自然との平和を築くこと
サティシュ・クマールは、自然との平和、人々との平和、そして自分自身の中の平和は、ひとつに相互に結びついた現実の3つの側面であると主張している。
翻訳・校正:林田 幸子・沓名 輝政
私たちは自然について考えるとき、森、農場、川、山、そして動物を思い浮かべます。私たちは、人間が自然の不可欠な一部だとは考えていません。しかし、このような人間と自然との区別は根本的な誤解であり、生態系危機の究極の原因になるのです。
自然とは何でしょうか? ‘natal’、’native’、’nativity’ 、’Nature’といった言葉はすべて同じ語源から来ており、誕生に関係しています。ヨーロッパ人が現在の南アフリカに上陸したのは、キリスト教ではイエス・キリストの誕生日として祝われるクリスマスの少し前でした。それで、彼らは海岸のその部分をナタールと呼んだのです!
生まれてくるものは誰であれ、何であれ、自然なのです。だから私たち人間もまた自然です。木々や鳥や蝶と同じように、私たちも自然なのです。
人間であろうと他の動物であろうと、森や花であろうと、山や砂丘であろうと、すべての自然は同じ土、空気、火、水の4つの要素でできており、私たちはその一部です。自然と人間の間に区別はなく、自然と和解するためには、自然と人間は一体であることを理解する必要があるのです。人間は自然から切り離されていません。私たちは自然なのです。
二つ目の誤解としては、意識は人間やその他の動物のものであり、それ以外の自然は無生物の集まりに過ぎないと、よく信じられています。多くの人は、地球は死んだ岩であり、自然は機械であり、したがって人間は自然よりも優れているに違いないと考えています。人間にとって、自然は単に人間の利益のために搾取されるものであり、人間によって消費される商品を生産するための資源なのです。自然は、経済成長、産業の拡大、利益の最大化といった、目的を達成する手段に過ぎないのです。
自然と平和を築くためには、この2つの大きな誤解を正し、前提を見直す必要があります。人間の尊厳を高めると同時に、自然の完全性を維持することが目標とされるべきです。経済、産業、お金、ビジネス、利益、生産、消費はすべて目的達成のための手段であり、経済の目的は、人間の幸福を含む地球全体の幸福を確保することでなければなりません。人間は地球にとって不可欠な存在なのです。
自然には意識があり、知性があり、地球は生きているということに気づく必要があります。地球は生命体です。ガイアであり、アニマ・ムンディ(宇宙霊魂)なのです。海、森、動物は、私たちの祖先です。人間を含むすべての種は、科学者がビッグバンと呼ぶひとつの生命の源から生まれました。先住民の中には「グレート・スピリット」と呼ぶ人もいます。物語や神話、言葉は文化によって異なるかもしれませんが、私たちの多くは、すべての生命体はひとつの源から生まれたと信じています。
ビッグバンは、エネルギーと物質からなる高温ガスの爆発でした。140億年の歳月をかけて、進化はそのエネルギーと物質の一体性を、地球、空気、火と水、森と山、昆虫やその他の動物、そして人間という無数の種の多様性へと変容させていくために懸命に進んでいきました。ビッグバンの単一性から生命の多様性が進化して、私たちはこれらすべての生命体を「自然」と名付けたのです。
このように、私たちは統一性と多様性が一緒に踊っているとわかるのです。つまり統一は画一ではなく、多様性は分裂ではありません。海からの水は雲を作り、雲は雨を通して再び海に合流します。同じように、あらゆる生命はエネルギーと物質から生まれ、エネルギーと物質に戻るのです。それは生命の絶え間ないサイクルであり、生と死の旅であり、絶え間ない変化の旅です。心と物質は永遠で無限の関係にあります。一方が他方なしに存在することはありません。
関係性と相互関連性は、生命と存在の根底にある現実です。仏教哲学者のナーガールジュナはこれを「依存生起(縁起)」と呼びました。現代では、ベトナムの禅師ティク・ナット・ハンが「インタービーイング」と呼びました。ヒンズー教の聖者シャンカラチャリヤは「非二元性」と呼びました。アルベルト・アインシュタインは「一般相対性理論」と呼びました。ヴェルナー・ハイゼンベルクは「量子力学」と呼びました。彼らはみな違う言葉を使いましたが、要するに、すべてのものは他のすべてのものと関連しているということです。
この深遠で力強い宇宙の物語は、私たちは皆、互いからできていることを示しています。私たちは皆つながっています。森にいる動物も、空にいる鳥も、町にいる人間も、ひとつの地球家族の一員なのです。宇宙は私たちの国であり、地球は私たちの家であり、自然は私たちの国籍であり、愛は私たちの宗教です。人間と自然の間に隔たりはありません。自然は神聖であり、生命は神聖です。生命への敬意、生命への愛、そして互いへの思いやりは、存在する上での基本原則です。
しかし、何らかの理由で、人類の歴史のどこかの段階で、私たちは多様性の中の一体感というものを失ってしまいました。人々は聖なるものに対する感覚を失いました。山や森や動物は自然ですが、私たち人間はそれとは別物であり、私たちは自然よりも優れていて、それゆえ自然に対して何をしてもよいと考えるようになりました。自然を征服し、利用し、その秘密を盗み、従順にさせることが重要になったのです。
