《紀行文》佐合島 さごうじま 2018
2018年10月17日
「こんなところに佐合島がある。よし、行ってみようかな」
訪島する理由なんて色々。鮮やかな情景写真に誘われることもあれば、白地図一枚に無性に探究心を燃やすこともある。佐合島の場合は、祝島と牛島行きを検索している最中に、たまたま2島の近くに佐合島(と馬島)があることに気付いたので、
「どうせ行くならまとめて」
と、当然のように旅程に組み込んだに過ぎない。これはもう、ほとんど義務感のような感覚で。インターネットで検索しても、佐合島に関してはほとんどHITすることはなく、謎に包まれているところが唯一の――と言ったら失礼だが、この時の正直な気持ち――魅力だった。
「もし行くなら、同じ航路上にある馬島と併せて訪れよう、いつか、いつかは……」
10年以上前から漠然と訪島したいと思っては、いたのだが。リアルに渡島している自分の姿を想像したのは、この時が初めて。ずいぶん時間がかかってしまったなぁと思った。
それにしても、この2018年は、西日本豪雨と台風24号の被害が大きい年だった。9月中旬、私は豪雨の被害から2か月ぶりにJR山陽本線が運転再開したというニュースを見て、佐合島を含む今回の熊毛群島巡りを計画したのだ。しかし、航空券を手配した直後。襲来した台風24号のせいで、再びJR山陽本線は運休してしまったのだ。こんな滅多にないことが、この僅かな期間に立て続けに起こるとは驚きだ。熊毛群島巡りで、JR山陽本線は重要な交通手段のひとつなので動かない事には巡れないのに、どうしよう。災害続きで本当に嫌な年である。
とは言え、熊毛群島歩き以外に行きたい島はこの時は思いつかない。遥かな防州の島へ想いは募るばかり!リアルタイムで運行状況を確認して、旅程を改めて組むことにした。詳細は省くが、それはもう綱渡りのような旅程で。
そして2018年10月中旬、飛行機、タクシー、JRと乗り継いでやってきたのはJR柳井駅。一度は危ぶまれた今回の熊毛群島歩き。この日を迎えられた事は感慨深い。ここに来るまで、飛行機の遅れで予定が最初から狂って慌てたのだが、それも無事にクリアした。
更にここからタクシーで15分ほどかけ、馬島・佐合島へ船がでる麻里府港へ向かった。これから乗船する定期船『ましま丸』は、麻里府港(田布施町/本土)を出港すると、馬島、佐合島を経由し、佐賀港(平生町/本土)まで往く。今でこそ1本の航路で2島巡れるのだが、わずか十数年前まで馬島(田布施町)と佐合島(平生町)は全く別々の航路だった。それぞれ自治体が異なっているため、馬島は麻里府港からのみ、佐合島は佐賀港からのみと、いかにも行政の事情を窺わせる航路だったわけで。それが平成18年頃、馬島⇔佐合島の間が繋がることとなり、両島を併せて巡れるようになったのだ。地図で見れば、両島は想像以上に近距離で、それまで繋がっていなかったことに驚かされる。平成18年以前に渡ろうとしたならば、せっかく馬島に訪れても目の前の佐合島へは日程が足りずに渡れず引き返すことになっていただろう。
かつて長崎県の池島で電気配線の仕事をしていたというタクシー運転手さんとは、当然話が弾み、楽しい車内だった。JR柳井駅から予定通り10分で小さな麻里府港に着いた。岸壁から垂直に設置された浮き桟橋には、既に定期船『ましま丸』が大人しく待っている。麻里府の渡船場は、幹線道路から一本入って、旧街道らしき道沿いにある港で味わいがある。ちょうどいい日差しと秋風が心地よくて、港に立つと既に島に降り立ったかのような清々しさ。時計を見ると、出港まで10分を切っている。出港まで乗船券を買ったり写真を撮ったり、島旅はルーティンでやることがいっぱいだ。乗船券を買おうと待合所に走って行くが、そこはチラシを立てかけるラックがある程度で、ほとんどがらんどう。
「なるほど、そういう乗船スタイルね。」
切符は船内で買うものと判断し、180°方向転換、浮き桟橋に走る。数人の男性船員さんたちが船の前で作業をしていた。
「切符は船内でどうぞ!」
やはりそう言うことらしい。待合室で切符を買う船もあれば、船内で買う船もある。鉄道の無人駅とワンマン運転みたいなものだ。
船員さんの明るいハリのある声に、島旅心に火が灯った。この辺りの土地柄の様で、今回の旅で出会った人は老いも若きも、明るい声と笑顔で接してくれる人が多い。道路ですれ違った小学生ですら、挨拶にニコッと笑顔を添る。どういう背景でこんな人たちが育つのだろう。誇れることだと思う。
