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Rei.Kikuchi_ Re:Life

経緯②【同病者のみなさま向け】

2018.12.15 14:54

ずいぶん前に書いた、"経緯①"記事よりつづく!(長文・乱文・暗め内容につきご勘弁頂きますよう)



18歳のときに、

左脛骨に、良性骨腫瘍である、"軟骨芽細胞腫(なんこつがさいぼうしゅ)" を発症したものの、発覚からわずか4ヶ月で社会復帰しました。入院・手術・リハビリ込みで、たったの4ヶ月で日常生活に戻れるなんて。人間の回復力は、しみじみ凄いです。



そんな。

18歳の晩秋。高校3年生でしたが、発覚した時はちょうど進路が決まった直後でした。春から東京の専門学校に進学することになったので、念願の念願だった、"上京" には絶対に間に合わせたかったのです。当初、医師から言われた治療期間は偶然にも、4ヶ月くらいと。

春に向けて、"上京" という大きな目標があったのが、リハビリの励みになり、ビョーキ発覚から治療完了まで、当時すべての流れがとてもラッキーだったのだと、いま、振り返ることができます。



そんなこんなで、なんとかギリギリ無事上京。それからも言われた通りに定期検診は受けていたものの、検診の間隔は幸いどんどん長くなっていき(それは、経過良好な証拠でした)、1ヶ月ごと、3ヶ月ごと、半年ごと。最後は1年に1回、というペースでした。

術後 4年経ち、「転移再発なし。完治と思っていいでしょう。」とのことでした。

気づけば華の20代、真っ只中。

憧れた東京にやってきて、若者らしい遊びはひととおりやらせて頂いたし、遊ぶために、よく働きました。

お金が無くても、手元にあるお金だけで呑みに行き、仕事も遊びも、寝る間を惜しんでよくやったものです。

(当時、お世話になった方々からも、たくさんの応援メッセージを頂戴しております。心より、感謝申し上げます。)



…時は経ち現在わたしは29歳で、

ここまで申し上げてきた、

「18歳のときにヤッた膝の事なんて、遠い遠い出来事」という毎日を過ごしていました。

2018年8月 にビョーキが発覚するまでは、飲食店に従事させて頂きました。

詳細は割愛いたしますが、

飲食業は、立ち仕事です。また、長時間立ちっぱなしの状況が普通です。そのおかげで、足腰の不調を訴える人も、職業柄、多いのが事実です。

ですが、馬鹿なわたしはそれを大きく履き違えていました。

気になりだしたのは、

2017年秋、ちょうど今から約1年前です。この頃は特に、自分にとてもストイックで、非常に不器用な性格でありながらも、お仕事に夢中にさせて頂きました。

しかし、不器用なわたしは、自分の体のことを1ミリも考えず突き進んでいたのです。いま思うと本当に、体に悪い生活をしていました。「20代だからまだまだイケるだろう!」といつも思い込んでいたし、やりたいこともたくさんあって、でも上手くできないこともたくさんあって、時間もうまく作れずに、そう言った全体のバランスがガタガタに崩れかけていても、ギリギリでも、それでも猛進している毎日が楽しかったのです。これは、誰のせいでもまったくなく、まぎれもなく自分が作った状況です。



崩れかけているバランスの中だとわかっていても、どうしても器用に出来ず、それでも力ずくの毎日に夢中でしたので、例の左膝が「なんか痛い」のも、見て見ぬ振りをしていました。

「寒くなってきたから、古傷がうずき出した」

「最近ちょっと無理をしたから、ウィークポイントがヤラレてる」

と、その程度に感じていたのです。

そんな感じの日常的な痛みを、しばらく放っていました。しかし、不思議な日が訪れます。2018年春の

寒いある日、起きて、膝が痛くて出勤出来なかったのです。この頃は左膝の日常的な「なんか痛い」が当たり前だったのですが、寝起きで激痛に。マッサージやストレッチをしたら激痛が引いたので、その後、遅れて勤めに出かけました。



思えばこの時なんですね。

おそらくこの時にすでに影が浮かんで来ていたのでしょう。



しかし、大馬鹿野郎のわたくしめ。

それでも病院に行かなかったのです。

結局行ったのは、激痛のあの日からおそらく1ヶ月くらい経っていました。(この頃の細かい記録も記憶もおぼろげなため、正しい日程は不明)

さらにわたしの馬鹿は続きます。



11年前に治療した大病院は大変混み合っていて、再診予約が約1ヶ月後なので、せっかちなわたしは、近所の町の整形外科クリニックに行ったのです!

