令和5年11月度 御報恩御講 住職法話
令和5年11月度 拝読御書
『高橋入道殿御返事(たかはしにゅうどうどのごへんじ)』
建治元(1275)年7月12日
「末法(まっぽう)に入りなば迦葉(かしょう)・阿難(あなん)等、文殊(もんじゅ)・弥勒菩薩(みろくぼさつ)等、薬王(やくおう)・観音(かんのん)等のゆづ(譲)られしところの小乗経(しょうじょうきょう)・大乗経(だいじょうきょう)並びに法華経(ほけきょう)は、文字(もんじ)はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其(そ)の時上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提(いちえんぶだい)の一切衆生にさづくべし」
(平成新編日蓮大聖人御書 887㌻5~7行目)
【背景】
本抄は、建治元(1275)年7月12日日蓮大聖人様御年五十四歳の時、身延において認(したた)められ、駿河国富士郡加島(現在の静岡県富士市)に住む、高橋六郎兵衛入道(たかはしろくろべえにゅうどう)に与えられたお手紙です。高橋家は、姻戚関係にあった日興上人の教化(きょうけ)によって入信したものと考えられます。内容は、まず釈尊が迦葉(かしょう)等の弟子や文殊(もんじゅ)等の菩薩に、滅後正法(めつごしょうぼう)・像法(ぞうほう)時代の衆生救済を託したものの、八万聖教(はちまんしょうぎょう)の肝心・法華経の眼目(がんもく)である妙法蓮華経の五字については、ただ上行菩薩のみに譲られたことを示されます。そして拝読の箇所では、末法の衆生の心身にわたる重病を癒すには、上行菩薩が付嘱(ふしょく)された妙法五字でなければならないことを教えられています。
続けて、法華経の文々句々を悉く心読し、忍難弘通(にんなんぐづう)の日々を送られた御自身こそ法華経の行者、即ち上行菩薩の再誕であり、大聖人様が説き示される南無妙法蓮華経だけが成仏の直道(じきどう)である旨を御教示されています。更に、当時、朝廷や幕府に重んじられていた真言宗は大悪法であると説き、阿闍世王(あじゃせおう)の悪瘡平癒(あくそうへいゆ)の例を挙げて、大良薬(だいろうやく)である妙法を固く信じて病気を克服するよう闘病中の高橋入道を励まされ、本抄を結ばれています。
【対告衆】
高橋六郎兵衛入道
駿河国富士郡加島(現在の静岡県富士市)に住んでいた鎌倉幕府の御家人。総本山第六十七世日顕上人(にっけんしょうにん)は入道の帰依の時期について、「高橋入道殿という方は、大聖人様がおそらく鎌倉で法華経の弘通をあそばされた頃、すなわち文応元年から文永七年の間の頃に、進士善春(しんしよしはる)とか四条金吾(しじょうきんご)とか、その他いろいろな御信徒の方が鎌倉の弘通(ぐづう)において大聖人様の御法門を聞いて信者になられているわけですが、この頃に信者になった方と思われます」と、入道の帰依は四条金吾等が帰依した時期(文応元年~文永七年頃)と御推測されています。また入道の夫人について総本山第二祖日興上人は「高橋六郎兵衛入道の後家尼(ごけにん)は、日興の叔母なり」(弟子分本尊目録・歴全九三㌻)と、日興上人の叔母に当たると記され、また総本山第六十六世日達上人は「妙心尼(みょうしんあま)は日興上人の叔母で、加島の高橋六郎兵衛殿の室(妻)」と、入道の夫人が妙心尼と仰せられています。また夫人は、妙心尼以外に持妙尼・窪尼とも称されているとも仰せられています。夫人が大聖人様に帰依した時期は、夫の帰依と同時期か、それともそれ以前かは不明です。
【御文拝読】
末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。
〔語句の解説〕
・ 迦葉(かしょう)・阿難(あなん)…①迦葉(摩訶迦葉(まかかしょう))は釈尊の十大弟子の一人で頭陀(ずだ)第一(欲望を制する修行)。②阿難は釈尊の十大弟子の一人で多聞(たもん)第一。両者は、釈尊滅後に付法藏(ふほうぞう)(※1)の第一・第二として経典結集(きょうでんけっしゅう)(※2)を行い、小乗経を弘通した。
