古書を取り巻く現況
古書を取り巻く現況
※ 江戸時代の書や書物に関する研究誌『東隅随筆』第552号の巻頭言を著編者東隅書生氏の許可を得て紹介します。標題は私がつけたもので、改行もこちらで行いました。内容に関する説明は不要でしょう。
ヤフーオークションを使って資料を得る場面も最近増えてきたが、オークションは古書店と異なり、商品知識がなくても売り出せる利点がある。
古書目録であれば、それなりの価格の根拠となるだけの情報を提示する必要があるが、オークションではそこまでの情報提供がなくても出品できる。そのために何かわからないが古い字といった程度でモノが売られる。
そのモノの流動性が、古書目録では見られなかったものでもオークションの商品として提供されるため、これまでにない流通の可能性を広げたと評価する。買う側さえ納得していれば、そして落札さえできれば獲得が可能な市場であった。
今般、そんな環境がいささか変化し、品がどんなものでも資金にモノを言わせて何でも落札する輩が増加した。仕入れの場として利用しているのだろう、取り扱った落札件数も千、万件単位である。個人の取引量ではない。
誰が買い集めているのか、ためしに手元の石印本を出してみれば、ほぼ中国人が落札して買っていく。彼らの扱い点数は数千点を超えている。仕入れてその後オークション画面で見慣れた本を目撃し、転売されている状況を知る。そんな転売業者と競売では勝てない。もはやオークションも経済原理の中で、研究資料を探す場ではなくなってきたようだ。
一時的には有効な資料探索の場ではあったが、このごろは経費が掛かりすぎて、神田の古書価格以上になる場合も少なからずあって、獲得場所としての優先度は落ちてしまった。
かといって古書会館の即売会を荒らしているのも中国人で、本の内容は殊更選ばず、手当たり次第に抱え込んで確保している。そんな連中とは渡り合えない。
使わなくなった古書を市場に戻して利用する人へ循環すればとも考えるが、ただ、ブローカーのような中国人に利する結果となるならば、循環方法も考え物だ。しかし、不特定多数を対象に売り出すのであれば、客を選べないのは市場のルールだ。公開の売り出しに既に希望はない。
古書の循環はどのようであるべきか。
単なる経済活動として行うならば、現状は正しいのである。価値あるものはそれなりに、価値の怪しいものもそれなりに、価格がついて売れれば良いのが売り手の求めるところであり、誰が買っても売値の価値は同じものだ。最高額に評価したものが得る権利を持つのは当然となるだろう。
目的がたとえ部屋の飾りだろうが風呂の焚き付けのためだろうが、獲得した者が自由に扱うことも込みの商売なのである。その行き先が古書を滅ぼす結果になろうとも、そこまで考えていては本を売ることはできないのである。そこが商売であり、研究とは別次元の話となる。滅びる行き先となっても、それは淘汰であると割り切る心持が無ければ本の商売はできない。
本を売るとはそういうことである。結局書物好きは本を売れない。本屋商売には向かない性格なのである。書物について代価をとって手放すことができる点が商売人の資質であり、それができずに本が増えてしまうのが書物好きで、商売にはならないのである。
すぐに使う本、いつか使うかもしれない本も得てしまうという因果を持つ。必然的に本があふれて、家族からは不興を買うことになる。継承者を得ない書物の山は不幸であり、所有者没後は散逸の憂き目を見る。その価値を表明できる収集者の価値観は、極めて個人的な価値であり、家族はそれを理解できないのである。次に来るのはまた書物の淘汰なのである。南無阿弥陀。