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ZIPANG-7 TOKIO 2020 ~ 物質文明から心の文明へ ~世界平和への新たな取り組み 【寄稿文】一舟・光秀

2023.12.02 04:05

世界平和への新たな取り組み

現在ウクライナもガザも、世界各地で今も目を覆うばかりに破壊され、多くの血が流され、幼な子まで命を落とす戦争が続く。


   神は何をしているのだ、何を考えているのだろうか。


世界には多くの紛争があり、物質文明は人の醜い欲望の文明であり、国連も、宗教も、権力者も、条約もその解決には無力であることが分かって来た。一次的な対処ではなく、根源的な新たな何かを必要としている。


有史以来世界の王と権力者は、軍隊、徴税、豪華な王宮、華美な暮らし、一族の蓄財などをしてきたが、その終焉は敗戦、失脚、ギロチン、銃殺、追放などで一族は消えた。栄華を極めたルイ王朝もマリーアントワネットも、プーチン大統領の尊敬するピョートル大帝一族も同様であり、他の民主主義国でも選ばれた権力者はそれに類する非人道的な最後が待っていた。これが人の上にたった王の姿である。


世界共通の約束で未来を変えよう。

1 新たな「王」は寛容で緩やかな制度で、国や世界を文化で治める。

2 一人でも 何万人でも殺人は同じ犯罪。個人も国家も同じである。
この基本が克服できない人類は他の生き物にも劣る存在である。

3 戦争は、勝者にはひと時の喜びをもたらすが、多くの場合その反対側は終生悲しみに暮れる。人間の愚かさの代表が戦争である。まるで 大漁に湧く浜は祭だが、海の中では何万のイワシの弔いだ という金子みすゞの詩「大漁」が思い浮かぶ。


物質文明の発明・発見には反作用のリスクがつきものである。

事例1 新大陸発見は当事者側にひと時の喜びと黄金と繁栄をもたらしたが、一方その反対側には多くの人の命の犠牲と文明の破壊は永遠の悲しみが残る。

事例2 科学の工夫の成果であるノーベルのダイナマイトも、核融合の開発も、人の命と心を砕く戦争の道具となる。発明の利便は人類の心身を退化させて来た。


未来の平和の秩序を目指す試みは 戦国の日本にもあった


その一つ平和時に現れると言う伝説の麒麟


戦国の末期に、和平を貫いた文武両道のピースメーカーがいたと言う。恵那市にある明智光秀の生誕地、明智城址の八王子神社に平和な世に現れるという麒麟の彫刻が三体ある。土岐源氏明智一族が平和を願う麒麟は、四神相応の神々が一体となったような、恐ろしさとユーモアさえ感じる姿である。
平和と幸せは、戦争や恐怖と裏腹の存在なのか、平和の実現の難しさを物語っているようである。


現在世界は大きく3つの問題を抱えているがどうする日本・・・。

1 世界平和 2 気候変動への対策 3 環境汚染と人道の格差問題であり、差し迫った問題だが根源は一つ、それは人の心にある。


現状は何より生物である人命の尊厳の、なんと粗末で軽い位置付けであることか。この原因は、人は同じ種族の人同士を殺すという稀有な生き物で、際限を知らない物質文明中心の欲望の生き物であるからだろう。


人の世界は国連も様々な条約も宗教も無力で、それらを制御する手立てを持っていない。大航海時代の植民地争い。産業革命と大量生産。第二次世界大戦後のグローバル経済により、一気に進んだ国による深刻な格差、地球環境の汚染データが示す、極端に激増した天空大地海の汚染物質は取り返しのつかないところまで来たという。


経済先進国の物質文明の豊かさと、人の欲望の結末であり、さらに人類を100回も絶滅できる核兵器をちらつかせ、脅し、相手の引っ込むのを待つ強欲にある。
このような中にあって、人同士の紛争に関して人類をまとめる心のシンボル・新たな王が今待たれている。


次世紀の新たな人類の王の姿とは

それは有史以来の国や民族の「王」ではなく、権力の権化ではなく、人類という生物の心の拠り所としての「シンボル:象徴」としての王である。人は他の生き物と同様に、種の保存と命を繋ぐにため、リーダー・王を必要とし、これが生き物の食物連鎖の縄張り争いの元であり、人類はその限度を超え平和への障害、争いになる。


その答えは、物質文明から心の文明へ向かうべき根本的な生命としての「本草学」の新時代へ。麒麟が来る平和な世界づくりは、今の生ぬるい表層のSDGsでは済まない。地球規模の視点で人類と生命全体の根本問題での取り組みが必要である。


つい先だって「本草」と言う優しい言葉に出会った

「本草」学とは植物、生きもの、岩石に至る薬効のある物の研究のことらしい。生きもの誕生以来何億年もの間、生物が人が手に触れ、口にし、試して来た生き物の体と心の効用の研究である。


温泉もそうだろう、道端に咲く可愛い白い花のドクダミも10余の薬用がある。リスがコンクリートの破片を齧り舐めているのを見たことがある。


筆者の明智一族の家紋である桔梗にもいくつかの薬用あり、その優雅な水色桔梗紋は土岐源氏明智の大将が、戦場でふと野に咲く桔梗を手折り兜にさしたことから始まったと言う。文武百班を修め、戦いと和平に明けくれ、連歌に長じた光秀が、麒麟が来る平和な国づくりを祈願するに至った心もここにあると思う。

 

目にも見えない酵素や微生物から始まる新たな未来を

世界は今この地上の生物の持つ驚くべき、微生物や酵素の存在に目を向け始めた。チベットから中国や日本の和漢薬や食料は西欧の科学を遥かに超える本草学に裏付けられていると言う。これはアマゾンや世界の未開地に残る人類の宝であるらしい。生存の基本から始めることこそ、現代を見直し、未来を考えることになると思う。


ある時は深刻に、ある時は思い切って楽しくのびのびと物事を進めることになる。麒麟の姿はそう言っている。


麒麟像のある八王子神社の一角に柿本人麿神社はある


万葉の代表的歌人柿本人麿神社は、連歌にも、城や街づくり、領民や部下の兵士を、妻を思いやる文武両道に秀でた光秀が、明智城址の八王子神社の一角に、崇拝する歌と学問の聖人として神社を建てた。



