教皇庁捕囚11-テンプル騎士団火刑に
2018.10.10 01:56
テンプル騎士団の異端裁判は結論ありきで進められ、当時としても異常なものだった。団員達は数年にわたり拷問を受けて自白を強要され、裁判官がそれを追認した。クレメンス5世は、他国に居る騎士団員も逮捕するように命じたが、証拠もなくほとんどなされなかった。ドイツでは審査した司教が無罪を宣言したりしている。
1309年11月総長ジャック・ド・モレーが裁判に引き出された、85歳。彼は粛々と騎士団の潔白を主張し、その態度はキリスト教徒らしく感銘を与えたが、裁判の行方は始めから決まっていた。ただ総長も高齢のため指導力を発揮できなかったとされている。また王側の逮捕から裁判も完璧で、なかなかつけこむ余地もなかった。
クレメンス5世は、ためらいながらも1312年ヴィエンヌ公会議で騎士団を解散させた。待ってましたという王であったが、テンプル騎士団の資産は、別の聖ヨハネ騎士団のものとなった。しかし王からそれを受け取る代金が支払われ、王側も潤った。
捕えられた騎士団は火刑に処せられ、1314年総長モレーも火刑となった。彼はこの時、王と教皇に「神の御前で会おうぞ」と言ったいわれる。ルイ9世時代に比せられる繁栄を示したフィリップ4世であったが、確かに懐刀のノガレーが逝き、フランドルで反乱が起こり、宮廷にも事件が起こる中この年46歳で崩御した。また教皇も崩御、さらにこの後カペー家は混乱し、ヴァロア朝に代わるが、すべてモレーの呪いと言われたりしている。
下はジャック・ド・モレーの火刑