(※1) 付法藏(ふほうぞう)…釈尊から教え聞いた教えを次の世代に伝えること。
(※2) 経典結集(きょうでんけっしゅう…釈尊の説かれた教え(口伝(くでん))を書き物として纏めたこと。
・ 文殊(もんじゅ)・弥勒(みろく)…文殊菩薩(※1)と弥勒菩薩(※2)。釈尊在世にその化導を助けた。正法時代(像法時代とも)に再び出現し、諸大乗経(しょだいじょうきょう)を弘めたとされる。
(※1) 文殊菩薩…法華経『序品(じょほん)第一』において、文殊は過去世に妙光(みょうこう)菩薩として、日月灯明仏(にちがつとうみょうぶつ)の八人の子供を化導し、みな仏道を成じた。その中で最後に成仏した者を燃灯(ねんとう)といい、燃灯仏(ねんとうぶつ)の弟子が釈尊であったと明かしている。
(※2) 弥勒(みろく)菩薩…遠い未来世に、釈尊の仏位を継ぐとされる菩薩(一生補処(いっしょうほしょ)の菩薩)で、今は須弥山(しゅみせん)の上空にある兜率天(とそつてん)の内院に住しているとされる。五十六億七千万後に娑婆世界に生まれて、竜華樹(りゅうげじゅ)の下で成仏し、釈尊の時に洩れて救われなかった人界・天海の衆生を救うとされる。
・薬王(やくおう)・観音(かんのん)…薬王菩薩(※1)と観世音菩薩(※2)。薬王は天台大師(てんだいだいし)、観音は南岳大師(なんがくだいし)として像法時代に再誕し、迹門(しゃくもん)を中心に法華経を弘めた。
(※1) 薬王菩薩…法華経『薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第二十三』に、過去の日月浄明徳仏(にちげつじょうみょうとくぶつ)の世に、一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん)菩薩が法華経を聞くことを得た恩に報いるため、自らの身を焼いて仏を供養し、その身が尽きた後、再び同じ仏のもとに生まれ、仏の涅槃に当たって、自らの両臂(りょうひじ)を焼いて供養した。この菩薩こそ薬王菩薩である。と説かれる。
(※2) 観世音菩薩…法華経『観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぽん)第二十五』に、西方の観世音菩薩が娑婆世界で三十三身(さんじゅうさんしん)を現じて災禍(さいか)・苦悩の中にある衆生を救済すると説いて、法華経の流通(るつう)を勧めている。
・小乗経・大乗経並びに法華経…小乗経・大乗経とは法華経以前の教えを指し、法華経とは釈尊の文上の教えを指す。
〔通釈〕
末法に入ると迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等が譲られた小乗経・大乗経ならびに法華経は、文字はあっても衆生の病の薬となることは決してない。言わば、病は重く薬(の効果)は浅いということである。
〔解釈〕
ここでは、末法時代に持つべき教えを示されています。即ち、末法時代は百法隠没(ひゃくほうおんもつ)の時代とされ、釈尊の説かれた法華経でも成仏することができない時代と釈尊御自身が説かれています。釈尊の法華経で成仏できないのであれば、それ以前の小乗経・大乗経等の教えで成仏できるはずはありません。この教えを文字と示され、末法時代の人々の苦しみを病と示され、文字では苦しむ人の病を治す薬とはなれないと示されています。
【御文拝読】
其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。
〔語句の解説〕
・上行菩薩…法華経『従地涌出品(じゅうじゆしゅつほん)第十五』に出現する地涌(じゆ)の菩薩の上首(じょうしゅ)。法華経『如来神力品(にょらいじんりきほん)第二十一』において釈尊から結要付嘱(けっちょうふぞく)を受け、滅後末法の妙法弘通を託された。その上行菩薩の再誕こそ日蓮大聖人様である。
・妙法蓮華経の五字…日蓮大聖人様が説き現された妙法蓮華経(文底(もんてい))のこと。
〔通釈〕