従来の英雄の概念を捨て 心の平安を願う新たな英雄の価値観を

驚くことに今、平和や生命や地球環境を大切にする時代に、未だに人は大勢人を殺したものを、他国を侵略し苦しめた者を、国のあるいは郷土の英雄とし、我が国でも大河ドラマや地域のイベントに税金や公に集めた金で賞賛する。なんと矛盾した人の心であろうか。


戦国の世とは言え無差別な殺戮の信長や、半島に侵攻し多くの内外の兵の命を失い、何人殺したか数合わせに耳や鼻を切り取り塩漬けで本国に届けさせた秀吉なども。これは明治維新の、欧米に倣う対外侵略、植民地政策の先駆けであり、人道的にも無神経に称賛することではない。


また5千万人とも一億人とも言われる死者と、筆舌に尽くせない多大な苦しみと悲しみを伴った太平洋戦争での敗北と、現在まで続く無条件降伏状態と、また現代の北朝鮮や中国・台湾関連などのアジアの諸問題の原因は、徳川時代の260年の近隣平和外交に逆行した明治にあることを、平和を望むなら今一度反省する時でもあろう。


新たな世界平和への象徴としての「王」の手本は実は日本にあった

意外にも太平洋戦争後の敗戦国日本は、いわば戦犯の王である天皇を新たな国の、弥生以来の天皇をシンボルとした、戦勝国の定めた憲法下で、現在概ねの日本人は平和に浸り暮らしている。


実は人類の有史以来の王の概念である、権力、軍隊、徴税、蓄財、贅沢、横暴等という存在から脱皮し、新たな国を世界を統合する王のあり方である。まさに政権は変わっても千数百年も長きに渡り、日本人の心のあり方の中心となった天皇制は独自の文化を培ってきた、我が国独自の王であり象徴であった。


ここに大戦後の我が国の支配統治国の、新たな未来ビジョン像の隠れた日本統治のシステムの片鱗が見える。そこには「米ユ道祖論」「英ユ道祖論」「日ユ道祖論」が根底にあるようだ。太平洋戦争とは、米と英の連合国と日本国との太平洋の利権を争う、第二次大戦の集約戦争であった。


筆者の生まれた一ヶ月後の米国への宣戦布告から終戦、そして無条件降伏の状態は今も続くが、一度も日本国内でレジスタンス・ゲリラ戦が無かったのは世界で稀有な不思議の国である。戦争という愚かな人間たちの業を改め変える未来への手本が事例が、実は我が国にあるといえるのである。 

 

戦国武将の命を懸けた苦悩に学ぶ 平和な世界実現への夢の道

織田信長と明智光秀は互いに異なる秀でた才能の人物として、共に天下統一に邁進した。

しかし二人の大きな相違は一方は武力で後世に遺恨を残さないために、女子供までも皆殺しにする戦術の信長と、できるだけ戦いも話し合いで進める戦略の光秀との、その違いの果ては、天皇制を廃止、王となり神になりたい信長に対し、伝統の国の統合の緩やかな朝廷による支配を主張する光秀の軍略に、信長は反し、仏教を弾圧し、光秀の四国平定も長宗我部氏と終わらせていたところに、信長は息子たちに軍を向かわせ、果ては比叡山の次に高野山攻略をも準備し、丹波攻略成功で一段落した高齢の光秀に、秀吉と共に毛利征伐後、九州へ追いやる気配(光秀は惟任日向守、秀吉は木下筑前守と言う、二人ともすでに九州へ遠ざける手を打ってあった)を察し、初老の光秀、次の秀吉、そして家康を、信長は凡ような頼りない息子たちに、とって危険な3人を遠避ける作戦を始めたことは明白であり、本能寺の変は三人の未来へ暗黙の了解で起きたとも考える。


本能寺の変 光秀の母の願い

お牧の方の平和への願いは…孫の細川ガラシャに引き継がれている


      光秀の母お牧の方の最後と光秀と秀治の丹波の戦いのポスター


戦国末期、京の隣丹波は国衆が強く信長に従わず、光秀を大将に波多野秀治との戦いが長引き、光秀の母お牧の方は、これ以上死者出すのを忍びなく人質になり、光秀は波多野秀治を安土城で信長に会わせたが、信長は約則をやぶり即波多野秀治を即切り殺した。あわれにも光秀の母の願いは叶わず無惨な最後をとげ、激しい憎悪の戦の結果丹波は光秀の領地に。

ルイス・フロイスの言うには光秀の娘たちは西欧の貴婦人のように美しく貴賓があったというが、このお牧の方を見れば想像できる。


本能寺の変 光秀、秀吉、家康の暗黙の陰謀?

光秀は信長の裏切りで母を失い、家康は信長に父を殺され、奥方と優秀な後継者の息子信康を殺された。秀吉は狡賢く立ち回り機会を持っていた。


それは天王山の戦いの前に光秀と秀吉は利休の待庵で会っていたという。明智1万3千の兵と、集参した3万を超える秀吉軍とでは結果は見えており、天王山での後、光秀は彼が再建した比叡山で修行に入り、秀吉は利休を切腹させた後、茶と軍略と連歌の達人光秀を代わりの「利休」としたという説を知った。


光秀は天王山の後、自身が復興した叡山の奥で仏道に入り、僧秀光(しゅうこう)と称し以来、自覚、南光坊、金地院、大僧正天海などの多くの名称がある。否定する向きもあるようだが、戦国の転換機に下剋上の汚名を一心に自ら引き受けたので、天下人家康周辺は都合よく誕生、出自、年齢の改竄も可能であったろう。


信長に仕え短期間に数多くの実戦での勝利で織田軍の司令塔になり265万石を信長に捧げ、軍略、城郭、街割、兵士領民への配慮、文武両道で、足利将軍、朝廷にも仕えた彼に代わり、秀吉、次に徳川の顧問になれる都合の良い人材はあるだろうか。古代イスラエルに、スメラミコトという中国にもどこにも存在しない言い方という、王の呼び方があるそうで、まさに天皇の世界と一致する。