この悲劇は工業化、都市化、機械化につながりました。実業家たちは商業目的で森林を伐採し始め、農家は動物を狭い場所で飼育する工場農業を導入したのです。これは今も続いています。牛、豚、鶏など、日の目を見ることなく、残酷な環境で虐殺される動物がいます。これが自然との戦争です。
産業開発者たちは、農場や工場の燃料として石炭や石油、ガスを採掘し、都市に電気を供給し始めました。商品やサービスの生産、流通、消費が進歩、繁栄、発展の証となりました。より多くの高速道路、より多くの空港、より多くのショッピングセンターや使い捨て品、より多くの廃棄物や汚染が、文明と進歩の象徴となりました(そして今もそうです)。しかし、その影響で、これが自然との戦争なのです。
石炭、石油、ガスという暗黒のエネルギーは、地下深くから産出され、地球温暖化につながる温室効果ガスを大量に発生させています。膨大な量のプラスチックが生産され、海洋汚染につながり、廃棄物の山が埋め立て地の拡大につながったのです。産業文明は、自然と調和して平和に暮らすどころか、自然との戦争状態にあります。
人間は自分たちが自然を所有していると思い込んでいます。昔々、支配階級の人間が他の人間を「所有」し、「奴隷」として扱っていました。今、私たちは動物、鳥、森林、そしてすべての自然資源を奴隷として扱っています。これは人間の植民地主義、帝国主義の一形態です。私たちは人間の権利だけを信じており、自然には何の権利もないと考えています。過去には、一部の特権階級の人々が支配者として大量虐殺を行いました。現在は、産業界のリーダーや大農場や屠殺場のオーナーが、政府の承認を得て、エコサイドをしています。倫理という概念は消費社会の意識にはないようで、道徳という概念も、自然に対する容赦ない搾取、破壊、汚染の文脈では重要ではないようです。
自然との平和という理想には、所有という概念から関係という概念へと考えをシフトさせる必要があります。私たちは動物や鳥、森や農場、山や湖との関係を持っています。自然は商品ではありません。共同体なのです。自然は機械ではありません。生物なのです。自然は物体ではありません。主体の共同体です。自然は生命そのものです。生命は神聖であり、自然もまた神聖です。自然の果実は贈り物であり、私たちは慎みと感謝をもってそれを受け取る必要があります。生命は生命を維持するために生命を授けるのであって、生命を浪費したり汚染したりするために授けるのではありません。廃棄物や汚染は自然に対する罪です。川、海、土、空気を汚染する権利は誰にもありません。自然の経済は循環しており、廃棄物や汚染とは無縁です。自然のサイクルでは、大地からもたらされたものはすべて大地に戻ります。自然にはゴミ箱も埋め立て地もありません。
最近、私たちは自然の反撃を目の当たりにしています。火災や洪水、地震や異常気象は、自然との戦いとは無関係の人々にまで大きな被害と苦しみをもたらしています。
この戦争は、人間に対する戦争でもあります。自然が経済の資源となったように、人間もまた経済の資源として利用されています。ビジネスでは、HRは人的資源の略であり、近代性と物質主義のメッセージは明瞭です。つまり産業の生産性を高めるために天然資源が使われるように、人的資源もまた使われます。こうして逆説的に、自然と人間は一緒にされ、ひとつの資源となります。自然と人間は、産業と企業パラダイムの要求と目標を満たすために犠牲にされるのです。
自然と平和を築くには、私たち自身と平和を築かなければなりません。私たちが自然なのだから。そうして自分自身の中に満足感と思いやりを育む必要があります。自分たちは自然より優れていて、自然を好きなように扱うことができるという人間の思い上がりから解放される必要があります。謙虚さのない人間性などありえません。私たちの幸福は、より高い生活水準や、より多くの物質的所有物に左右されるものではないことに気づく必要があるのです。真の幸福の源は、満足感や優しさ、友情や家族、芸術や工芸品、詩や音楽、美やシンプルさ、そして特に自分自身であることです。
自然との平和を築くためには、すべての人々と平和を築かなければなりません、なぜなら、みんなも自然だからです。銃や戦車や爆弾は人を殺し、自然を破壊します。人々と平和を築くためには、文化、宗教、政治体制、経済活動の多様性を尊重する必要があります。「自分も生き、他人も生かせよ」という原則を守り、「すべての紛争は交渉と対話によってのみ解決される」という基本的なルールを尊重する必要があります。自分の命を犠牲にできる大義はあっても、ある人間が他の人間を殺すことを正当化する大義はありません。全人類は共通の誓いを立てなければならないのです。「まず危害を加えない。」こうして自分自身の中で平和を築き、世界のすべての人々と平和を築き、自然と平和を築くことは、相互につながったひとつの連続体なのです。
サティシュ・クマールは『Radical Love』と『エレガント・シンプリシティ(Elegant Simplicity)』の著者で、英国のシューマッハ・カレッジの創設者。