【スペシャルインタビュー】歴史研究家・磯田道史先生が知られざる長岡京の歴史を語る!の巻
まもなく長岡京市のNO.1イベント・ガラシャ祭が開催されます!
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公が明智光秀に決まったということもあって、長岡京市はお祭りムードが漂います~。
今回は、歴史研究家の磯田道史先生にスペシャル企画として、長岡京の知られざる歴史、地域の活性化についてお話をおうかがいしてきました。
先生は現在、京都市内にある国際日本文化研究センターの准教授。大ヒット映画『武士の家計簿』などの著者としても知られ、調査、研究、執筆、テレビ出演…と超ご多忙です。
「光秀の大河ドラマ化にともなって福知山公立大学で講演される」という情報を入手し、京都駅から福知山駅までの移動中に貴重なお時間をいただきました。
「長岡京は知られざる歴史の宝庫だよ」
―磯田先生、お忙しいなか移動時間にまでご一緒してしまってすみません。本日はよろしくお願いいたします。
磯田 お願いします。
―いきなりですが、長岡京市での思い出はありますか?
磯田 私は「とにかく京都の史跡が見たい」ということで、岡山の高校卒業後、京都府立大学文学部史学科に進学して、1回生の時は京都市内に住んでいました。(その翌年から慶應義塾大学へ入りなおした)ある日、自転車に乗って山崎の合戦の古戦場を見に行こう!と思い立って、無謀にも自転車をこいで、片道約20キロの道のりを京都市内から長岡京をぬけて大山崎へと向かいました。途中で自転車がパンクするトラブルなんかもあったりして。(笑)修理代を持っていたのでなんとかたどり着きました。30年も前のことですけどね。
―長岡京市といえば、かつて都・長岡京が置かれたり、明智光秀の娘・ガラシャが輿入れした細川忠興の居城・勝龍寺城があったり、山崎の合戦で光秀が本陣を置いたり…と、さまざまな歴史的スポットがあり見所は多いのですが、今ひとつ知られてないのです…。
磯田 私からすると長岡京市はそれこそ文学や映像化するものがてんこ盛りだと思いますよ。知られざる歴史の宝庫なんじゃないかな。
―先生はどういった“知られざる宝モノ”をご存知ですか?
磯田 いっぱいあるよ~。例えば、長岡京市って古墳が多くて、ユニークな形の埴輪も出土してるよね。あと確か、古代ローマ帝国の職人が作ったガラス玉も出土したしね。ローマとつながっている長岡京ってすごいよね! “ローマの道は長岡京へ続く”っていう企画で、ローマ、ガラス、キリスト教、ガラシャ、長岡京みたいなおもしろい切り取り方もできるわけで、掘り起こすと面白いものがたくさんあるよね。
―なるほど!!ありがとうございます。SENSENAGAOKAKYOのお役目として、地元の方たちに地域の魅力を再発見してもらうためにも、ぜひとも次回記事にしたいと思います。いいですか?
磯田 いいよ~。
大河ドラマ誘致の裏話がスゴすぎた!どうやって大河呼ぶ?
―さて、先生は現在放送中のNHK大河ドラマ『西郷どん』の時代考証だけでなく、その前に放送された『おんな城主直虎』の誘致にも一役かわれたそうですね?
磯田 そう、静岡県浜松市の大学で地震や津波の研究をしていた時ね。
わたし、がんばったんだよー。やっぱり誘致するための一番のキーワードは「歴史の見える化」、日本はその点がすごく遅れている。浜松の三方ヶ原古戦場も石碑がたってるだけだった。観光客はみても面白くない。この見えない過去の歴史をどうやって興味深く見せるかという「見える化の工夫」が、地域おこしには、非常に重要になってくる。腕の見せどころだね~。
―具体的にどういうことをされたんですか?
磯田 まず、浜松城主だった徳川家康。その家康が見えないんですよ。(笑)。それで家康のリアルな「等身大の生き人形」をつくることにしました。浜松はモノづくりの町ということで、浜松城主だった頃の若かりし家康に近い姿の人形を作ろう!って、これなら観光客が来ても喜んでくれるんじゃないかと思ったんです。
家康は、老いてからは、たくさんの絵画史料や文献が残っている。そこで家康老人の肖像史料をあつめて、特殊メイクのトップアーチストのところへもっていって、30歳ぐらいの家康の姿を再現しました。家康には、爪を噛むクセがあったから爪を凸凹にしてもらう、さらには毛穴に至るまで細部まで“リアル”に表現することにこだわりました。あと、日本一のジオラマ作家が浜松に在住しておられたので、この方にお願いして、合戦シーンをジオラマで再現してもらいました。このジオラマは精密です。さすがに、トップアーチストの仕事は見上げたもので、足軽一人一人の性格までも人形の表情にあらわれている作品ができました。こうやって、各方面のプロを集めてね。
最終的に、ゆるキャラ“出世大名家康くん”まで応援しちゃって。(笑)
―すごい!なんでもやる歴史学者!!でも主人公は家康にはならなかったですよね?