逆らうものを皆殺しという暴力での国の統一を夢見た信長と、話し合う講和で平和な国の実現を夢見た光秀との葛藤が本能寺の変であった。二人はともに相手の長所を認め力を合わせて天下統一を戦ってきたが、最終的にその溝は埋まらず終わった。


それは民を国を統括する「王」のあり方の相違であった。信長は朝廷を廃止し王に、さらに神になりたいと言い、一方光秀は朝廷という伝統に基づいた平和世界を理想とした、麒麟がくるという古代中国の世界観であった。


母の命日が本能寺の変

その3年後の母の命日が本能寺の変である。裏切りは信長であり、光秀は下剋上の汚名を一手に引き受けることとなった。男尊女卑の昔とはいえ、今思えば母への想いは大きく、本能寺の変へ・・・。


京都金地院にある明智門


光秀が本能寺の後、母を悼んで明智門を大徳寺につくった。何故か今は三代将軍家光の西の東照宮、京都の金地院にある。家光の乳母は光秀の家老の娘で春日局。4代将軍の乳母も光秀の重臣の娘。家康と光秀は家光を大切に育て「家光」の名は家康と光秀の字を合わせたものと言う。家光は家康とお福(のちの春日局)の子であるという説は、二代秀忠の妻は信長の血筋であり、徳川将軍にはその血を入れないためであったと言う。


家康の260年の天下泰平への布石

家康の遺言には日光の東照宮と江戸の東照宮上野の寛永寺、駿府の東照宮、京の東照宮金地院、江戸の都市計画。また参勤交代、大奥など、三代にわたる250年の平和な徳川政権の基礎に光秀は顧問として関わった。


家光は家康を大権現と祀る江戸の守り、東国の抑えとした日光東照宮の一番の名勝地を明智平と命名した。


坂本龍馬は光秀の思いを継いだ末裔

さらに余談。坂本龍馬が結成した亀山社中は日本初の商社という。亀山とは光秀が丹波攻略に築いた城である。そして光秀の末裔である坂本龍馬の坂本は、琵琶湖畔の光秀が織田家臣の中で、最初に5万石で築城した坂本城に由来し、本能寺の変の時、光秀の娘が嫁いでいた長宗我部氏の土佐に逃れ、また薩摩藩と長州藩、さらに植民地主義のアジアの牙城である東インド会社の長崎のユダヤ人グラバーと関係した亀山社中である。


龍馬は武器商人と言われるが、光秀同様に新日本の未来に奔走した功績がある。だが若くしていずれかのグループに暗殺された。


世界で平和に人道危機に立ち向かった本人をもっと学ぼう

国際連盟書記局事務局次長としてスエーデンとフィンランドの戦争回避した新渡戸稲造、国連難民高等弁務官として世界の難民の保護と救済に尽くした緒方貞子氏など、世界で平和や人々の幸せのために尽くした優しく強い心の日本人は多い。これからも日本人が未来の人々に、世界の未来に、心の文明に関わることを期待している。


1950年台から飽くなき大量生産 プラスチック マイクロプラスチック 重金属 放射線物質 ダイオキシン等が急速に増加し 弱い立場の人々に健康悪化、病気、生活手段の貧困としてのしかかる。一見豊かな現代世界の生活の負の実態は悲しく苦しい。経済先進国の富裕層の暮らしによる皺寄せである。


核兵器禁止条約に参加しない日本は、何故?と世界中から、子供にもわかる正しいとはいえない国である。


時の政治と人道はきり離すことが、日本が世界から信頼を得る道である。世界で唯一の核兵器で無条件降伏した国であり、自信を持って大きな幸せと世界平和への正しい道を選択してほしい。その歴史と伝統はすでにある、


余滴

余談だが何故か筆者の祖先は下総の国の米を大奥に納めていた。筆者の12歳までの本名は何故か明智英光である。近隣に明智名字もあり、

前明智旭市長の時、故郷の旭新市庁舎建設市民会議議長と環境デザイナーとして、地域風土と伝統と未来を念頭に完成。

また岐阜市JR駅前再開発委員長兼デザイナーとして、岐阜の伝統と市民と天下布武を目指した信長と岐阜地域全体との融和をも願い、景観と機能性とも新たな未来的環境が出来たと想う。


JR岐阜駅前広場 岐阜県の表玄関として「おもてなしの心」を込めてデザイン



旭新市庁舎

新市庁舎は 天空海大地 風土伝統に馴染む力強い姿に


デザインも色彩も 序破急 1・2・3段階で構築

1:本の表紙のようにコンセプト・ビジョンを明快に。

2:次は目次 。

3:目的の本題にゆったりと誘導する。

まず建物は

1:日本の風土伝統、色は白黒グレー自然素材色 

2:正面寄り付きは九十九里浜の湾曲と白砂青松で市民の心の融和を図る。

3:大地の水平と打ち寄せる太平洋と、水平線と曲線で未来を見据えてテーマであるオンリーワンらしいユニークな形の新市庁舎の姿になった。

変哲も無い考えだが何事ものべつまくなしより整理出来る。あとは自由にそれぞれ想いを語れば良い。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 アフターコロナへのお膳立て(2−1)ーSDGsの未来は地域の自発的取り組みにあるー ・・・【寄稿文】林 英光 
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18125073


岐阜市JR駅前再開発

             岐阜市全域の距離によるLC色彩調査表 岐阜の景観デザイン要素と色彩


私たち日本人は色彩を軽ろんじていませんか?