医師にこれまでの経緯をザッと話し、レントゲンを撮りました。

レントゲンさえ撮れば、すべてがわかると思っていたので、レントゲン撮影できる病院ならどこでもよかった。



レントゲン撮影の結果は、

「異常なし」。

最近知ったのですが、レントゲンというものは、光?の加減などで、白く飛ぶことがあるそうで、わかりにくい写真になってしまうこともあるそうです。

その町のクリニックの医師からは、"心配ならば、以前治療した大病院に行きなさい" と釘を刺されましたが、

「なーんだ、大丈夫だったんだ!」と、ポジティブすぎる悪い癖。馬鹿馬鹿。本当に阿呆。「ケアを十分にしていけば大丈夫そうだなぁ」と勝手な思い込み。

本当に、大事なことも、感覚的によくわからなくなっていたのです。

完全に、物事のキモを、外していました。



あの不思議な日以降は、「なんか痛い」で痛みがおさまっていました。

その後、紆余曲折あり、場所を変えて、再び飲食店に務めさせて頂くことになりました。


新しい土地での、新しい生活、新しいお仕事。すべてが新鮮で、またもや夢中に働かせて頂きました。むしろ、もっと気合いを入れなくては、と、走るスピードを3ギアくらい、上げました。

新しい土地で勤めはじめて約1ヶ月。

左膝の「なんか痛い」が「わりと痛い」に変わってきました。

ギリギリまで、「新しい勤務環境に、まだ慣れていないから痛みが増したんだろう」と、またもや呑気な思い込み。



しかし、見て見ぬ振りが出来ないくらいに、どうにもしようがないくらいに、左膝は、日に日に容赦なく痛んでいました。



勤務中は、気を張っているせいか、あまり痛みませんでしたが、

とある日は、お仕事帰りに、ママチャリが漕げないほどに痛み、右脚だけで自転車を漕いで帰宅したり。

とある日は、お仕事帰りに、離れた知人に「膝が痛くて痛くて」と泣きべそかいて夜中に電話をしたり。

とうとう(やっと)限界を感じ、

まずはすぐに行ける近所の町の整形外科クリニックに駆け込みました。

2018年7月 の、溶けるほどに暑い夏の日でした。

レントゲンを撮りました。

自分でもわかっていました。

左膝の治療した部分の骨の中に、

影が浮かんでみえました。

ハッキリではないけど、

間違いなく、みえました。

医師が「すぐに大病院に行きなさい」と言い、紹介状等の準備をすぐにして下さり、すぐに予約をとりました。

事情を話したら、東京の大病院では、無理矢理予約をねじ込んで下さって、

町の整形外科クリニックを受診した翌週には、大病院へ、約7年ぶりに再診に行くことが出来ました。





とても冷静でした。

「やっぱり、悪かったんだな。」

という、静かな静かな落胆。

この時すでに、最悪のことまでわかっていました。

悪性腫瘍だったらどんな治療をするか。とにかく厄介だ、ということもだいたい知っていたので、あとは、この事実を受け止めるだけでした。



いちばん最初に思い浮かんだのは、

「お仕事、どうしよう。。」

そして、

「たぶん、これは、ヤバイことになる。」

の2つ。



新しい土地での、短すぎる勤め。

そちらには、たくさんのご迷惑しか差し上げられず、それでもそんな中、職場の皆様にはあたたかいご厚意やお言葉を頂戴し、もう本当に頭があがらず、感謝の気持ちが溢れるばかりです。

しかしその反面、自身の「無念」がより一層に重く大きくなり、その時期は、とても厳しい想いを抱えて、じめじめと肩を落として過ごしました。



2018年8月。週一で東京に行き、検査検査。それ以外の日は、身の回りの整理。「長らく帰って来られないだろう」という前提で、お役所手続きや、荷物の整頓などをする日々が続きました。



2018年9月上旬。

最終的な検査として、

切開生体検査(全身麻酔での手術)を実施。

6日間の入院と、手術。松葉杖生活のはじまり。



2018年9月下旬。

生体検査の病理結果が判明。

「悪性骨腫瘍=骨肉腫」宣告。

宣告から4日後には、入院、治療開始。



こうして、いまに至ります。




話、重ーっ!!

どよーん、じゃないか!久々に!

巻き返したくてもしようがないので、

巻き返しはとくにせずに、

いったん退きます。

後処理しない、酷いヤツ。

でも。



こうやって書いてみると、

「ハッピーエンドは、

自分で作ればいーんだな!」

と、やる気がメラメラ出ました。

やっぱ、ハッピーオチ無いと、

きっつい、きっつい。暗〜っ!笑

わたしは、やっぱり、

せつなくてもいいから、

ハッピーエンドが好きです。

photo by 俺   @空中庭園のお花さん


注)このBlogは、「とある患者のとある話」です。記載情報にまつわる内容は必ずしも全ての患者さんに当てはまることはなく、専門性や信用性に欠けます。的確な判断や正しい情報は、主治医や各医療専門機関にご相談・お問い合わせをお願いします。