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6)ハル・ノートとは?

2018.10.15 17:19

6)ハル・ノートとは? 

―ハル・ノートと称する実質の宣戦布告―

★国力十倍もあるアメリカの何故、日本が戦いを挑んだか?

何故日本は正式統計のGDPでは日本の四倍だが、国土の広狭・人口の比、資源の有無、工業生産の発展状態を見れば、実力は日本の10倍と言っても過言ではない。

この現実を無視してまで「日米開戦」に踏み切ったのか?

常識では考え難いが、それらに関係無く日本に開戦を選択させるべく仕向けた、アメリカの挑発行為である。

東京裁判でのパール判事の言葉である。

★「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を、他国に送れば非力な小国のモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ、必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」。

『窮鼠猫を噛む』である。

勝ち負けを度外視しても開戦を選択せざるを得ない理由こそがまさに『ハル・ノート』である。

 ―ハル・ノートの正式名称―

『合衆国及び日本国間の基礎概略』

開戦前夜、たった12日前の、昭和16年11月26日アメリカ国務長官 コーデル・ハルが日本政府に対して通告してきた文書で、これを読んだ日本国はアメリカからの最後通告と解釈したのは当然である。

★既に当時日本は、アメリカ・イギリス・支那・オランダによる対日経済封鎖により石油・ゴム・といった資源のほとんどを供給停止されていた為に、南方進出を真剣に考えていた。

―東南アジアの国々はほとんど欧米の植民地であるー

その国々を独立させ対等貿易を行えば、日本に活き残る道はあった。

その為には、アジアから欧米の植民地支配を排除せねばならないが、欧米と開戦できる国力は無い。

そんな状況下なので日本は、日米開戦を回避すべくぎりぎりの条件を提示して、日米交渉の妥結を願った。

日本政府は、秘密裏でオランダ政府と、南方資源と呼ばれた、ボルネオ、セレベス島の、ロイアル・ダッチ・シェルが産出する石油の販売の交渉をした。

だが、米英に遠慮したオランダは、首を立てには振らない。

★ハル・ノートの名前は聞きても全文を読んだ方は少ない、と思うので全文を公開する。

―決裂に備え日本は、(甲)(乙)の二案も用意しているー

条件「甲案」とは

1・ 日支(日本と支那)に和平が成立した暁には支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。

2・ シナ事変(日中戦争)が解決した暁には「仏印」(フランス領インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。

3・ 通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら、太平洋全域とシナに対してもこれ(撤兵)を認める。

4・ 日独伊三国同盟への干渉は認めない。

更に「甲案」での交渉決裂に備えて日米戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定協定案として「乙案」も用意してあった。

条件「乙案」とは、

1・ 蘭イン(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保障されアメリカが在米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束した暁には、南部仏印から撤兵する

2・ さらにシナ事変が解決した暁には仏印全土から撤兵する。

要するに日本に対する経済封鎖が解除され、石油などの資源が供給されれば南方に進出する必要性は無くなる。

★それと引き換えに、日本も全面撤退に応じるという内容である。

この事については、駐日大使ロバート・クレーギーが帰国後政府に提出した報告書で「日本にとって最大の問題は南方進出では無く、耐え難くなりゆく経済封鎖を取り除く事だった。と書かれており日本の南方進出が「領土的野心」等では無かった事を証明している。

★東京裁判で、アメリカ人のブレークニー氏も、「日本の真に重大な譲歩は甲案であり、甲案において日本の譲歩は極限に達した」と述べている。

日本側は対米交渉において、「これ以上は応じられない」、譲歩を示したと言う事である。

しかし、それに対しアメリカは11月7日に「甲案」、11月20日に「乙案」をも拒絶した。

11月26日に日本が到底受け入れる事の出来ない「ハル・ノート」が提出された。