服装も家も街並みも都市も国土も一つの景色です。その基本を少し理解すると全てが融和し、調和が始まります。

私たち日本人は色彩を選択する時、他のものごとより理由も感性も十分な検討もない侭、命に別状はないとして決めています。

しかし戦国時代の武将たちは、命をかけて城ばかりではなく、領地から服装、香りまでトータルデザインに尽くしました。

その根底には「恥と誇り」があったのです。それが日本の穏やかな文化の基本です。またその手本は、天地空海、山川草木、生きとし生きるものの姿や色彩など、全て自然の中にあります。それが人間界の風土に育まれた伝統文化です。

今は伝統的な和の優れた文化よりも、外国の派手な文化に目が行きがちですが、それらは彼らに似合う文化であって、そこに住む日本人が美しく見えないばかりか、外国人から見ても日本人は世界一洋服の似合わない人々と言われる所以です。

その都市環境は電柱と看板とバラバラな建築様式と形と色彩の混沌であり、スラムのようだと言われます。それには視覚上の色彩も大きく影響します。さらにわが国の混沌とした環境の改善は大事な未来の子供達や次世代に不調和な環境が影響し、いじめや犯罪など心の問題にも関わります。環境は人をつくると言います。

そこで都市環境と様々なデザインの、発想から実施に至るまで関わった筆者の多数のプロジェクトの経験から、色彩に取り組む実務のトータルデザインについてご紹介しましょう。一例としてJR岐阜駅前地区再開発での筆者が手掛けた色彩デザインの手順が僅かでもご参考になれば幸いです。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 色彩デザイン実践講座 事例1 JR岐阜駅前再開発 森羅万象との融和【寄稿文】林 英光
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/21261952


寄稿文 一舟・光秀(林 英光)


環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。

発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


織田信長公(左)と明智光秀公(右)


明智家系図


多羅城は、大垣市上石津多良地区にかつてあったと推察される戦国時代の城館です。関ケ原の戦い以前、この地を所有していた関一政が多羅(良)城を築いたとされ、築城時期は天正年間とも慶長年間とも言われています。

しかし、明智光秀が多良で生誕したとされる史料には、“多羅は進士家の居城”とあるため、関氏以前から多羅城は存在していた可能性があります。慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの後、関一政は伊勢国亀山(現亀山市)に移封となり、代わって高木貞利がこの地に転封され旗本となりました。

多羅城の場所等の特定には至っていませんが、推定される場所が複数あります。宮の西高木家陣屋跡や羽ケ原の城ケ平、上多良の城屋敷、松ノ木の城山などが城跡とされる場所で、それぞれの地名に「城」の名が今も残されています。


明智家の墓 桔梗塚

謎多き人物「明智光秀」はどこで生まれたのだろうか?

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-4 TOKIO 2020「明智光秀生誕の地 多羅城」特別企画展のご案内
~ 時は今、天が下知る五月哉 ~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7453155


瑞浪の里に咲くヒトツバタゴは三日月紋の鶴の化身とか…


土岐源氏発祥の地~みずなみ~

やわらかな線で描かれる屏風山、ここの観音ヶ峰は、平安初期に開かれた桜堂薬師の奥の院があったといわれています。

木曽川の霧の流れる日吉高原には、室町時代に開創された開元院の法灯が、今も明々ともえています。土岐源氏発祥の地「みずなみ」は、古来より又、仏法の栄えた地でもあります。

ヒトツバタゴの真っ白い花のこぼれる里に聞こえる読経の声、花の木の真っ赤にもえる山々に響く夕べの鐘、詩情あふれる瑞浪の里。


瑞浪のヒトツバタゴ自生地

~昔話~その1

遠い北の国から、ことしも鶴が又やってきました。宿の庄屋の娘おさきは、とても鶴をかわいがって世話をしていました。その一羽の背中に三日月の紋のある鶴がいました。北へ帰るほんの少し前のこと、猟師に撃たれたのか、いたちにかまれたのか三日月の鶴が片羽根をとられてしまいました。おさきは、とてもかわいそうに思ってけんめいに手当をしてやりましたが、とうとう死んでしまいました。おさきはそのなきがらをヒトツバタゴの根本にうめてやりました。ヒトツバタゴは、名の通り葉が一枚づつ出ているので、片羽根の鶴と同じだと思ったからです。そして大きくなったヒトツバタゴには、鶴の羽根のように真っ白な花が咲くようになりました。

※この昔話は、「ふるさと瑞浪」のお話のあらすじを短くして掲載しています。

ヒトツバタゴは「一つ葉のタゴ」の意で、タゴはトネリコのことです。木犀科に属し別名をナンジャモンジャといい、新緑の5月、まるで雪をかぶった樹木のように純白の花がおおいかぶさりその景観は実に見事です。


対馬のヒトツバタゴ(奥に見えるのが韓国展望台。対馬から韓国釜山まで49.5kmです。)


分布は国内では対馬と岐阜・愛知・長野の一部に限られ、その自生地は天然記念物に指定されています。

●所在地  瑞浪市釜戸町字森前及び字百田

●問い合わせ 瑞浪市教育委員会 スポーツ文化課 TEL.0572-68-7710

●アクセス  JR釜戸駅下車タクシー5分 中央自動車道瑞浪ICより15分

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 土岐源氏発祥の地~みずなみ~「詩情あふれる里の山々に響く夕べの鐘。美濃瑞浪三十三霊場のご案内」瑞浪(その4)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5124439



国宝「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」水無瀬神宮所蔵

隠岐で19年過ごされた後鳥羽天皇60歳の春、ご自身の余命も長くないと覚悟され御自身の両手に朱印を付けしたためられた。これを書かれて2週間後にお隠れになった天皇の御意志である 「我後生を返々とぶらふべし」 との一文により、御霊を水無瀬の地にお遷ししてお祀り申し上げた当宮の起源となる国宝であり、その複製が隠岐神社宝物として海士町後鳥羽院資料館に展示されています。


後鳥羽院は和歌の道については言うに及ばず、今の弓道、相撲、水泳、蹴鞠、楽器の琵琶など先進的で多才な帝王であられました。また、京都にいらっしゃる時のことですが、当時の有名な刀匠を御所に召して院に相応しい作刀を命じました。後に「御番鍛冶」と称される刀匠の作品の内、特に後鳥羽院の目にかなったものについては、茎のところに菊の花がうっすらと刻まれたそうです。この菊の花から続くのが現在の皇室の菊の御紋です。


             隠岐神社神紋 菊浮線(きくふせん)


そうした経緯もあり、神社の紋章は菊花紋の一つである「菊浮線(きくふせん)」となりました。菊の花を割って四方に配置されたこのデザインは、国宝「紙本著色後鳥羽天皇像」
<伝藤原信実筆>で院がお召しになっている装束にも配されています。


当時の隠岐の守護は島後に本拠を構える佐々木氏※であり、その監視下での日々でありました。海士町にもその命を受けて、後鳥羽院にお仕えしつつ動静を把握する守護の家来がいたと思われますが、その資料は現存しておりません。日々のお食事、お住いの形状など興味が尽きないところではありますが、今となっては推測しかできないのが残念です。

