平等は、隷従への道
自治体職員研修は、個人的な意見を発表する場ではないので、判例・通説・行政実例に従って講義をしている。
しかし、このブログは、自治体職員研修ではないので、つらつらと思い付くままに愚見を述べる。
ロシアによる侵略を受けているウクライナは、ロシアや中国による侵略を受けるであろう将来の日本を、また、イスラエルの攻撃を受けているガザ地区は、ロシアや中国に支配された日本列島に設けられた日本自治区と呼ばれるghettoゲットーを、それぞれ想像させ、実に憂鬱な気分になる。
これに加えて、さらに気分を害するものがある。今、欧米でliberalismリベラリズムの大地震が発生し、我が国にその津波が次々と押し寄せている。
LGBTQ、夫婦別姓、同性婚、多様性、多文化共生、男女共同参画、秋篠宮家に対するいわれなき誹謗中傷、ヘイトスピーチ禁止、移民、外国人参政権付与、外国人の土地所有、ルッキズム、ポリコレ(political Correctnessポリティカル・コレクトネス)、大学・高校の授業料無償化、朝鮮学校への補助金不交付に対する抗議活動、反基地闘争、核兵器廃絶、環境保護運動など、一連の政治運動は、いわば震源を同じくする津波であって、すべて背後でつながっている。
ところが、多くの人は、このliberalismが「自由主義」を騙(かた)る「平等主義」であって(ジョージ・オーウェルの小説『1984年』が明らかにしたNewspeakニュースピーク(新語法)だ。)、自由を抑圧し、伝統・慣習・道徳など社会の根幹を破壊し、全体主義へと導く狂信的な「人権教」と呼ぶべき宗教であることに気づかず、津波に抗うべく防潮堤を築くことも避難もせずに、津波に翻弄され溺死しようとしている。
liberalistリベラリストは、「人は生まれながらに不平等である」という厳然たる事実を妬(ねた)み、嫉(そね)み、憎悪するルサンチマンであって、「人は生まれながらに平等である」と詭弁を弄して、国家権力によってその不平等を強制的に平等化しようとする偽善者である。
この平等化は、自由の抑圧とイコールであって、「法の下の平等」を除き、自由と平等は、本質的に相容れない。
これらを理解できない人が多すぎることが不幸な事態に拍車をかけている。そこで、これらの点について、問わず語りをしようというわけだ。
カール・マルクスが『共産党宣言』(岩波文庫68頁)で「二、強度の累進税」を提唱し、我が国で採られている累進課税を例に挙げれば、金持ちほど重い税率で課税する累進課税は、己の才覚と努力によって得た財産権を強制的に侵奪し、金持ち冷遇という不平等を実現する制度であって、金持ちに対するおぞましいほどの憎悪を基底とする。資本主義を呪い、否定する税制なのだ。
累進課税は、税金をがっぽり取られるのだったら、ほどほどに働こうという形で、人の向上心を奪い、優れた人々の才能と努力による社会の発展を阻害するとともに、節税という名の脱税を誘発し、人の道徳心を損なうものでもある。
これに対して、「負担能力に応じて重い税負担をさせるのが公平だ」という応能負担の原則を錦の御旗の如く主張して反論する人がいるだろうが、もし応能負担の原則が正しいとするならば、国家が所得に比例して税金を徴収する代わりに、国家は、納税額に比例して行政サービスを提供しなければならないし、選挙権も納税額に比例して与えなければならないはずだ。そうでなければ、不公平だからだ。
しかし、実際にはそのようなことは行われていない。ということは、応能負担の原則は詭弁だということを意味する。
分かり易さを優先して計算しやすい極端な例を挙げるが、所得税を10%だと仮定して、所得1千万円の人の所得税は100万円、所得1億円の人の所得税は1000万円ということになる。換言すれば、所得1千万円の人は900万円で、所得1億円の人は9000万円で、それぞれ生活することになるわけだ。
