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粋なカエサル

「ザルツブルクからウィーンへ」②

2018.10.11 11:00

 モーツァルトにとってレオポルトは、かけがえのない父親であり、天賦の才能を磨き上げるのに最も功績のあった最高の教師であったことは、自他ともに疑う者はいなかった。しかし、モーツァルトはただの天才ではない。ハイドンは「今後百年は、このような天才は現れないだろう」と言った。ゲーテはこうだ。

「いかに美しく、親しみやすく、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。いつか誰かが成功するかもしれぬという様な事さえ考えられない。元来がそういう仕組にできあがっている音楽だからだ。はっきり言ってしまえば、人間どもをからかうために、悪魔が発明した音楽だと言うのである」(エッカーマン『ゲーテとの対話』

 いずれにせよモーツァルトの音楽は、ある種の人間離れした光彩を放っている。そしてそのような彼の音楽が創作されるようになるのは、1777年のザルツブルク旅立ち(辞職願を出してのパリ旅行)の頃から。ある音楽評論家は「(その頃)モーツァルトは突然巨匠になった」とまで言っている。父親とコロレド大司教、ザルツブルクという彼にとっての抑圧から解放されるとともに、初恋を経験し、さらには失恋、母親の死を通して、精神的自立に向けて歩み出したこと、それによって創作力が自由に羽ばたき始めたことがその原因だろう。精神的自立とは、彼にとっては何より「親殺し」、「父親殺し」だった。 結婚相手に、全く父親の意にそぐわない女性(初恋の女性アロイージアの妹コンスタンツェ)を選んだのも「父親殺し」の一貫だろう。モーツアルトは死ぬまでその戦いを続けることになるが。

 ウィーンの街もモーツアルトにとって非常に幸運な状況にあった。1780年11月29日、マリア・テレジアが亡くなりヨーゼフ2世の単独統治が始まった。実行力の点でマリア・テレジアには格段に劣っていたが、考え方は遥かにリベラルで、様々な改革に取り組みモーツアルトのよき理解者にもなる皇帝である。彼は、1765年マリア・テレジア宛にこんな手紙を書いている。

「・・・すべての人は生まれながらに平等である。われわれは両親から、生き物としての生命を受け継いでいるにすぎない。したがって、王、伯爵、市民、農民の間には全く何の違いもありえない。私は、どのような神聖な法理も自然な法理も、この平等をくつがえすことはできないと信じている。・・・」

 フランス革命の24年前のこんな文章を書いている!この啓蒙専制君主ヨーゼフ2世統治下のウィーンで、モーツァルトは次々に傑作を生みだしてゆく。

 (「ウィーンの眺望 かけ橋 1780年」)

(「グラーベン 1782年」)

(ヨーゼフ・ランゲ「コンスタンツェ・モーツァルト」ハンタリアン・アート・ギャラリー グラスゴー)

(ヨーゼフ・ランゲ「コンスタンツェ・モーツァルト」ザルツブルク美術館)

(ゲオルク・デッカー「ヨーゼフ2世」アルベルティーナ ウィーン)