その時上行菩薩が出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に授けるのである。
〔解釈〕
ここでは、末法時代に持つべき教えを示されています。即ち、前文の末法時代では釈尊の教えでは人々は救われない。との御指南を受けて、末法時代は法華経『如来神力品第二十一』で釈尊より上行菩薩へ御付嘱(結要付嘱)があった、上行菩薩が再誕されて、教えを説かれ、その教えによって人々は成仏することができることを示されています。その上行菩薩の再誕とは、法華経弘教により数々の御法難に遭われながらも、決して弘教を止められなかった日蓮大聖人様であり、且つ大聖人様は、御本仏様であります。
【御妙判を拝して】
拝読の御妙判では、現代の我々が信仰すべき教えについて仰せられています。と同時に、現代の人々を「閻浮(えんぶ)の内の人は病の身なり」(高橋入道殿御返事八九一㌻)と、助かるべき薬を知らぬ故に病の身であると仰せられています。また大聖人様は、「豈(あに)知るも知らざるも服せん者煩悩の病ひ癒えざるべしや。病者は薬をも知らず弁(わきま)へずといえども服すれば必ず癒(い)ゆ」(『聖愚問答抄(しょうぐもんどうしょう)』四〇八)と、現代に合った薬と、その効能を知らずとも薬を服用すれば自然と病を癒すことができるとも仰せられています。大聖人様は、我々が服するべき薬について、「法華経の薬あり、三事(さんじ)すでに相応(そうおう)しぬ、一身(いっしん)いかでかたすからざるべき」(高橋入道殿御返事八九一㌻)と仰せられ、この御文について、日顕上人は「『法力』が法華経の力、『仏力』が日蓮大聖人様、『信力』『行力』を一つにしたものが、閻浮提人(えんぶだいにん)の病の者たち(中略)その『仏力』『法力』『信力』『行力』が一つになって、三事相応(さんじそうおう)して真の利益(りやく)を得ることができる」(『大白法』平成七年十一月十六日号)と解釈されて、末法時代に御出現の御本仏大聖人様(仏)が説かれた法華経(法)こそ、今我々が服すべき薬であり、その所以は、(一)末法時代に説かれた法華経(法力)、(二)上行菩薩の再誕にして御本仏である日蓮大聖人様(仏力)、(三)この仏力・法力を信じる者(信力・行力)の三事が相応して得られる功徳であると示されています。
御法主日如上人猊下は「末法今時(まっぽうこんじ)の本未有善(ほんみうぜん)の衆生(しゅじょう)に対しては、真心を込めて法華経、すなわち本因下種(ほんにんげしゅ)の妙法を、確信と断固たる決意を持って『とてもかくても』説いていくことが肝要」(『大日蓮』令和五年三月号)と御指南されています。末法時代の現代に生きる我々は、過去に一度も仏様にお遭いしたことが無い人々(本末有善)であり、成仏する種・原因ができないと説かれています。また我々は、己れ自身の力では、正しい仏様を知ることができず、そして縁することもできないのです。しかし我ら日蓮正宗の僧俗は、宿縁深厚(しゅくえんじんこう)によって値(あ)い難き仏様に遭い、そして帰依し信心を行っており、日顕上人仰せの「三事相応」した者達で、御本尊様から多くの功徳を得ている幸せな僧俗なのです。これらは自分自身によって得られる行為・仏道修行とは自行でありますが、しかし本当の功徳を得るためには、自分だけの功徳だけでなく、自分以外の人も功徳を得られるよう努め、そして共に罪障消滅を得ていくことこそ、即ち化他行に励む時、本当の功徳を得ることが叶うことを忘れてはいけません。日如上人は「『とてもかくても』説いていくことが肝要」と仰せです。相手を下種し折伏し、相手が素直に信心できれば、相手は罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)の功徳、そして成仏得道の功徳を得ることができるでしょう。逆に下種し折伏しても入信に至らなくても、我々が行った折伏の種が相手の命に留まり、どれ程の時間がかかるかは判りませんが、相手も必ず罪障消滅そして成仏へと進むことができるのです。ですから、「とてもかくても」と、とにかく折伏を行じることが大事だと日如上人は仰せなのです。
以上