しかし、所得1千万円の人は、所得1億円の人の9000万円生活が妬ましくて我慢ならない。自分と同じ生活レベルに引き摺り下ろしたい。そこで、所得1億円の人には90%の税率で9000万円の所得税を徴収し、残り1000万円で生活させるのが平等だということで、累進課税が行われているわけだ。
このように累進課税は、金持ちに対する嫉妬・憎悪を隠して、応能負担の原則という一見もっともらしい詭弁を弄して、金持ちを差別し、国家権力を用いて金持ちから強制的に財産を奪って平等化を図る制度であって、これを正当化する根拠はない。実際、累進課税の正当性を証明した人は、世界中で一人もいない。
相続税もまた然り。夫婦は、初期猿人から始まったそうで、「メスは食物をくれるオスを頻繁に性的に受け入れ、オスはメスが育てる子どもを自分の子どもだと信じることになる」。
https://gendai.media/articles/-/119688
子どもの幸せを願わぬ親はいない。我々の祖先が猿人と呼ばれた太古の昔から、親は、生きる上で必要な己の知恵・知識・経験・技能・財産のみならず、先祖や家族の物語・伝統・文化を子に伝え、子は、親を敬い感謝して受け継ぎ、孫へと継承していくことによって、我々人間は、厳しい自然環境の中で、社会を形成・維持・発展させ、文明を築き、命の灯火をつないできたのであって、相続は、家族制度とともに、人間の本性に根ざした制度なのだ。それ故、オーストラリア、カナダ、マレーシア、ニュージーランド、シンガポール、スウェーデンなどには、相続税がない。
ところが、リベラリストは、いわゆる「親ガチャ」によって生まれながらに富裕である人を憎悪する。そのため、我が国では、「三代相続すれば財産なし」と言われるほどの重い相続税を課して、平等化を推進している。親子三代にわたって節税という名の脱税をしない限り、相続税によって、富裕層は貧困層へと転落させられるわけだ。人間の本性に反する相続税は、貧困の平等をつくりだす手段であり、資本主義をなし崩しにするものなのだ。マルクスは、『共産党宣言』(岩波文庫68頁)で「三、相続権の廃止」を掲げているが、重い相続税は、実質的に相続権の廃止と同じなのだ。
金持ちであることは悪ではないし、貧乏であることも悪ではない。人の善悪は、その行いによって判断されるからだ。金持ちが善行を行えば善であり、貧乏人が善行を行えば善なのだ。リベラリストは、その人の行いではなく、金持ちの家に生まれたこと自体が悪であるとして、これを憎み、相続税を課して差別するのだ。普段はまるで正義の味方のような顔をしてなにかにつけて「差別反対!」・「ヘイト禁止!」を連呼しながら、本当は自分が大金持ちになって他人を見下したいのだが、それが叶わぬから、金持ちの家に生まれた人を憎悪し、貧乏人に引き摺り下ろそうとする品性下劣な偽善者がリベラリストの本性なのだ。
想像し給へ。もし我が国に累進課税と相続税がなかったとしたら、日本中に富裕層(中間層も)が溢れ、その結果、今喫緊の課題となっている少子化問題や空き家問題などの対策を講ずる必要もなかったことだろう。「お金は天下の回りもの」と言われるように、お金持ちは、それだけ多く金銭を消費するし、成り上がりほど、顕示的消費をするので、社会にお金が還流し、経済が活性化する。
累進課税や相続税を廃止することこそが最も有効な対策の一つであると誰も言わないのは、「人は生まれながらに不平等である」という冷厳たる事実を直視せずに、「人は生まれながらに平等である」という詭弁に騙され、国家権力によってその不平等を強制的に平等化することが正しいと思わされているからだ。
恐ろしいことに、累進課税や相続税が当たり前だと思われている日本は、私有財産制を否定する共産主義の一歩手前にあることに気づかず、狂気に支配されている。
累進課税や相続税を廃止したら、財源不足になるではないかという反論があり得るが、これは、子供騙しの主張であって、間違っている。
