神様は外側にはいないし、死んだ後も違う世界があるのではない。(と思うようになってきた件。)
子供の頃からの刷り込みみたいなもんで、
神様っつーのは外側にいて、
死んだらどこか全く別のところに行くんだろうな。
という思い込みは、
実は私も普通に持っていた。
当たり前に持ちすぎていて、
疑うことすらしてこなかった事実に気付いて、
違うんだ、そうじゃないんだ。
とわかった時、何か重い荷物を手放せた感があり、
大変楽になった。
だったらドラゴンからのメッセージとか
チャネリングしてお客様に届けている自分はどうなんだ、
矛盾してないか、とも思わなくもないんだが、
私達はこの地球に生きていて、
物質や、拠り所みたいなものを掴んでいないと、
不安な生き物なのだ。
『千の風になって』ではないけれど、
お墓に、亡くなった人の魂は置かれていない。
しかし、お墓が無くならないのは、
残された人が、そこにいるのであろうと、
故人を思い出す為のツールの1つであることを
わかった上での、行為なのかもね。
何かを願う時、
世界も宇宙も意識で繋がっているんだから、
どこで願ってもいいはずなのに、
モノの世界で生きている以上、
神社仏閣に足を運んで、
心を静めて、願いにフォーカスする行為も、
同時にアリ。なんだと思う。
ドラゴンからのメッセージも、
必要な人にとっては、
涙が出るほどの拠り所になるらしく、
そんなメッセージなど必要ない人も、
それはそれでオッケーなのだ。
だから、結局神様も外側にはいないけど、
外側にいると思って安心出来るなら、
それはそれでいいわけだし、
世界はその人の為にいろんな道具を提供してくれて、
なんて心が広いんだ。
と思う訳です。
他の誰かにとって、
藤井フミヤは必要なくても、
私にとって、藤井フミヤは無くてはならない存在で、
自分に必要ないものに、
いちいち批判などしなくても、
みんな好みで生きてるだけだもんね(笑)
それでいいじゃんか。
世界はみんなに合わせて、 いろんなものを与えてくれる。
地球って、すごい世界だ。
矛盾の海で泳ごう。
この世界は、矛盾も受け入れてくれるのだから。