玉木幸則さん 今、伝えたいこと‐「役に立たない人間なんて一人もいない」
障害のある人が地域で生活をするための支援などを行っている「社会福祉法人西宮市社会福祉協議会 障害者総合相談支援センターにしのみや」のセンター長である玉木幸則さん。
NHK(Eテレ)みんなのためのバリアフリー・バラエティ「バリバラ」にご出演されていることでも有名です。番組では、脳性まひの障害があるご自身の経験を生かしながら、自らの言葉で視聴者に思いを届けておられます。飾らず、印象に残る発言の数々が注目を集めている玉木さん。
今の仕事の原点となった幼少期の経験から地域での活動、相模原で起こった障害事件に至るまで、お伺いさせていただきました。
<仕事の原点となった幼少時代>
―小さな頃はどのようなお子様でしたか?
産まれた時は仮死状態で3日間、保育器に入っていました。普通ならそこで医師から脳性まひの可能性があるので予後も含めて見ていきましょうという話があります。
しかし、私が息を吹き返したことから、医師は疑うことなく母と私を自宅に帰らせてしまいました。
3歳になる直前、風邪で近くの小児科にかかった際に初めて脳性まひで障害が残るということを言われました。
母としては寝耳に水で、家までどのように帰ったかわからないほどショックを受けて帰ったそうです。踏み切りの前で一緒に飛び込んでしまおうと立ち止まる度に私が泣いたそうで、思いとどまり帰路についたと言っていました。
当時、兵庫県は不幸の子供が産まれない対策室があった時代で、兵庫県にとって私は不幸の象徴でした。障害のある子供が産まれた時、一般的には大変だなという思いが先行します。
母親は治してあげたいという一心でいろいろな病院を巡ったそうです。
4歳の終わりごろ、親に水族館に行こうと誘われ、たどり着いたのは療育センターでした。
足の訓練や手術をして足を治すからと、突然、親と離れた生活を送ることになりました。
後から聞いた話では、3カ月間ずっと泣いていたそうです。決められた日にち、決められた回数しか親に会えないことが本当に悲しかったです。
みんなはお父さんやお母さんと毎日一緒にご飯を食べたりお風呂に入ったりしているのに、なぜ僕だけこのような思いをしないといけないのだろう、なぜ僕だけここにいないといけないのだろう、そう思っていました。
この気持ちが今の仕事の原点であり、地域で最後まで暮らすという信念につながっています。
―足の治療は成功しましたか?
結局、足は良くなりませんでした。
恐らく、当時の医師も勘でやっていたのでしょう。受けた手術は、膝の裏を切って注射をして閉じただけでした。この手術のせいで正座ができなくなってしまいました。この時代に同じような経験をした人がたくさんいます。
障害とは何かを考えた時に、歩けないことが障害なのではなく、歩けなくては生きていけない社会に障害があると気づかされました。このような社会を変えていくことが私の役割だと思っています。
<できない理由より、どうしたらできるかを考える社会になって欲しい>
―施設はいつ退院されたのですか?
施設は1年半で退院し、幼稚園に年長の3学期から転入しました。
姫路は当時からすべての小学校の隣に幼稚園があり、幼稚園からほぼ義務教育が始まるような環境でした。隣の小学校に行けると何の疑いもなく思っていました。
しかし、就学前検診で障害があるので養護学校へ行きなさいという判定を受けました。
検査をして、普通学級に相当するという判断で、結果的には普通学校に進むことになりました。
ところが、進学する前に親が校長室に呼ばれ、「登下校時の事故について学校は一切責任を負いません」という誓約書を書かないと入学は認めないと言われました。学校にいる時間や登下校時の事故や怪我には、学校で加入している保険が適用されるので、それ以上のものは要求しないのが通常です。何かあった時にごねられたら困るという思いが学校側にあったのだと思います。
―入学後はどのような学校生活を送られましたか?
実際に入学してみると良いことも多かったですね。2年生の時の担任は、黒板の内容を皆が書き写している間に僕の隣でノートに書いてくれました。6年生の修学旅行の時は、担任の提案により付き添いの先生をつけてくれました。どの先生が良いか冗談めいた様子で聞かれたので、4年生の時の担任を指名すると、その先生が当日、旅行かばんを持って目の前に立っていたのです。
同じく6年生の夏休みの補習授業は、担任が車で送り迎えしてくれました。
振り返ると小学校時代はとても良い環境で過ごしたなと思います。今は何でも細分化して、できない理由を探すのが社会の常みたいになっています。昔できていることがなぜできないのかなと思うことが多いです。
どうしたらできるだろうと考えていくことが大事だと私は考えています。
<地域で暮らすためには社会経験の積み重ねが大切>
―中学・高校時代はどのように過ごされましたか?
中学校も普通学級で過ごしました。高校進学時には中学校の担任から通学の問題や、単位を落としたら進級できないという理由で全寮制の養護学校を進められました。気乗りしないまま養護学校に進学した結果、違和感を覚えることがありました。例えば、学期が終わる時に教科書で習っていないページがあっても、先生がここは難しいから飛ばしますといって教えてもらえない。一方、学校では社会に出てから困らないように勉強しなさいと言われる。閉鎖された環境で、限られた人間の中で、制限された生活をしているのに社会って何?と思いました。そもそも社会経験が少ない上に、環境にも制限をかけていることに、矛盾しているなと思いました。
年相応の社会経験を提供してこそ障害のある人も力をつけていくのです。
社会生活においては経験の積み重ねが大事で、「○○ができない子」ではなく「○○をさせてこなかった子」なのだという認識が必要です。親や周りの人が障害を持つ人の力を値踏みして、まだ早いまだ早いと言っているうちに社会経験がないまま大人になってしまうのです。地域の中で普通に暮らしていくことが重要だと思います。
―今は地域とどのように関わられていますか?
