9月の会~熱のひみつ~
8月は夏休み中につきお休みしまして、2ヶ月ぶりに開催となりました。
引き続き入間カイさんの書籍『これからのシュタイナー幼児教育』を読んでいます。
今回は「第6章 熱のひみつ」。
「熱」という言葉からは様々なイメージが喚起されます。
暖かい、太陽、炎、光、エネルギー、燃える、情熱、愛…。
シュタイナーは、
「光は認識によってもたらされる。そして、愛はこの光の熱である。」
という言葉を残しています。
ここで言う“光”は、後半に「愛はこの光の熱である」と言っているように、熱を伴う光です。
LEDライトのように発熱しない冷たい明るさではなく、暖かい光です。
この「暖かい光」ってなんなのでしょう?ここでいう「暖かさ」とか「熱」って単に温度のことなのでしょうか?
娘と通った仙台のシュタイナー幼稚園は普通の民家で、冬になるとストーブを炊いても床は底冷えし寒く感じました。
しかし住む場所が遠く離れた今、通っていたあの場所を思い出すと暖かさを思います。
思い出すと、同時に私の心も温かくなります。
真冬は靴下重ね履きしても寒かったとはっきり記憶しているのに、どう思い出してもあの場所は絶対に暖かいのです。
反対に、暖房設備が整った部屋でも、なんとなく冷たく寒く感じられる場所もあります。
このときの「暖かさ」とは何なのでしょう。
シュタイナーは、この暖かさこそ「愛」だと言いました。
そしてこの「愛を伴う暖かい光」は「認識」によってもたらされると言ったのです。
一般的に「認識」とは「知る」「気づく」という意味です。
しかしシュタイナーが「認識」という言葉を使うとき、それは対象を客観的に観察し、頭で理解することではありません。
シュタイナーにとって「認識」とは、人間が答えを探して考え続けること、闇のなかで光を求め続けること、身体性をも含む「あがき」や「たたかい」そのものを意味していました。
私たちは、子育てや仕事といった日常生活で分からないこと、不安になることがあります。
なぜ我が子はこうなのか?
これは叱った方がよいのか?
何が正しいしつけなのか?
なぜ私だけこんな目に合うの?
なぜこの仕事をしなければならないの?
或いはもっと大きな視点で、自分自身や大切な人に不幸が襲いかかった時、人生や運命に対しても「なぜ?」という問いを発します。
それらは非常に個人的な問題です。
研究者が自分と対象を切り離して観察し、その仕組みを明らかにするようなものであはりません。
自分に問題が降りかかり、当事者となって巻き込まれている状態です。
最初は答えが見えず闇の中にいるように感じられるでしょう。
自分の無力さを感じたり、周りと比べて自分の状況を悲観したり、見苦しさをさらけ出すこともあります。
しかし目を背けず必死に答えを求め、努力している態度はかっこよくはなくても、冷たくはないのです。
そこには、自分の内なる問いを見て見ぬふりせず、向き合おうとする熱があります。
その熱をシュタイナーは「愛」と呼んだのです。
闇の中で必死に考え、努力した末に自分なりの答えに辿り着く。
その過程を経ることが大切なのです。
「闇をくぐりぬけた光」であり「認識によってもたらされた光」であり、「熱(愛)を伴った光」こそ、シュタイナーが大切にしたものでした。
愛は、初めから与えられているのではなく、人間が闇の中で光を求めてあがくなかで、人間自身によって生み出される熱なのです。
私自身も一所懸命に生きていたら、周りからの愛を感じられるようになりました。
私自身も愛をあらわせるようになりました。
それは、私が「自分の内なる問い」に向き合っているうちに熱を発していたということなのでしょう。
幼稚園のあの場所があたたかく思い出される理由も、幼稚園の先生方もまたご自身の人生としっかり向き合っているからなのでしょう。
そして、このような「熱」をもった大人がたくさんいる環境。
それこそが子どもたちが安心して過ごせる環境ではないかと思うのです。
この「松山シュタイナー教育を学ぶ母の会」もまた、参加されている方は皆、内なる問いをもって参加されています。
子どもとどう向き合うべきか?
育児とは?
自分の本質とは?
今までの自分の生き方、これからの生き方のこと。
参加者全員が、自身の問いに向き合い、光を求めていく真剣さを持っています。
素晴らしいなあ。ありがたいなあ。
きっとこの会の存在も、子どもたちにとって良き社会を作る一助になっているのでは?
そんなことも思いました。
最後はトランスパレントペーパーで飾り作り。
初めての方もいらしたので、2回目ですがやってみました。
光に透ける美しい色のコンビネーションは何度見てもうっとり。
うん。光、万歳!
この世界に光あれ!!