令和5年度の名目の国民総所得(GNI)は、4~6月期に年換算で625兆円だった。令和5年度の一般会計予算は、114兆3812億円で、補正後の予算額は、139 兆 2196 億円だ。歳入予算のうち税収(所得税、法人税、消費税の合計)は、69兆4400億円だから、国民総所得(GNI)に占める割合は、11.04%にすぎない。無駄を省いて若干小さな政府にすれば、国民一律に10%の税率で課税するだけで、十分に国家財政を賄えるわけだ。
こんなことは、私に言われなくても、財務官僚は百も承知しているはずだが、リベラリズムに毒され、狂気に支配された世の趨勢に抗うことができないのだろう。まあ、個人・法人一律10%の税率ということになれば、税務署を大幅にリストラできるし、多くの税理士がお払い箱になるので、財務省としては困るだろうが。
私の子供の頃は、夫の収入のうち、2割負担で、残り8割で一家が生活できた。ところが、令和6年度の財政赤字を加えた潜在的な国民負担率(租税負担率と社会保障負担率の合計)の見通しは50.9%だ。
つまり、今は、江戸時代のように、5公5民であって、5割負担で、残り5割で生活せざるを得ず、夫の稼ぎだけでは一家が生活できない。国民負担率が1%上昇すれば、経済成長率が0.3%低下する。これが少子化と経済悪化に拍車をかけて、悪循環を起こしている原因の一つだ。
今やるべきことは、馬鹿げた社会主義政策である累進課税と相続税をやめること及び国や自治体の無駄な支出をやめることだ。
ところで、かつて大阪は、「江戸時代には「八百八橋」と呼ばれ、約200ほどの橋が架けられていた。このうち、幕府直轄の公儀橋はわずかに12橋。残りの橋は全て町人たちが自ら、生活や商売のために架けたものだ」という。
https://smtrc.jp/town-archives/city/namba/p09.html
例えば、「東の銀座、西の心斎橋」と呼ばれた「心斎橋」は、元和8年(1622年)、商人岡田心斎(おかだ しんさい)が中心となって長堀川に架けた長さ35.5m、幅4.2mの木造の橋に由来する。
大阪の橋だけではない。日本中の神社仏閣、伝統的な祭りなど、先祖から受け継いできた多くのものが善意の寄付によって賄われてきたのだ。
我が国がいち早く累進課税や相続税を廃止し、分厚い富裕層(中間層も)を作るとともに、名誉を重んじ、義侠心を育む社会を形成していれば、大阪の町人のように、富裕層は、ケチと呼ばれることを嫌い、名誉を求めて進んで世のため人のために寄付をするようになり、国民の福祉の向上を国家の責務とする必要もなかったことだろう。その結果、巨大な官僚機構も不要となり、税金はさらに安くなったはずだ。
我が国は、嫉妬・憎悪に基づく品性下劣な平等化社会ではなく、美徳に満ちた高貴なる社会を目指すべきだったのだ。
このような品性下劣な平等化社会にお墨付きを与えているのが憲法学者だ。
衣食住に事欠き、貧困に喘ぐ状況にあるとき、施しをくれる圧政者を批判することは、通常できない。たとえ仕事を干されたりしたとしても、なんとか自分で飯が食えるだけの財産があるからこそ、臆することなく為政者を批判することができるのだ。その意味で、財産権は、表現の自由や民主政を根底から支える最も重要な自由権だといえる。全体主義の防波堤が財産権なのだ。
ところが、倒錯した人権教の司祭たる憲法学者は、財産権が不当に侵害されても、表現の自由が保障されている限りこれを是正できるので(財産を不当に没収されて無一文になったとして、プーチン・習近平・金正恩に面と向かって批判できるロシア人・中国人・北朝鮮人がいるとでも言うのか?)、財産権に対する規制については、緩やかな審査基準で合憲性を判断すべきだと主張して(これを「二重の基準論(ダブルスタンダード)」という。二枚舌である憲法学者らしいネーミングセンスだ。)、累進課税や相続税を合憲だと御託宣を下し、自分の頭で考えることができない愚かな学生たちは、「なるほど!」と膝を叩いて人権教に洗脳され、司法試験や公務員採用試験などを通じてせっせと布教活動に一役買っている。
では、そもそもリベラリストが求める完全なる平等化は、可能なのだろうか。