※佐々木氏は、宇多天皇の皇子・敦実親王が佐々木荘を本拠として佐々木氏を名乗ったことから始まります。源頼朝が挙兵した際に鎌倉幕府の創設に貢献し、近江国を領しました。その後、大原、高島、六角、京極、などに分家しましたが、近江国を二分する形で領有した六角氏と京極氏は、互いに戦いを繰り広げることになります。



なお、昭和29年に公募により判定された近江八幡市の市章は、佐々木六角に由来する六角と八幡の「八」を平和のシンボル鳩の形に置かれたものです。

​「崩御」

都からここに遷られたのは42歳をむかえられた時。19年間この海士で過ごされましたが、京都にお還りになることはついにかなわず、都から遠く離れた隠岐の地にて60歳で崩御されました。

その際には、隠岐の責任者であった守護職の佐々木義清※が涙したとされ、いわゆる監視役の立場にあった者でも後鳥羽院のお人柄に惹かれていたことがわかります。


           出雲源氏の祖 佐々木義清家紋「花輪違い」


 

※鎌倉幕府の御家人「佐々木義清」は、佐々木一族武将で佐々木秀義の五男。

出雲源氏の祖。(近江源氏の分流にあたります)。


隠岐 伊勢命神社(いせみことじんじゃ)


伊勢命神社の本殿


建築様式は「隠岐造」と呼ばれ

①屋根が出雲大社の「大社造」

②庇の部分が春日大社の「春日造」

③全体的な柱の立て方が伊勢神宮の「神明造」

3つの建築様式をあわせた、隠岐ならではの様式になっています。

*水若酢神社も「隠岐造」

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 神々の島「隠岐」& 後鳥羽院「海士町(あまちょう)」総集編[3]
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/19153963



源義経も眺めたであろう、栄村秋山郷の大自然


源義経が石柱を建て北野神を祀った地


古文書によると、この地の北野天満宮の創立は正暦4年(993)にさかのぼり、この年、北野に勧請されたのが始まりとされています。

二百余年後の文治3年(1190)には、源義経が当地を通過する際に、山上の地がすばらしい景色であるとしてそこに石柱を建て、北野神を祀って去ったと伝えられています。その後、文明8年(1467)に社殿を建立し、元禄8年(1694)には御本社と拝殿を再建、文化5年(1808)には御本殿向拝を取り付けたと伝えられています。現在は、3月25日に御戸開き、8月24日に前夜祭、8月25日に大祭、10月25日に御戸閉めが行われています。


栄村秋山郷 230年以上前の保存民家 外観


栄村秋山郷 230年以上前の保存民家 内観 囲炉裏のある部屋


平家落人伝説

秋山は、平家の落人伝説で有名です。文治年間(1185~89)に、平勝秀が源頼朝に敗れ、その一族が草津より逃れて、屋敷村に住みついたと伝えられています。牧之は、上結東の太右衛門老人から平家の落人にまつわる話を聞いています。

小松原の大屋敷跡は、昔、平家の落人がここへ住みついたが、雪がたくさん降るため、大秋山へ移ったという。また、上の原の山の大穴には、大女の妖怪がいて、平家一族の末裔の村長が、退治に行ったところ、名刀の蜥蜴麿(とかげまろ)が鞘から抜け出て、妖怪を真二つに斬り、元の鞘に収まった、と伝えています。また、牧之は、「よくよく考えてみると、平家は、こんな山の中を知ってはいなかっただろうから、秋山の平家は越後にいた城氏であろう」とも述べています。


栄村秋山郷 刀剣 蜥蜴(とかげ)丸


※参考:同じ刀工によるものなのか?古来より蜥蜴(とかげ)丸と称し、清和源氏の始祖、六孫王源経基により宝珠山 立石寺に奉納。

名称は無名伝舞草

舞草鍛冶は奥州東盤井郡舞草(現一関市)周辺に居住した刀工郡で、文献的には平安期からであるが現存する有名の物は殆ど他に類がない。僅かに鎌倉末期と鑑せられる物で「舞草」とのみ銘する物が現存する。舞草極めの物は、板目が大いに肌立って流れ、注直刃が総体に小沸がついて、匂い口が沈みがちで、一見、再刃物を見る趣の物がある。

(参考) 刀剣要覧 第22版 飯村嘉章 : 著

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG TOKIO 2020「源義経も驚き感動!栄村秋山郷の大自然の景観美と栄村の人々(その弐)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3943480



焼き和菓子「下剋上鮎」

鵜は西尾の抹茶味と黒糖味の2種類。鮎は「はつしも」米粉を使った高級砂糖味。

「鵜飼」という伝統漁法により、何千年にわたって鵜に食べられてきた鮎に謀反の時来たり。こうした想いを込めて作り上げました。


清流長良川 鵜飼

漁火が鵜匠の伝統の手綱裁きを美しく照らしてくれます。鵜舟は高野槙の手づくりです


玉井屋本舗のある岐阜の文化的景観「川原町地区」。軒先には岐阜提灯が涼やかに・・・
重要文化的景観「長良川中流域における岐阜の文化的景観」


文化的景観は、文化財保護法に「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」と定義されています。

つまり、地域の自然と人々の日々の生活によって形成された「身近な景観」ということができます。日本各地において、棚田などの農村、海沿いの漁村、都市の町並みなどが文化庁により選定されています。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-4 TOKIO 2020「麒麟がくる」の 明智光秀 × 「岐阜名物」鵜飼がモチーフ。焼き和菓子 ~下剋上鮎~考案!文化的景観 川原町地区の『玉井屋本舗』
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7452054



清和源氏まつりに関わる歴史について

今から千年あまり前、第56代清和天皇の曾孫に当たる源満仲が、川西の多田盆地に移り住み、天禄元年(970年)に多田院(現在の多田神社)を創建し、清和源氏の礎を築いた。