先日、マンションの管理組合がバリアフリー対策をすることになりました。それを妻に聞き、パワーポイントで勝手に資料を作って、改修した方が良いと思う箇所を提案しました。管理会社からは「これは大事ですね」と感謝されました。入り口の段差に段差解消のためのゴムがつくなど、少しずつ改修が行われています。私にしかできないことはたくさんあるので、そのようなことには協力していきたいです。
街づくりというのは、当事者から発信しないと気づかないものだと思います。
<互いに身近な存在として向き合えば、障害という言葉はなくなる>
―ご家族とは普段どう過ごされていますか?
長男が大学1年生で、長女が高校2年生です。家にいることが少なく、忙しく駆け回っているため、最近ではお土産を買ってきても「ふーん」という感じです(笑)
子供が保育園に通っていた頃は私が送り迎えをしていました。長男がある日、保育園に行きたくないと言ったので理由を聞くと友達が私のことを「フラフラマン」と呼ぶからと言いました。「ウルトラマン、アンパンマン、スーパーマン、みんなマンがついている。みんなおとうちゃんが好きやけど何て呼べばよいかわからなくて、フラフラマンって呼んでくれているんじゃないの?おとうちゃんは人気ものや!」と言うと、行くようになりました。
長男が小学4年生の時には福祉学習でハンディキャップ体験をしました。
帰宅して「おとうちゃんは障害者なん?」と聞いてきた時は「今さら何をゆうてるねん」とおかしくなりました。先生も障害者が身近にいないから、学習として障害者のことを教えます。
うちの子は私を障害者ではなく、“おやじ”だと思っています。
お互いを身近な存在として向き合うことでいつか障害という言葉はなくなるはずです。
<バリバラはとても影響力のある仕事>
―バリバラでの発言の影響力についてどうお考えですか?
NHKの番組は、台本どおりに細かく進められていくことが多いです。しかし私に台本はありません。「玉木、まとめる」「玉木、ひと言」と書かれているだけで、ほぼアドリブです。収録前の打ち合わせ時に、この作り方はおかしいとか、このVTRは使わない方が良いなど意見も出します。
30分番組だけど90分カメラを回しており、その中で私が思ったことを自分の言葉で言える環境を作ってくれています。だから続けられるのだと思っています。
良いことばかりではなく、障害を持つ友達から「元気な障害者が言いたいことを言っているだけの番組や」と言われたことがありました。本当にショックで落ち込みました。
一方で、講演に行った時に、私が話しているのを見て「言語障害のある母親が話しだした」と感謝されたことがありました。どこでどのような影響があるかは、はかりしれないなと思います。
とてもありがたいことだと思っていて、だからこそありのままで、自分の考えを話すようにしています。
<考え続けること、考え続けることをやめないこと>
―相模原の事件についてどうお考えですか?
朝起きてテレビをつけると事件が報道されていました。事件が起きて5時間経ってもなお出発していく救急車を見て、搬送先が見つからなかったのかなと思いました。
傷や腹痛など一般的な病気でも障害専門ではないので他に行ってくださいという病院が結構あります。国は傷つけられた障害者を本気で救う気があったか、そこにも怖さを感じました。
また、メディアは犯人が「障害者はいなくなればいい」と主張していることを連日報道しました。
全国の障害者はどのような気持ちだったでしょう。配慮がなく、私は辛かったです。
事件があった障害者施設については、現在、建て替えが行われています。
私は公営住宅を建てて、彼らが自立して生活できるように支援をしていくことを望んでいます。
そもそも、家族が障害者やお年寄りの面倒をみないといけないという発想は、一人ひとりを大事にしていません。あなたはどうしたいかと聞き続けること、知ってあげることが大切です。
相模原の事件についてバリバラで第1回目の特集があった時は、ゆっくりゆっくり話しました。
ちゃんと伝えたかったから、間違って伝わって欲しくなかったからです。
障害がある人だけではなく、障害がない人にも考えてもらうきっかけを作らないといけないと思いました。
「役に立たない人間なんて一人もいない」ということを多くの人に伝えたいと思います。
―私たち一人ひとりにできることは何でしょうか?
私だったらどんな生き方をしたいか、どこで最期を迎えたいか真剣に考えることです。
障害者に限ったことではなくて、自分の命をどうまっとうするかを一人ひとりが思い描くことが大切です。自分が嫌なことはみんな嫌です。
自分は嫌だけど、この人たちは仕方がないと思っていることが差別です。
考え続けること、考え続けることをやめないことが大切です。
いらない命なんかありません。
<取材後記:大洞静枝(おおぼら しずえ)>
普段から話すのが好きという玉木様。時には質問を投げかけ、相手の意見を尊重しながら会話を進めていくスタイルは、人の立場になって考えることを日頃より実践されているお人柄なのだろうと感じました。雄弁に語られる玉木様に伝えるコツをお伺いしたところ、「伝えたい気持ちが一番大切だ」とおっしゃっていました。人の心に響き、はっと気づかされることの多い玉木様の発言は、積み重ねられた人生の軌跡であり、伝えたい思いの結晶なのだと感じました。
たまき・ゆきのり
2児の父。社会福祉法人西宮市社会福祉協議会 障害者総合相談支援センターにしのみや センター長。NHK(Eテレ)みんなのためのバリアフリー・バラエティ「バリバラ」にレギュラー出演。
Interview/Photo/Text by
大洞静枝
大阪府大阪市出身。同志社大学卒業後、生命保険会社に入社。企業保険部門で約7年間勤務する。2015年より業界新聞社の記者としてビジネス・IT分野のライティングに携わる。現在、フリーランスライターとして活動中。6歳と3歳男児の母。