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琉大事件を考える(仮称)

空白だった昭和30年代

2018.10.09 08:54

書き留めておきたい事が沢山あるのに💨

blogの更新、遅れてる私💦



Twitterで流れてきた。

RT:「〈ヤマトとウチナーの対立〉がTLに流れている。

奄美群島に源流があるワシとしては、奄美がそのヤマトとウチナーに侵略された歴史も忘れないでねとモヤッとした気持ちになる。

その歴史を知らなくても、人の心にその痕跡は残るもの。今でも、沖縄には奄美差別みたいな意識があると感じたりする。」








黒田了一といえば、憲法知事とも云われた元大阪府知事。

RT:「今年(12/25)は奄美の本土復帰65周年です。幼少期復帰運動がありました、その運動(戦後民主主義)の芽(占領期間が短かったので大きく育っていなかった)を摘み取る施策(国の裁量で決まる補助金制度)が奄美で先行実施され、極度に保守的な地域が生れました。大学で黒田了一先生と出会い開眼した!」




せめて、私の伯父が辰巳さん(大阪)と和田さん(奄美)に、沖縄での事を語っていたら、何かが違ってたかもしれないと思いつつ…


なぜ、そうなってしまったのか😢

それは、辰巳さんと和田さんにも、少し伝えたけど😢




和田さん、大阪に住んでた時もあるんよね。

大阪では、その和田さんを頼ってかな…

私の伯父も堺に住んでた時もあるみたい。



関西安陵会にも、共産党との繋がりも和田さんに引っ張られて参加するようになっていったみたいな感じ。

和田さんは、二人と会う事が多くてね

ただ、一方はあれだもんね、意気揚々だよ…

沖縄での事も封印

出世に影響するかもしれんやろしね

和田さんにしたらね、沖縄での事を知らなかった事を今になってスゴく悔やむ



コータロー議員は、今は とにかく

来年の参院選、再選を目指して頑張れ!





1954年メーデーの画像は、沖縄県公文書館にあるのを見つけた。

英語で記録されている。

瀬長亀次郎さん、上原清治さん、宮城倉啓さんも写っていた。

私の伯父は、軍事裁判にかけられ島外退去命令を出される。←人民党事件とは別。

好ましかる人物として、実名入りで本にも書かれている。






処分された学生のその後…

そのうちの1人の方から、お便りを頂いた。

その内容は、琉大の先生方に見せる事はあっても、世間に公開する事は無いだろう。

共産党にも、たぶん見せないと思う。

それにしても、哀しすぎる。




沖縄の闘いを見習え❗とか

沖縄の運動に感動する❗という言葉を、2度と聞きたくない。

何が感動なのかが、本当に理解できない。


朝鮮戦争下で、原爆展

琉大事件とは何だったのか。




昭和34年

私の祖母や母は、親戚などと共に

奄美から大阪へ移住。

戦前に住んでた此花区高見に再び住み始める。

私の伯父は、第2室戸台風の被害対策に、辰巳さんと一緒に取り組んだのかな…

共に、西淀川区内を担当したみたい。

昭和40年代、市営住宅入居の抽選に当たったので、私の伯父は此花&西淀川から離れる。

辰巳さん、その後の人生もスゴく心配してたよ




昭和30年代が空白やったんやけどね…

それも、だいぶ わかってきました。