NIPTに関する法律
新型出生前診断を社会的側面によって語る時、そこには「優生保護法」の存在なしでは成り立ちません。
現在は、母体保護法として存在しており、中絶や避妊についての法律です。
法律によって厳格に定められているために、新型出生前診断での選択は、とても難しいものになります。
新型出生前診断のルール制定において、この法律がおそらく見直されることになるでしょう。
著書「新型出生前診断の全てがわかる本」からアップしておきます。
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ここで、優生保護法について説明していきましょう。
優生保護法とは、1946年から1996年までに存在していた法律です。
優生学的な断種手術、中絶、避妊を合法化した法律で、1996年に優生学や断種に関する条項が削除され現在、母体保護法になって生き延びています。
そのため、現在では旧優生保護法とも表記されています。
この優生保護法とはどのような背景で出来たものでしょうか。
19世紀後半にフランシス=ゴルトンが提唱した優生学は、20世紀に入って世界的に国民の保護や子孫のためとして大きな支持を集めるようになりました。
第二次世界大戦の最中にナチスドイツがユダヤ人の大虐殺を行ったり、あるいは戦後旧満州から引き揚げ船が帰ってくることになって、沢山の望まない妊娠を強姦等で受けられた婦人の人たちが多数舞鶴で中絶手術を受けられたりという記録が沢山のこっています。
望まない手術と、望まない妊娠と、それから優れていない種の保存をしないということで、そういう人達の中絶手術を行う、または断種手術を行うということは、当時非常に大きな問題をもっていたわけです。
この優生学の教義の考えというものは、1907年にインディアナ州では世界初の優生思想に基づく堕胎・断種法が制定されていました。
1923年には、全米32州で制定されました。
カリフォルニア州などでは性犯罪者、それから性病の中で梅毒の患者、こういうものも対象となったこともありました。
1930年にはドイツ、北欧諸国など世界的に断種法が制定されていって、日本でも1940年年代には国民優生法が制定され、戦後、1948年に優生保護法に改められました。
1948年から1996年がスタートになってあるわけです。
戦後の優生保護法の背景になったのは、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題が中心でした。
戦前から産児調節運動家として活動してきた加藤シヅエ氏や太田典礼氏は、1946年に第22回衆議院議員総選挙で当選した後、日本社会党の代議士となり、優生保護法案を提出しました。
母胎保護の観点から多産による女性への負担や母胎の死の危険もある流産の恐れがあるなどと判断された時点での堕胎の選択肢の合法化を求めました。
彼らは死ぬ危険のある出産は女性の負担だとして人工妊娠中絶の必要性も合法化したいと主張しました。
これに加えて、国民優生法では不充分であるされた断種手術の徹底も求めた。
しかしながら、この社会党案はGHQとの折衝に手間取ったこともあり、国会では十分な議論がされず、審議未了となりました。
ここで介入したのが参議院議員の谷口弥三郎氏でした。
谷口氏は太田氏らと共に参議院で同法案を提出することをもちかけました。
社会党内には反発する声もあったが、妥協して原案の修正を認めました。
結局、1948年6月12日に参議院で先議された後、衆議院で可決され、7月13日に法律として発布されました。
1949年に優生保護法は改正され、1952年にも改正され、国家的に避妊を奨励、中絶規制を緩和する内容となっていきました。
1952年には「経済的理由」を目的とした中絶が認められることになりました。
このようにそれぞれの時代の背景を十分に考慮してみると、この優生保護法というのは、
「あくまで国民の生活の意義というよりは、社会的な問題を解決するための法案として作成されたという歴史的な経緯」
があります。
これら一連の改正を主導したのは谷口氏で、太田氏は1948年に社会党から除名されています。
翌年1月の選挙で落選しています。
社会党の提出者の一人、福田昌子氏は社会党色に乏しいと評された人物で、谷口氏に接近し、また同法案を最初に提出した日本社会党の当事者は、同法案の運用に関わる余地はなくなっていきました。
優生保護法第12条には優生保護法の「指定医師」の条項が定められました。
谷口氏が議会での反対を押し切って挿入した内容です。
同12条に基づき、谷口氏は1949年4月に優生保護法指定医の団体である日本母性保護医協会を設立しました。