後世、鎌倉幕府を開いた源頼朝や全国に名を馳せた源氏武将たちは、満仲の子孫であり、川西市は「源氏と武士団発祥の地」と言われている。

清和源氏まつりは、この清和源氏の祖、源満仲公をしのび、「清和源氏発祥の地かわにし」の歴史、文化、観光をPRするため、毎年開催されています。


兵庫県川西市 清和源氏まつり 巴御前


清和源氏まつり 巴御前

清和源氏まつりは、毎年4月に清和源氏発祥の地である川西市の歴史や文化を広く市内外に発信しようと、鎧、兜に身を固めた源氏ゆかりの武将や馬上の巴御前、時代衣装に身を包んだ常盤御前・静御前、少年少女武者などが、絢爛な時代絵巻を繰り広げる懐古行列を中心とした煌びやかな歴史まつりになります。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 清和源氏発祥の地 【川西市】 張り子に無病息災や子どもの成長、新年への思いを込めて 「須磨張り子展」須磨で生まれた創作張り子を展示
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       平安時代 源為朝が発見したと伝わる塚原温泉
  かって三軒の旅館が営業していた頃の様子です


塚原温泉の歴史

塚原温泉の歴史は古く、今から800年ほど前の12世紀、平安時代に開湯したと伝えられています。大正から昭和時代にかけては、現在の立地に「宇佐屋旅館」、「泉屋旅館」、「由原屋旅館」の三軒の旅館が営業していました。

源 為朝(みなもとの ためとも)にまつわる伝説

塚原温泉には、平安時代の豪傑「源為朝(みなもとの ためとも)※」についての伝説が残っています。 12世紀、為朝が山で狩りをしていた時、傷ついたシカが湯溜まりに浸かり傷を癒しているのを見て塚原温泉を発見したと伝えられています。

※源為朝は源頼朝、義経兄弟の叔父にあたり、剛柔無双を謳われた。身長は2m以上あり剛弓の使い手であった。幼少期より荒くれ者で、父・為義により九州へ追放。ところが九州を制圧して鎮西八郎を名乗りました。

源義経が生きのびて、チンギス・ハーンになったという伝説がありますが、源為朝は琉球に渡り、その子が琉球王 舜天となったという話があります。

真意の程はわかりませんが、琉球正史「中山世鑑」や琉球歌謡集「おもろさうし」※に記載されています。

※「おもろさうし」とは1531年から1623年にかけて首里王府により編纂された歌謡集です。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-3 TOKIO 2020 別府八湯の温泉源 伽藍岳の中腹「平安時代 源為朝が発見したと伝わる塚原温泉」見参!
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6850284



明智光秀が築いた福知山城と堤防の名残“通称・明智藪”


明智光秀が築いた福知山城(右奥)と堤防の名残“通称・明智藪”


戦国武将・明智光秀がこの場所に城下町を築く際、暴れ川であった由良川の治水に力を注いだと伝わっており、近年でも過去6年で4回もの水害が発生するなど、多くの水害と戦ってきた歴史がある。

福知山市は、京都府北部・丹波地域に位置する北近畿の交通の要衝である。織田信長の命を受けた戦国武将・明智光秀の「丹波平定」により光秀の領地となり、現在の福知山市への礎となる福知山城と城下町が築かれた。

この他市民の願いにより光秀の魂を祀ることとなった御霊神社、一級河川の由良川や大江山鬼伝説など、豊かな歴史や文化、自然が今も残るまちである。平成18年、三和町・夜久野町・大江町と福知山市が合併した。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 伝説の地・大江山「鬼の博物館」で、没後1000年を記念 鬼退治の英雄・源頼光(よりみつ)の特別展を開催!
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/19515826



近江八幡 安土城天主


城郭建築研究の第一人者、(故)内藤昌氏(当時名古屋工業大学及び東京工業大学教授兼任。1993年愛知産業大学学長歴任。名古屋工業大学名誉教授)セビリア万博展示の原寸大に復元された安土城天主は内藤案によるものである。

「安土エリア」見所ご紹介

安土城跡

近江の守護佐々木六角氏の居城“観音寺”や織田信長公の最後の居城“安土城”など歴史的な舞台となったエリア。 ハイキングやサイクリングで、四季の彩りを感じつつ戦国武将ゆかりの社寺仏閣や足跡めぐりがおススメです。


ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~ 織田信長公にえらばれし町 ~ 近江八幡市の見どころ(Ⅱ)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/16312538



日本遺産~麒麟獅子舞~

日本海の風生んだ絶景と秘境-幸せを呼ぶ霊獣・麒麟が舞う大地「因幡」


人々は,厳しい風の季節での無事とそれを乗り越えた感謝を胸に,古来より幸せを呼ぶ麒麟獅子を舞い続け,麒麟に出会う旅人にも幸せを分け与えています。

麒麟獅子舞とは

麒麟とは、中国の想像上の動物で、古来より、他の生き物を傷つけない泰平の世の象徴とされた霊獣です。鳥取県東部(因幡)と兵庫県北但西部(但馬)には、この麒麟に扮して舞う「麒麟獅子舞」という幻想的な伝統芸能が伝わっています。 麒麟獅子舞は、人々に幸福をもたらす芸能として因幡・但馬の地域に愛されており、約150の村々に受け継がれ、春と秋に行われる神社での例祭を中心に、ほぼ1年を通じて舞われています。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 伝説の里 八頭町とは ~ 「日本遺産 麒麟獅子舞~白兎伝説~日田集落まで…」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/7248542



毛越寺について

毛越寺の由来

白鹿伝説

寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師が東北巡遊のおり、 この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。 ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。 大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっておりました。 大師が近づくと、白鹿は姿をかき消し、やがてどこからともなく、 一人の白髪の老人が現われ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げました。 大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号しました。 これが毛越寺の起こりとされます。

寺名の読み

毛越寺はモウツウジと読みます。

通常、越という字をツウとは読みませんが、越は慣用音でオツと読みます。 従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したものです。


毛越寺 名勝「浄土庭園」


『毛越寺浄土庭園』浄土庭園とは仏堂と苑池とが一体として配された庭園で、 毛越寺では北に塔山と呼ばれる小山を背景として、広々とした苑地美観が展開します。 

大泉が池は浄水をたたえ、その周辺には、州浜、荒磯風の水分け、浪返しにあたる立石、 枯山水風の築山といった石組みや、池に水を引き入れる遣水など、自然の景観が表されています。 

