というこの詩も意味深く感じられる・・というのが、今日の教訓的なお話である。

Facebook相田 公弘さん投稿記事 □「生きてゆく力がなくなる時」

※林覚乗(はやしかくじょう)和尚の心に響く言葉より…

新聞記事に載っていた話です。

主婦A子さん(二十九)の夫は、機械リース会社に勤務するごく普通のサラリーマンだったのですが、あるとき商品相場に手を出し会社や金融業者から借りたお金が約2000万円。

これに、家のローンや勝負ごとの負けも加わってついにマイカーごと蒸発。

その日以来、A子さんは毎日夕方になると三歳の長女を連れて自宅近くの陸橋へ出かけるのが日課になりました。

毎日、毎日、きょうこそ夫が帰ってくるのではないかという期待を胸に陸橋の上にたたずむ日が続きました。しかし、一ヶ月が過ぎても夫は帰らず、連絡すらもありません。

借金の督促は厳しく、帰るあてのない夫を待つことに疲れ果てたA子さんは、何度も死ぬことを考えたといいます。

そんな四月の雨の日、一台の車が陸橋の下で止まり、A子さんと同じ年恰好の女性が降りてきて、二人に声をかけました。

「間違ったらごめんなさい。いつもそこにいるけど、身投げなんかしないでね」

この女性は日頃、陸橋の下を通り二人を見ていたんですね。

A子さんは、思わず心の中を見すかされたような気持ちになりました。

A子さんが返す言葉もないままでいると、その女性は小銭入れを渡したそうです。

中には小さく折った一万円札が二枚とメモ用紙が入っていました。

(いつも気になって、あなたのことを見ていました。人生って死んで何もかも終わりだと思うけど、お子さんだけは道連れにしないでね)と記されています。

さらにもう一つ、小さなカエルのマスコットが入っていました。

A子さんには、このカエルが「帰る」という言葉に結びつき何かの暗示のように思われ、その場で娘を抱きしめながらあふれる涙を抑えることができなかったそうです。

「勇気がわいてきて、立ち直れそうな気持ちになりました」。その後、北陸の旧家のA子さんの実家では夫と縁を切るという条件でお金の始末をつけてくれることになり、A子さんも里帰りして出直すことになりました。

立ち直ったA子さんはその姿を見てもらおうと何度か陸橋に出かけたのですが、なぜかあの女性の車は通らなかったそうです。

A子さんが命の恩人を探している、ということで新聞の記事は締めくくられています。

『心ゆたかに生きる』林覚乗・西日本新聞社より抜粋転載

日本では、年間の自殺者は10年連続で3万人を超えているという。

これは、交通事故の死者の数の5倍以上だ。(ベトナム戦争の米兵の死者が3万人だそうです。)自殺未遂はその10倍はいるといわれ、それを計算すると、一日1000人の人たちが自殺を図っていることになる。

この数(自殺率)は、先進国でも群を抜いて多く、日本はフランスやアメリカの2倍で、

イタリアやイギリスの、実に4倍だ。坂村真民さんの詩に…死のうと思う日はないが

生きてゆく力がなくなることがある そんな時お寺を訪ね わたしはひとり 仏陀の前に座ってくる 力わき明日を思う心が 出てくるまで座ってくる 『生きてゆく力がなくなる時』柏樹社

全ての夢が破れ、絶望したとき人は死を考える。 まわりから責められ、孤立無援となり、望みが絶たれる。そんなとき、ちょっとひとこと声をかける人がいるだけで、死なずにすむことがある。心に深い悩みを抱え、絶望しているときは、どうしようもない孤独感に苛(さいな)まされているときだ。孤独をいやしてくれるのは、温かい言葉や、挨拶や、笑顔や、まなざし。生きてゆく力がなくなる時、少しでも力を与えられるような人になりたい。