磯田 そう、いろいろやったけど、家康はすでに何回も登場しているので、このままでは誘致できません。そこで、戦国時代、女性で城主や武将だった人を直虎も含めて四人ほど、リストアップし、あらすじがわからない無名の女性を主役にしてみては・・・と、四人の女性歴史上の人物をとりあげて、その解説をNHKの方々にした覚えはあります。そうこうしているうちに、直虎に決まったという知らせがきました。さあ、ぼくの話が影響したのやら、どうやら。
―なるほど~、そんな裏話があったんですね。驚きました!先生、大河ドラマ来てほしい~って思った時に、決め手となることってどんなことでしょうか?
磯田 やっぱり、地元でしっかりとした歴史研究がなされている、基礎研究をしていたというのが、重要でしょうね。その証として良質な冊子やパンフレットが発行されていたり。
あとは、観光とか映画とか、なんらかの産業と連携していることがとても大事だと思いますね。そのあとに、その人物の世間での人気です。
長岡京市のNO.1イベント「ガラシャ祭」。今年は脇役にも注目して
―先生、長岡京には一般市民がガラシャと細川忠興の輿入れ行列に扮する「ガラシャ祭」というBIGイベントが11月にありますので、細川家やガラシャ、光秀にまつわる知られざるエピソードを教えてください。主役のほか、側近たちまで配役がきっちりとあるところも興味深いポイントなんですよね。
磯田 細川藤孝(幽斎)は織田信長から当時「長岡」と呼ばれていて、今の長岡京市と向日市にまたがる一帯を領地としてもらいました。簡単にいうと、細川家は古代に都が造営されて放置されてから、農村となっていた長岡京を戦国末期にひらいた家族です。
光秀は藤孝の家来だった時期があり、中間(ちゅうげん)という荷物運びなどをする雑務従事者でした。実は光秀、主人を「小さく」裏切る行為を細川時代にも一度やっています。
―え?裏切り癖が…「本能寺の変」だけではないんですか?
磯田 はい、そうなんです。『武功雑記』といって、平戸藩松浦家が武家の間に飛び交っていた噂話を書き留めた江戸時代の資料をみると、光秀と細川家の同僚や旧来の家臣たちとそりが合わなかったことがわかります。あるいは『老人雑話』という光秀と同時代を生きた人の老後の回想録にも、同様のことが書いてあります。
特に折り合いが悪かったのが、松井とか米田といったような、のちに、細川家の家老になるお偉いさんだったのかもしれません。とにかく、光秀は細川家で、うまくいっていなかった。そんな光秀は、常々、織田信長に奉公したいと願っていたみたいです。
―信長と会うチャンスがあったんですか?
磯田 信長は当時、最も勢いのある権力者だったので、実力のある者をどんどん家臣に登用していました。ちょうどそのとき、藤孝から信長の元へ使いを頼まれたんです。
織田家についた光秀は側近に「家臣にしてほしい」と猛アピール。その日たまたま機嫌がよかった信長に採用されました。
―トントン拍子で家臣になってしまったんですね。スゴい…。そもそも光秀ってどういう人だったんですか?
磯田 諸説ありますが明智光秀は、美濃の国(現在の岐阜県)で生まれたみたいですね。とても戦乱の多い地域だったことから、明智家は没落して放浪を余儀なくされたみたいです。ところが、この明智家、ずば抜けて見た目が美しい家族。光秀は、超イケメンでものすごい野心家、さらに頭脳もピカイチと3つのズバ抜けた才能があったので、なんでもできる!と自己肯定感の強い人間だったと思います。
―すべてのことにおいて自信満々キャラだったんですね。
磯田 はい。ここからが光秀という人間のスゴいところで、信長様の家来になったのだから、もう細川家には帰る必要はナシ!と勝手に判断し、信長から細川家への用は飛脚で届けたといいます。
そんな超合理的主義で自分にだけ滅私奉公をしてくれる光秀を信長は大変気に入っていたのですが、一方、仁義も切らずに、「やめます」とだけ飛脚をよこした細川家は裏切られた気分になります。でも光秀からすると細川家にはいい思い出がないので、仁義を切ることはしなかった。
―とはいえ、細川家に娘・ガラシャ(お玉)を嫁に出してますよね?
磯田 そう、ここからがおもしろい。この娘はヨーロッパまで知れ渡る絶世の美女。細川家もしたたかです。信長の家臣としてどんどん出世していく将来有望な光秀を利用しようと考え、室町幕府の臣から細川家の重臣となった松井康之が面会に行くわけです。
―両者きっと、あれ以来の対面ですよね。ドキドキ
磯田 そこでこんなやりとりがあったそう。あくまで伝承ですが。
光秀:「松井さん、あなたに気に入られなかったので、かえって信長さまに取り立ててもらい出世することができました。出世できたのはあなたのおかげです。この仇は恩で返したいと思います」
松井:(すかさず)「明智どのの娘さんをうちの若様(忠興)の嫁にいただきたいのですが」
光秀:「昔の主人のことですので、かたじけない…」
―これで結婚が決まったということですね?