日本最古の作庭書「作庭記」の思想や技法を今に伝える貴重な庭園として、 800有余年を経た現在も、四囲の樹木の景観と相まって、なお変わらぬ美しさを見せています。


藤原氏系図


毛越寺 藤原三代当時の栄華を偲ばせる


毛越寺の善美

造営年代

古来幾多の戦闘が繰り広げられた奥州を仏教によって浄め、陸奥辺境の地を仏国土とするという初代清衡の掲げた理想は、中尊寺となりました。二代基衡はそれを正しく受け継ぎ、さらに発展させていったのです。中尊寺をはるかに上回る規模で造営した毛越寺は、その所産でありました。

その造営年代を明記した史料はありませんが、『吾妻鏡』文治5年9月17日条にみえる平泉衆徒提出文書には、次のように記されている箇所があります。

「一 毛越寺の事  堂塔四十余宇、禅坊五百余宇なり。  基衡これを建立す。まず金堂を円隆寺と号す。(中略)講堂・常行堂・二階の惣門・鐘  楼・経蔵等これあり。九条関白家、御自筆を染めて額をくださる。参議教長卿は堂中  の色紙形を書するなり。(中略)かくの如き次第、鳥羽禅定法皇の叡聞に達し…」 

これによって、九条関白忠通、参議藤原教長、鳥羽禅定法皇、基衡4人の共存関係から造営年代を推定すると、久安6年(1150)末から保元元年までの約6年の間の造営であったことになります。

この期間は、清衡の死後24年目から29年目までの間にあたり、基衡晩年になってからの造営になります。中尊寺造営が清衡晩年であったこととも符号する年代です。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG TOKIO 2020「吾朝無双 【毛越寺】広々とした苑地美観が展開 その起こりは薬師如来の化身 白鹿 ~世界文化遺産~(その壱)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2849489/



ふるさと三河、岡崎公園に建つ威風堂々たる徳川家康公銅像

『荵苳酒(にんどうしゅ)』は尾張最古の銘酒で、創業は慶長2年(1597)です。犬山城主が将軍家に献上しており、徳川家康も好んで飲んだと伝わっております。


犬山 小嶋醸造 忍冬酒

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 徳川家康も好んで飲んだと伝わる 尾張最古の銘酒『荵苳酒』と犬山の見どころ!
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7686814



金沢市 加賀藩祖前田利家公と正室お松の方を祀る「尾山神社」に建つ
太閤秀吉の盟友で、加賀百万石の礎を築いた槍の名手 前田利家公の銅像


加賀藩とは

加賀藩は、江戸時代に加賀・能登・越中(富山県)を統治していた藩で、藩主は前田家です。

前田家の初代(加賀藩祖)は、利家で、前田家は、加賀藩1代目の利長から13代目の慶寧(よしやす)まで、約260年にわたり加賀藩を治めてきました。

江戸幕府を除くと、日本で一番大きかった藩が加賀藩(102万石)で、いわゆる加賀百万石と言われる所以です。

前田家の初代の利家は、織田信長に仕え、豊臣秀吉の時代には、徳川家康と並ぶくらいの高い地位(五大老の一人)にありました。

秀吉の死後、徳川家康は新しい体制を作ろうと暗躍するのですが、利家は豊臣寄りだったこともあり、家康との対立が度々ありました。

そのため、徳川幕府になってからも、加賀藩は幕府から謀反(むほん)を疑われ、加賀藩は謀反を疑われないよう自分の藩や土地を守るということに尽力しました。

加賀藩は、徳川幕府の顔色を伺いながらも、日本一の石高(102万石)を獲得し、それを死守するという、バランス感覚と立ち回りが上手い藩だったようです。

参考文献:

・能登印刷出版部 「金沢謎解き街歩き」(実業之日本社,2015年)

(詳細は本文にて・・・)

観光客も含め、近郷近在から大勢の方たちが集まり「氷室開き」湯涌温泉にて


ZIPANG-7 TOKIO 2020 【氷室開き】 江戸時代加賀藩が徳川家に氷を献上していたことに由来する伝統行事
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/44764560



長浜曳山まつり「こども狂言(歌舞伎)」


長浜曳山まつり一番の見所「子ども狂言(歌舞伎)」


長浜曳山まつりは、長浜八幡宮の春の祭礼です。

その始まりは、羽柴(後の豊臣)秀吉が、今浜(今の長浜)に初めての城を構えたころまでさかのぼります。(秀吉は織田信長の一字をとり長浜とする)

長浜曳山まつりの一番の見所は子ども狂言(歌舞伎)です。  長浜の子ども狂言(歌舞伎)は、寛保2年(1742)の台本や、明和6年(1769)以降の外題記録などから、この頃から歌舞伎が行われていたことがわかっています。長浜の町衆は祭礼に出る曳山と当時流行っていた歌舞伎をつないでいち早く取り入れ、まちなかを巡行させて移動芝居の場に仕立て、今日あるような祭礼をつくりあげました。

長浜では歌舞伎のことを「狂言」または「芸」と呼び、曳山を持つ町(山組)の5歳から12歳くらいまでの男子によって演じられます。演目は曳山の四畳半舞台と子ども役者用にアレンジされます。また、毎年新しい演目で演じられ、長浜独自の外題(題名)がつけられます。上演時間は約40分で、本番の前に行われる線香番と呼ばれる公開稽古で時間が計られます。子どもたちの稽古は振付師の指導により、3月下旬(春休み)から4月の祭本日まで約3週間行われ、まず読み習いがあり、それに続いて立ち稽古を行い、最終的に三味線・太夫と合わせて本番を迎えます。


曳山は、前方が子ども狂言(歌舞伎)が行われる舞台に、幕で囲まれた後方は楽屋になっています。また、亭(ちん)と呼ばれる2階部分では囃子(しゃぎり)を演奏します。


太閤秀吉図

湖北は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉の天下統一への胎動のなかに巻き込まれていました。とくに長浜は、秀吉が一国一城の主となった最初の拠点であり、彼の城下町経営の基本パターンを醸成したところでもあります。

~長浜曳山まつりの由来~

安土桃山時代、長浜城主だったころの豊臣秀吉に初めての男の子が生まれました。
喜んだ秀吉は城下の人々に金(きん)を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりといわれています。


