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世界史の嘘と捏造

2018.10.11 06:25


我々は未来を予測するのは歴史学ぶ事が一番大事と確信する。

その歴史は勝者の手により、勝者の都合で書かれる。

古来より『少人は自分の経験に学ぶ、凡人は歴史に学ぶ、賢者は歴史で悟』。言われている。

★我々は、この勝者、または侵略者の手によって書かれた、嘘や捏造を正しく書き直す時が来ている。

―此処で日本の近・現代史を簡単に思いだしてみたいー

★応仁の乱依頼百年続いた戦国時代も、尾張、半国のミニ大名の織田信長が、乱れた天下を統一せんと立ち上がった。

幾多の苦労、危機はあったが、天下統一の目前に、家臣の明智光秀の裏切りに合い、本能寺で討死した。

★当時中国征伐で、敵の毛利と中国の岡山で対陣中の羽柴秀吉が、目前の敵の毛利氏と急遽和睦する。

後世に『秀吉の大返し』、と呼ばれる撤退作戦で、本拠地の姫路城に逃げ込んだ。

そこで、兵を整え、信長の遺臣で中間の大名と連絡を取り合い、京都、大阪の境界線で、宇治川、鴨川、木津河の三川の合流する、天王山の麓、大山崎で、明智光秀の軍と決戦、一日の戦闘で明智軍に勝利。

★山崎の合戦で敗れ逃げる光秀を小栗栖の竹林で討ち取った。

続く、柴田勝家とは、賤ヶ岳の合戦で勝利し、自国の北の庄に逃げ込んだが、自害し、落城する。

★、信長の家臣・筆頭の柴田勝家を撃ち取り、織田信長の後継者は羽柴秀吉である事を天下に示した。

★秀吉は順調に天下を取ったものの、後継者に恵まれず、糟糠の妻、寧々(ネネ)が子宝には恵まれれば、寧々が育てた子飼いの武将、加藤清正、福島市松等に囲まれ、豊臣一家は団結し、決して家康の付け込む透きはなかった筈だが、石田三成等の官僚的な智将が、大事な『御世継秀頼様』と、奥御殿に隔離し、子飼いの武将達の間に壁を造った。

秀吉は側室の淀君と、彼女の産んだ秀頼を溺愛した。

秀吉の死後、淀君が徳川家康と、豊臣家大事の三成一派と組んで、政権の座を争った。

結果は徳川家康側の圧勝で、家康の手によって豊臣家は滅ぼされた。

―徳川幕府の誕生―

★家康が豊臣を滅ぼし、天下を取り、江戸に幕府を開いたのが、1615年(慶長5年)である。

家康は、『元和偃武』を、天下に宣言する。

この意味を説明する。

『元和』(平和になった)』『偃武(武器を伏せて武器庫に収める)』。

『平和になった、武器は武器庫に収めよう』と、宣言した、稀有の権力者であった。 

★我々は、日本という国が先進国としては、稀有(稀な)な平和主義の国家であった事に、自信と誇りを持とう。   続く、