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中島敦『名人伝』と人間の理想について

2018.10.10 00:10

西暦1942年12月4日。33歳という若さで亡くなった作家、中島敦。

教科書にでてくる『山月記』で知られている作家でもある。

今日は彼の遺作となった作品『名人伝』を紹介する。



趙の都・邯鄲に住む紀昌は、天下一の弓の名人になろうと名手飛衛に入門した。

五年余の厳しい修行の末、紀昌は奥義を習得する。

あとは天下一になるために、師である飛衛を越えるのみである。

ある日通りを歩いていると、師が前方からやってくるのが見えた。紀昌は師に挑み矢を放つ。

師もまた同じである。

相手に向かって放たれた矢は互いの放った矢の先端にぶつかり、道の中央に散る。何本矢を打っても同じである。

やがて双方ともに打つ矢がなくなり、互角と知った紀昌に、道義的慚愧の念が浮かぶ。そんな弟子に、師は新たな目標を与える。

『霍山の頂を極めよ。そこには甘蠅老師とて古今をむなしゅうする斯道の大家がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯に類する。師と頼むべきは、今は甘蠅師のほかにあるまい』と。

紀昌はさらなる極みを求めて西の霍山に隠棲する老師・甘蠅を訪ねる。紀昌は矢を放たずに鳥を射落とす不射の射を甘蠅に見せられ、霍山にとどまる。九年後、紀昌は無表情の木偶のような容貌になって邯鄲に戻ってくる。それを見た飛衛は紀昌を天下一の名人と認めて絶賛する。都の人々は紀昌の奥義を見たいと望むが「至射は射ることなし」と言って紀昌は射を披露しようとはしない。「弓をとらない弓の名人」として紀昌はかえって有名になる。その後、ついに紀昌は弓を手に取ることがなく、晩年には弓の名前すら忘れ去るに至った。その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。



生きるとは何か、という問答を繰り返す私もまた、生きるということにおいて、児戯に等しい生活をおくっている。

紀昌に習えば、生きることの達人は生きることを忘れ、ただ今を生きる者をいうだろう。

言葉を忘れ、花の匂いに喜び、ときどき桃園に成る桃の果実をかじり、感謝を抱いて今に満足して生きる。

それが私にとって人間の理想である。


そんな理想を求め、ここ数日の間は「言葉」というものを極力忘れて過ごしていた。

いや、忘れようと努めていた。

そして、生きることの達人には、自身がまだ程遠いことを知ったのである。

「無為自然」と言ったら聞こえはよいが、時代から遊離した肉体と意思に、すべては当然の如く当然に過ぎていく。

いや、過ぎていくという時間感覚も失せていく。

そのようにして生きることで生じた所作には「感謝」が宿ることはほとんどない。

あたりまえではないことをあたりまえだと感じはじめたときに、人間の傲慢さが滲みでる。

口に入れた果実とそれが口に運ばれるまでの行程に感謝を抱かず、踏みしめる大地とそれを成すまでの行程に感謝を抱かず、それらが成されるまでのすべての時間と存在に感謝を抱かないとしたら、何が達人だろうか。


悲しいかな、人間は何もせず感謝を抱き続けることはできないらしい。

天下一の名人とはいかなくても、人は何かを成すことで、今あることをあたりまえでないと知り感謝する。

ならば私もまた、再び言葉を発し続けたいと思う。