「人は生まれながらに不平等である」という現実を否定して、完全なる平等化を実現するためには、同じ遺伝子・同じ環境で人を産み育てるしかない。それ故、同じ遺伝子を持ったクローン人間を培養して、人工子宮で出産させ、人工保育器でロボット又はアンドロイドが育てることが最適解となろう。
しかし、これは、種としての人間の絶滅リスクを高める。皆同じ遺伝子なので、例えば、ある感染症に耐性がなければ、全滅するからだ。
仮に絶滅のリスクを科学的に回避できたとしても、この完全に平等化したクローン人間がなんらかの社会組織を形成するには、皮肉なことに、女王蟻・兵隊蟻・働き蟻などと同様に、差別化を図らなければならない。完全なる平等化は、不可避的に不平等化を招来するのだ。
ハイエクが言うように、人は生まれながらに不平等であるからこそ、我々は、「法の下の平等」という方法で人々を平等に取り扱うことができるのだ。悲しいことに、この真理を知る者は、ほとんどいない。
平等化は、自由を抑圧することなくして実現できないという意味で、自由と平等は矛盾するのだが、唯一両者が両立しうるのが「法の下の平等」だ。
すなわち、自由は、放縦ではない。法・道徳の枠内でのみ自由は自由たりうる。自由競争だからといって、役人に賄賂を贈って受注したり、業者同士が談合を行って不当に価格を釣り上げたりすることは、道義的に許されないから、公正な競争を確保するために、法の枠内でのみ自由に競争することができるようにしなければならない。
国家がなすべきことは、この公正な自由競争を支える法の枠組みを作り、違反者にペナルティを課して競争から排除することであって、この法の適用において人々は平等に取り扱われる。これが「法の下の平等」の本来の意味であり、この一点においてのみ本来相互に矛盾する自由と平等は両立しうるのだ。
分かりにくければ、サッカーで考えたらいい。サッカー選手が試合中に相手選手に対して殴ったり、タックルしたり、バットを振り回したり、両手でボールを持ってトライしたりするなど、好き勝手にプレイすることは、放縦であって、自由ではない。サッカー選手の中には、背の高い人もいれば低い人もいるし、体重の重い人もいれば軽い人もいるし、年齢及び経験並びに才能にも差があるけれども、ルールの範囲内で、思い思いにのびのびとプレイすることが自由なのだ。
サッカー選手がフェアプレイできるようなルールを作り、違反者にレッドカードを突きつけて退場させることが国家の役割であって、サッカー選手に等しくルールを当てはめることが「法の下の平等」という意味なのだ。
リベラリズムは、「人は、生まれながらに不平等である」ことが許し難いとして、国家権力によってその不平等を強制的に平等化せよと言うのだが、それは、いわばサッカー選手の体格を一律平等にするために、背が高いサッカー選手の足を切り落とし、体重が重いサッカー選手の腕を切り落として身体の自由を奪うようなものであって、リベラリズムが求める平等は、自由の抑圧以外の何ものでもなく、決して自由と両立しないのだ。
ここらで気分転換を図ろう。日本に平等主義が蔓延(はびこ)り、隷従への道を歩んでいる今だからこそ、美徳が美徳とされた過去を見習い、名誉心・義侠心を育むことが大切なのではないかと思う。
金持ちや才能ある者を妬み、嫉み、伝統や道徳などを憎悪するリベラリストは、拷問を受けても恩義を忘れず、信用と約束を死守せんとした堺の商人天野屋利兵衛が「天野屋利兵衛は男でござる」と叫んだ気持ちを決して理解できぬであろう。また、大坂町奉行松野河内守の情けも理解できぬであろう。
人間国宝である3代目神田松鯉先生の講釈で、講談「赤穂義士外伝 天野屋利兵衛」をどうぞ♪
伝え聞くところによると、天野屋利兵衛の義侠心に感服した奉行松野河内守は、利兵衛を摂津国追放という軽い罰に処すとともに、町人としては奇特の行為であるとして、家財屋敷を没収せずに利兵衛の妻子に下し渡し、子たる七之助には町年寄を襲がせた。利兵衛は、のちに京都に移り住んで茶道を楽しみ、73歳で亡くなったそうだ。松野河内守も男であった。