船内は空間が広く感じる縦列シートで、仕事と想像できる人が2組3人が既に着席していた。静かに席について、荷物を下した。旅の人は私だけのように見えた。
ましま丸が走り出してから、1人の船員さんが1人ずつ廻り、船賃を集め始めた。
「どちらまで?」
「佐合島へ渡った後、馬島に行きます。最後は麻里府へ戻るつもりで」
他の人達が往復料金を支払っていたので、私もそれに倣い、」少々複雑なルートをまとめて告げた。船員さんは、全員から一通り船賃を集めると客席の隅で集計を始めた。手持ちの切符シートに改札鋏で穴を開け始め、船内に「パチンパチン」と懐かしい金属音が響く。無意識のうちにその手元に熱い視線を送ってしまう。
私はしばらく穴の空いた半券を手渡されるのを期待していたのだが、一通り作業が終わると切符シートはどこかに保管されてしまった。ここでは一度料金を支払えば、このまま乗船券がなくても復路に乗船できるらしい。だが、複雑な予定の私も、乗船券が無くて混乱しないのだろうか。
「大丈夫ですよ、今日は一日、私は船に乗っていますんで、(あなたのこと)覚えておきますから」
控えめに笑いながら船員さんは言った。なんか、照れた。
ましま丸は馬島を経由した後、佐合島に接岸する。船を降りたのは私ひとりで、他の乗客はみんな馬島で下船していった。
浮き桟橋が繋がれた防潮堤の付け根辺りは、不自然に広いスペースがあった。違和感があるので、自然と「何のための場所だろう」と疑問が湧く。後に聞いた話だと、元は小中学校の校庭だったと知り納得だ。その学校は、昭和30年代のうちに閉校となっていて、校舎などは全て取り壊され、現在、学校の面影を感じられるものはこのスペースだけだという。閉校してからは、佐合島には小学校が無かったという。私が訪れた島の中で、これほど早期に島から学校が無くなってしまった場所は無かったと思う。どんな小さな島でも、1970~80年代までは学校があったという例が多かったからだ。現在、広いスペースの奥に『佐合島小学校跡』の碑が建ち、新たにマリンアクティビティの用具を収納する木造の納屋が建てられている。秋空を映し込む海を前に、カヤックやパドルが盛んに夏色を主張する。カヤックで馬島へ渡る人が多いそうで、夏場は来島者で賑わうそうだ。
しかし、今日は誰もいない。接岸する直前、島の北側の墓地で人の姿が見えた気がするが、幻だったのかなと。
さて、まずはどうしようか。とりあえず船の待合所を見てみよう。待合所は自治会館の建物の一部になっていて、雨風を凌げるしトイレもある。ここへ荷物を置かせてもらってもいいだろうか。閉めたままのガラスの引戸に顔を近づけ中の様子を窺っていると、60代くらいの作業着姿の男の人が、道をこちらに向かって歩いて来ている。私は慌てて挨拶をし間髪入れずに島巡りで佐合島に訪れたと、しどろもどろで説明すると、その人は二ヒヒと笑って話を切るように、
「背中の(重い)荷物置いてったらええよ。もちろん、荷物を持ち歩くのが好きなら置かなくてもいいけどね」
と言い置き、またどこかへ行ってしまった。港で降りた私の姿を見て、親切でわざわざ声をかけに来てくれたのだろうか?それは少々思い上がりというものか。とにかく、これで心置きなく待合所のソファにザックを置いておける。身軽になって島を歩き始めた。
待合所を出ると、自治会館の横の芝生を先ほどの男性が電動草刈機で刈っていた。エンジン音で会話もままならないので、会釈して通り過ぎる。自治会館の裏手には、水路が流れていた。真新しい白いコンクリートの補強が目立つ一方で、ベースは長年踏みならした石の橋だ。島の人口は十数人と聞いていたが、新旧土木が混ざり合い活き活きとしているものだから、記録以上の人が本当は生活していそう。相変わらず、まだ1人しか出会っていないのだが。
水路には、養分豊富そうな泥が川底が堆積していて、水面に露出した部分と石積との境目に息を潜めるカニを見つけた。赤い。恐らく向こうの方が先に私に気付いて、たった今慌てて潜り込んだに違いない。山側からわずかに水の流れを感じるが、満潮時には海水に押されて汽水にもなるだろうか。
「これは、海のカニかな?山のカニかな?」
じっくりその姿を見たくて、向こうから身体を出してくるのを待つが、相手だって場合によれば命にかかわる状況なわけで、易々と出てくる真似はしない。根競べしていると、やがて目が慣れてきて、あちこちに潜むカニの姿が見えてくる。ワクワクが溢れ出る!