同団体に参加した産婦人科医たちは、設立当初は必ずしも谷口氏に対して従順ではなかったものの、指定医の中絶緩和による経済的利益が顕著になると、1950年代半ばには谷口氏への支持が高まり、同団体は谷口氏の選挙応援団体へと化し、同時に、優生保護法の運用でも厚生省を凌ぐ実権を得ることになります。
その後、高度経済成長により経済団体の日本経営者団体連盟(日経連)からは、将来の優れた労働力の確保という視点から、中絶の抑制が主張されるようになっていきました。
また、宗教団体からは、生長の家とカトリック教会が、優生保護法の改正同盟を組織して、中絶反対運動を行ってきました。
一方、羊水診断の発展により障害を持つ胎児が早期に発見されるようになり、日本医師会や日本母性保護医協会は、生長の家などの意見に反対しつつ、障害を持つ胎児の中絶を合法化するように提言しました。
1972年時の優生保護法改正案には、下記の2つに示される胎児条項が記載されていましたが、これは同時代の出生前診断技術の進行を受けて、日本母性保護医協会が導入し、主張した結果でした。
これに対して、全国青い芝の会など障害者団体は、優生学的理由を全面的に出した中絶の制度化に反対して、中ピ連やリブ新宿センターなどの女性団体からはそれに加え、経済的な理由に基づく中絶の禁止に対する反発が広がるようになってきました。
1970年代から1980年代にかけて、中絶規制緩和をめぐって激しい議論がなされましたがそれを受け、1972年政府、第3次佐藤改造内閣で優生保護法の一部改正案が提出され、改正案は宗教団体などの意向を反映したもので、以下の3つの内容でした。
1.母体の経済的理由による中絶を禁止し、「母体の精神又は身体の健康を著しく害するおそれ」がある場合に限る。
2.「重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる」胎児の中絶を合法化する。
3.高齢出産を避けるために、優生保護相談所の業務に初回分娩時期の指導を追加する。
障害者団体からは主に2が、女性団体からは主に3が反対の理由となりました。
法案は一時廃案になったが、1973年には再提出され、継続審議となりました。
1974年、政府は障害者の反発を譲歩し、2の条項を削除した修正案を提出し、衆議院を通過させました。
しかし、1974年に同改正案、修正案に反対する日本母性保護医協会の推した候補、丸茂氏が選挙で圧勝したこともあり、参議院では審議未了で廃案となりました。
生長の家などによる、経済的理由による中絶禁止運動はその後も続きました。
マザー・テレサも中絶反対を訴えています。
一方で、日本母性保護医協会、日本家族計画連盟などが中絶を禁止するべきでは無いと主張し、地方議会でも優生保護法改正反対の請願が相次いで採択されました。
その結果、1981年鈴木内閣からは、再度の改正案提出が検討されました。
1983年第1次中曽根内閣には、自民党政務調査会優生保護法等小委員会で時期尚早との結論を出しました。
1983年投票の参議院議員選挙では自民党内の生長の家系、日母系の陣営のいずれが勝利するかが、改正案の帰趨を制すると見なされたが、勝利したのは日母の側でありました。
結果、生長の家政治連合は解散を強いられ、以後の優生保護法改正案の国会提出は断念されました。
1996年の法改正によって、法律名が現在のものに変わっていきます。
母体保護、母性保護を中心にやっていくことになります。
優生学的思想に基づいて規定された強制断種等に係る条文が削除され、「優生手術」の文面も「不妊手術」に改められました。
なお、優生保護法、母体保護法ともに、議員立法によって制定・改正が行われてきていますが、行政実務上の主務官庁は厚生労働省となっております。
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この母体保護法によると、新型出生前診断で陽性が分かったから選択的中絶をすることは、母体保護法に違反し、堕胎罪にあたるということになります。
しかしながら、人工妊娠中絶をされる場合、医師は経済的理由による中絶と記載することがほとんどです。
ですから、形の上では、障がいによる中絶ではなく、あくまで障がいの有無ではなく、育てられるか?という経済的負担を考慮したものとなります。
このような現状で、選択的中絶が行われているのであれば、
夫婦は「常に罪の意識に苛まれ」、「社会からの冷ややかな眼差し」を浴びているのではないでしょうか。
これは、とても悲しいことではあります。
早く、遺伝子治療が進み、新型出生前診断が病気の発見、そして治療へとつながるものに変わっていけば、本来の目的を果たせるのではないでしょうか。