磯田 はい、そういうことが書かれた書物もあります。
「王侯貴族のようなたたずまいだ」とヨーロッパに報告があるくらいのガラシャ(お玉)の美貌に早くから目をつけていた細川家もなかなかですよね。
―なんだかこんな歴史の一コマを思い浮かべながら輿入れ行列を見ると、今年は格別です。重臣・松井康之にも注目があつまりそうですね。(笑)こういう見方も新鮮で面白い。
ブログは未来の古文書=史料になる
―最後に、世間はSNSに熱中してますが…。個人からオフィシャルまで。
地域の魅力を発信するブログがいろいろとありますが、どういうことを書けば?これも未来でいうところの史料ですよね?
磯田 そうです。SNSには大量の情報が流れていて、これも将来は史料になります。例えば、今日は何を食べたとか、たくさんアップされていますが、たいていは、「今日はこれをした」という事実を記載しているに、とどまる。
後年、役に立つのは「なぜそれを食べようと思ったのか、なぜそれをしようとおもったのか、なぜそのように感じたのか」という感想の記述です。
例えば、歴史的大事件が起きた日、どのように感じたか感想を書いてくれたら、後年、いい史料になります。
人に見せる必要はないけれども、友達の範囲内で公開していくようなものでも後世になれば大した史料になりますよ。
そうそう、例えば、丹波出身の本城惣右衛門さんなんかそうですよね。
この人は明智光秀の配下で本能寺の変に従軍し、本能寺の変の際に、本能寺に真っ先に突入、一番乗りした人物なんですが、若い時の経験を晩年(江戸時代)になって書き残した文書が残っています。
プロはだしの歴史ファンなら知っている有名な史料です。
―どんなことを惣右衛門さんは書いてるんですか?
磯田 「女、子ども含めて戦で数も覚えてないほど、(人を)山刀で斬ったけれども、自分は80.90歳までも生きました。必ず地獄に行くと思います。しかし臆病なふるまいはしていません。毎日お祈りはしています」
つまり、地獄に行くなーと思いながら、戦場で残虐行為をしてきた。お祈りは一応するけれども、地獄も極楽も信じなくなってきた人たちが戦国の世をへて、現れてきたことがわかる。
ここには戦国武士のある種の「気分」がある。地獄へ行っても臆病なことだけはするな、という考えを心の支えにして、子孫にも遺言している。こういう山賊同然の戦国武士たちの生々しい姿が見えてきます。
本能寺の変の重要な場面において、彼は、命がけで一番に乗り込んだのです。それが彼の一生の誇りだったんでしょう。
―リアルすぎて鳥肌が立ちました…。本能寺の変に参加した人の気持ちが時を超えて知ることができるなんて驚きました。
ところで先生は、日本全国いろんな地域のブログを見てますか?
磯田 見てますよ。ちゃんと裏はとりますけどね。
―先生が見てるかも!?と思ったら俄然やる気の出る人も多いかもしれませんね。(笑)どんなことが書いてあったらうれしいですか?
磯田 その地域にしかない情報。とくに伝承を書いてくれると面白いし、ありがたい。
細川幽斎は若い頃、夜、本を読むのに灯りもなく、近所の神主のところの灯明のあかりをぬすんで本を読んでいた。そんな地元の伝承ってたくさんありますよね。
―その神社を調べていってみるとその話が伝わってるかもしれませんね。探してみたくなりました~。
磯田 細川家も最初は、灯りがないほど苦労していたのです。でも、信長の元で活躍して、大名にまで出世したのは、細川幽斎・忠興の親子に能力があって、うまく時代の流れに乗ったからです。
―最後に先生にとって歴史とはなんですか?
磯田 私がいつも言っているのは「歴史は靴」ということ。人が安全に世の中を歩くための靴。歴史という靴を履かずに歩くと、ものすごく危険です。だから私は歴史という名の「靴」作りに励みたい。ただ、履いた方がケガをする下手な靴もあるので注意していただきたい。そうならないように、わたしは安全な靴を編みたいと思います。
―磯田先生、本日はお忙しいなか、本当にありがとうございました。
最後に…
慌ただしい取材にも関わらず、快く親切丁寧に対応してくださった磯田先生。
将来、自治体が消滅するかも!?といわれている昨今。歴史を通じて、どうやって地方の人たちが暮らしを立てていけばよいのか、歴史の活用法のヒントをたくさんいただいた気がします。
SENSE NAGAOKAKYOも引き続き、多くの方に長岡京市の魅力を発見・再認識してもらえるように、編集部一丸となって頑張ります!!
写真撮影:マツダナオキ