カニとの睨み合いは膠着状態が続き、気付けは十数分が経過。いい加減、島歩きへ戻ることにした。私の負けだよカニくん。不本意だったのは本当だ。
細い小路を北に向かって歩いていくと、時折右手の路地の先に小さく海が見えた。島の小路歩きはやはり最高だ。この島も洩れなく空き家が目立っていたが、どこも敷地が広く、ゆったりとした家づくりをしていたことが窺える。
かつて住宅があったであろう空き地には砂利が敷かれ、オリーブの木が植えらるなどして整理され続けている。人口十数人というだけあって、なかなか人に出会うことはないが、どこもよく手が入っている印象だ。夏草に呑まれても不思議でないような場所が、キャンプ場のように広い短草の地面になっているのだから。今さっき出会った自治会館の草刈りをしていた人の姿が頭に浮かんだ。島の人たちは、“マメな人”の精鋭部隊なのだろうか。
島内に1か所だけある寺院・覚勝寺にやってくる。斜面に集落を形成する島でよく出会う本殿の前の敷地がほとんどない寺院で、法面を保護した玉石の石垣が目立つ。民家は平地にあるのに、この寺院だけは一段高い所にある。特にお寺の由緒書などの説明板は見当たらなかったので、本殿の前で静かに手を合わせた。ふと見上げると、本殿の左側に梵鐘が吊るされ、中備にはハッとするような緻密な牡丹の浮彫が飾られている。こちらはどういう経緯でこのような装飾になったのだろう。聞く人にも出会わない。職人技を感じる細工に、塩飽大工の仕事を思い出した。
更に北上し、集落のはずれにやってきた。集落内の小路は必然的に漁港から続いていた海岸沿いの一本道に集約される。この海岸沿いの道が島内で一番幅のある舗装道路なのだが、国土地理院の地図では「軽車道」の表記になっていて、その基準は「1.5メートル以上3メートル未満」らしい。私はこの「軽車道」クラスの道路がメインになっている小さい島に惹かれることが多く、島選びのひとつの目安にもなっている。埋立てや拡幅工事の影響を受けておらず、旧道のまま殆ど変わっていない可能性が高いと考えられるからだ。佐合島の集落前の海には、海側に反り返ったコンクリートの防波壁が設けられているが、島の人に聞いたところ、やはり道幅だけは昭和初期の頃よりほとんど変わっていないという。道路と集落の間に、舗装前の名残のような砂地があることに気付いたときなどは、小躍りしたいほど嬉しい。宮本常一氏が写したような古い離島の欠片のような風景……自分の脚で歩いて発見できた喜びは代えがたい。
島の北端の墓地を目指し、ゆるい弓なりの海岸線を北上する。これまで岩がゴツゴツしたイメージなどなかった佐合島だが、饅頭のあんこが飛び出てきたかのように、山から道を挟んで海に向かって、巨岩がこぼれるように落ちている。周囲を見回しても、海岸に岩が落ちているのはここだけで、しかもまるで庭石のように形の整った変成岩だ。先ほど船上から確認していて、不思議な光景だと思っていた。地形図を確認すると、弓なりの浜の北端だ。この岩にまつわる話を知りたかったが、島の人に尋ねても首をかしげるばかり。佐合島の体内が見られるので“佐合島のこぼれ岩”とでも名付けておこう。
墓地までやってきた。墓地があるのは、島の北端で発達した砂州の上。集落から離れた砂地ということで、土葬の頃のと変わらない環境だろうと推察する。墓碑は四角柱で戦後の物が多かったが、各家の墓地の中にちらほら舟形の中に彫られた昭和初期より昔の如来像や地蔵像があった。元々はこのような刻像塔も多かったのだろう。
北側の海とのことで、冷たい風が強いのではないかと身構えていたが、実際には穏やかで何の心配もなかった。佐合島に一周道路はなく、墓地の先まで来たところで、舗装道路は海に向かい途切れる。唐突に終わった道の先は岩面が露出していて、頑張れば進めないこともない。また砂浜が続いていたので多少のロマンも感じたのだが、北向きの陰りが急に寂しげに思えてきた。どんづまりまで来られて気が済んだので、ぼちぼちと人のいる集落に戻ることにしよう。
集落に戻ってきたところで、山手に向かって続く佐合島八幡宮の石段を登った。島を訪問した時は必ず主要な神社や寺院を訪ねるようにしているが、今回は特に前情報が無い状態だったので、何か面白い石造物があればいいという軽い気持ちで佐合島八幡宮を訪れた。それが、想像を越える立派な境内に驚かされる。
「なんて立派で、広い八幡宮なのだろう!」
本殿の大きさはそこそこだが、境内に茂る常緑樹の巨木に、余裕のある参道、それを支える石段・コンクリート、数十基を越える奉納された石造物。どれも今の佐合島からは想像ができないほどの規模だ。それが、今現在も境内が隅々まで管理されている。たまたま数日前に島民による一斉清掃があったということだが、それにしてもきれいだった。先にも書いた通り、佐合島の現在の人口は現在十数人だが、人口ピーク時の佐合島を偲ばせる光景だった。絶えず大事にされてきたのだろう。