太閤秀吉と長浜~石田三成との出会い~

ZIPANG TOKIO 2020「無形文化の伝承こそ長浜市の誇り!ユネスコ無形文化遺産 日本三大山車祭『長浜曳山まつり』4月開幕!」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3782782



関ケ原松尾山・小早川秀秋陣跡からの眺め


関ケ原合戦の様子 東軍 残念ながら徳川秀忠の本隊は信州で真田軍に足止めを食らい間に合わなかった。


関ケ原では、日本の歴史上避けて通れない大きな“天下分け目の戦”が二度ありました。

672年、大海人皇子と大友皇子による、日本最大の内乱「壬申の乱」。

そして1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が東西を二分するこの地で繰り広げた、戦国最大ともいわれる天下分け目の戦「関ケ原の戦い」。

この二度の戦がなければ、今の日本はガラリと変わっていたかもしれません。

(詳細は本文にて・・・)


関ケ原地図


ZIPANG-2 TOKIO 2020~この国の原点の風景が息づく~「関ケ原古戦場グランドデザイン(その1)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5571800



むらさき麦


〜古から✹むらさき✹

色の藤川宿(岡崎市)は天下人家康の生誕地 〜

「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」 芭蕉


岡崎 大樹寺山門


第二十三番札所 成道山 松道山 大樹寺【浄土宗】

本尊

木造阿弥陀如来坐像

お地蔵さま情報

木造地蔵菩薩立像(春日局の持仏)/場所:本堂内左手の厨子

創建

応仁元(1467)年

由緒・歴史

松平家、徳川将軍家の菩提寺として知られ、松平4代・親忠(家康公より5代前の先祖)によって創建されました。親忠は応仁元(1467)年、井田野の合戦で勝利し、敵味方の区別なく戦死者を葬った塚を「千人塚」と呼びましたが、その後、悪病など災いが多く起こったため、仏堂を建てて勢誉愚底上人7日間の別時念仏を行い供養しています。

この念仏堂は後の西光寺で、その後、親忠は菩提寺として大樹寺を建立し、愚底上人を開山としました。

家康公は19歳で桶狭間の合戦に出陣しましたが、大将である今川義元の討死で敗軍の将となり、逃げ帰った大樹寺で自刃しようとしました。

しかし住職の登誉上人によって生きる意味を諭され「厭離穢土欣求浄土」の言葉を授かって座右の銘とした後、幾多の試練を乗り越えて天下統一の大偉業を成し遂げたことから立志開運の寺とされます。


岡崎 大樹寺から岡崎城を望む


山門(県指定文化財)/ビスタライン

寛永18(1641)年に三代将軍家光公によって建立されました。楼上には後奈良天皇の勅額「大樹寺」(重要文化財)が掲げられ、釈迦三尊像と16羅漢が安置されています。本堂からは山門、総門を通して岡崎城を遠望できる「ビスタライン」は大樹寺の見どころのひとつで、この景観の保護は市の条例で定められています。

宝物拝観

大樹寺に代々伝わる貴重な文化財(絵画、工芸品など)を鑑賞することができます。家康公は病床で「遺体は駿河久能山に葬ること、葬礼は江戸増上寺で行うこと、位牌は三河大樹寺に立てること、一周忌が過ぎたら下野日光山に小堂を建てて勧請し、これにて関八州の鎮守とせよ」という遺言を残しました。以来、歴代将軍の位牌が大樹寺の位牌堂に納められ、位牌の高さはそれぞれの将軍の身長に合わせてあると伝えられています。


「おかまいり」ってなに?

江戸時代後期にさかんになった城下の神社を巡る「岡崎十二社」と、寺院の地蔵尊を巡る「岡崎三十六地蔵」のふたつの霊場巡りです。200 年前の人々と同じ道を、同じように歩いて巡ることで、岡崎の歴史の豊かさを感じながら、特別な場所との出会いを楽しんで下さい。


「家康公の産土神」楼門前の石段は5万石以上の大名しか上ることができなかった


第一番札所 六所神社

祭神

塩土老翁命(安産の神様/しおつちのおじのみこと)

猿田彦命

衝立船戸命(つきたつふなどのみこと)

太田命

興玉命(おきたまのみこと)

事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)

創建

600年代

由緒・歴史

由緒によれば、37代斎明天皇(655~661年)の勅願によって、奥州塩竃六所大明神が勧請され、神領の寄進を受けて創立されたと伝えられています。

その後、桓武天皇(781~806年)の時代、坂上田村麻呂が東夷征伐に向かう折に祈願し、天皇に願い出て許可を得たことで再建され「六所大明神」の勅額(天皇が神社に特別に与える直筆の神額)をいただいたとの言い伝えもあります。

産土神として松平家・徳川家の崇敬が篤く、天文11年(1542)には竹千代君(家康公)ご誕生の折にも拝礼されたことから「家康公の産土神」として江戸幕府の厚い保護を受け、楼門前の石段は5万石以上の大名しか上ることができなかったそうです。

江戸幕府が開かれる前年の慶長7年(1602)、六所神社は家康公からご朱印状と62石7斗を贈られ、慶長9年(1604)には社殿を造営して神器の品々をくだされました。

3代将軍家光公も、寛永11年(1634)上洛の折に岡崎城から遥拝し、名代である松平伊豆守を使わして100石が加増されました。

朱印状には「六所大明神は東照大権現降誕の地にある霊神なり、是を以て崇敬他と異なり」とあります。家光公はさらに寛永11年(1634)から寛永13年(1636)にかけて、御普請奉行・本多伊勢守と神主大竹大膳久次に社殿と神供所を造営させたことで、本殿、幣殿、拝殿が連結した華麗な彩色の権現造の社殿が完成しました。

貞享51年(1688)には楼門が建てられ、現在では本殿・幣殿・拝殿・楼門・神供所と御神体を納める御厨子6基、社殿の棟札6枚と共に国の重要文化財に指定をされています。

昭和48~51年(1973~1976)と平成26~29年(2014~2017)に、大修復工事が行われ、建立当時の美しさがよみがえった六所神社は、現在も「安産の神様」として信仰を集めています。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-5 TOKIO 2020速報“おかまいり”知ってますか?200 年前の人々と同じ道を、同じように歩いて神社と寺院を巡る!
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