お昼ごはんは、JR岩国駅で仕入れてきていたコンビニ弁当。丁度いいと思い座った境内の階段だったが、陽が陰ってどうにもうすら寒い。この厳かな雰囲気の中で食事をしたかったが、快適を求めて集落で良い場所を探そう。
ザックが置いてある待合所はどうだろうと戻ってみたが、中はトイレのニオイがどことなく漂っている。休憩するのはいいが、食事となると不向き。結局落ち着いたのが、小学校跡のカヤック小屋前にあった、手作りの机と椅子。無断で利用させていただいた。
何の変哲もないコンビニ弁当を食べ終えて、島の南側へ向かう。港の湾内には弓なりの砂浜が形成されていて、素朴な光景にうっとり。小型のボートは定期船が着く防波堤に係留されていたが、一部はこの砂浜にビーチングされている。現在も利用している船なのかどうかはわからなかいが、満潮時には波打ち際に浮かぶ情景が望めそう。
島の南端を目指して歩いて往くと、日除け棚があった。夏場はこの辺りが海水浴場になるということだろう。真っ白の砂浜に、黒っぽいの礫(れき)が混ざっている。中には緑がかかったような礫もあり、手のひらで角度を変えると細いガラス質の光がチラチラと輝く。なんというか、味の素がまぶしてあるようで。集落より北では見かけなかった石だ。たかが石ころも、広義では地質であり、地球の一部なわけで、島の成り立ちとも関係する。一体どんな経緯で生まれたのだろうと自由に想像するが、素人なので何にもわからない。ただただ浪漫に浸り酔う時間を過ごした。
集落に戻って来た入口付近で、少し興味を持った建築の家があった。海側の家の壁に、石垣がめり込んでいる住宅。経験上、強い風から家を守るためにこういう造りをするのだが、島の中ではここ一軒だけのように見える。海に面し、真北に向いているのはこの辺りの数件だけなので、何となく冬の風除けでいいのかなと想像していた。翌々日に祝島へ行ったら、正にこんな建築ばかりだったので感動したものだ。
この住宅の横の家では、男性が一人で薪を割る作業をしていた。風呂場は今も薪を使っているらしい。
コン・コン・バカッ
立ち話をしながら、割られては積み上げられていく薪を見詰めていたら、急速にまどろんできて半ば夢の中にいるような非現実的な世界に落ちそうになっていたところ。一人の男性がここへ自転車に乗ってやってきた。驚いて、鼻ちょうちんがパチンと割れたような。その人は先ほどの草刈りをしていた人だ。
「なになに、あなた観光で?どこから来たの」
「神奈川県の横浜です」
「え~!うっそ!俺も横浜からだよ」
どう見ても佐合島の住民にしか見えなかったSさんと言うその人は、実は横浜在住で、一年のうち数か月だけ故郷の佐合島に帰省しているという。私は飛行機と電車とタクシーと船ではるばる佐合島へやって来たつもりだったが、“また”横浜市民に出会ってしまった。細かく横浜の住所を聞いたら、家がまた近くておかしかった。
佐合島への愛が深いSさんは当然島の事にも詳しくて、何を質問してもよく教えてくれた。島の人同士、仲が良くて家族みたいなものだという。羨ましい。年に数か月滞在したくなるのもよくわかる。佐合島は人口が少ないと思ったが、Sさんのようなステイで過ごす住民も多いのかしら。
「島もいいけど、横浜もいいけどね」
最後にSさんはそんな補足をした。真実を言っているようにも聞こえたし、社交辞令にも。どちらも本音なのかな。
Sさんと会話しつつ、対岸の佐賀港を出港したましま丸が、まっすぐ佐合島に向かってくる姿を見ていた。それはお迎えの船だ。もう少し佐合島に居たかったが、ましま丸の姿はみるみる大きくなってきて、やがて湾内に入って来た。Sさんの話を聞き、佐合島で見落とした物がたくさんあったと思い知らされた!次に来られることは、今後あるだろうか。最初に出会った時に聞いておけばよかったなぁと後悔するも、後の祭り。それもガイドマップに載らない島旅らしいか。
島を去る時の、この腹八分目感がいつも口惜しい。
「もっともっと島で過ごしたかったのに……」
しかし、どんなに時間をかけて島を歩いたとしても、決して満腹にはなることはない。知れば知るほど、知りたい事は累乗で増えてゆくのだから。それが島を旅する者の宿命……とか誰か言ったとか言わなかったとか。
見覚えのある船員さんと顔を合わせ、お互い笑顔と軽い会釈を交わし、船に乗り込んだ。
またね佐合島。ありがとう。
NEXT馬島へ。
2019.12.26 更新