立花隆の本棚
このブログでもたびたび取り上げた立花隆さん。 彼は生前、様々なジャンルにわたり多数の作品を発表しました。彼が語るところによれば、作家が一冊の本を書く(アウトプット)には、書籍100冊ぐらいの情報のインプットは必要、ということです。つまり単純に言えば、1冊の本を書くにあたり、その著者は100冊以上の本を読んだぐらいの知識量がないと一冊の本は書けないのだそうです。しかもその100冊は最低ライン。もし本当に内容・見識のある本を1冊書こうとするなら1,000冊ぐらいの情報量のインプットが必要なのだそうです、(もちろん、著者独特の体験・経験本は別として、ある特定のジャンル、事柄を書く場合、事前に調査・研究・読書なりで書籍100冊以上にあたる情報をインプットし、それを反芻し、自分の視点も入れて書いていくことが必要なのでしょう。)その立花さんの言葉を踏まえて本書を見ていくと、その意味合いにとても納得します。
今回ご紹介する「立花隆の書棚」では、彼の仕事場・通称「猫ビル」(ビル一棟を丸ごと自分の書棚にして、そこを仕事場としている。ビルに猫の顔が描かれているところからこのビルの名称がきている)の書棚に保管されている本を書棚ごと写真で紹介し、保管されている書籍をジャンルごとに立花さんが解説していくという構成になっています。(その猫ビルの蔵書数は10万点とも、10万点を遥かに超えるとも言われています。数々のジャンルにおいて多作家であったい立花さんだからこその蔵書数(=インプット量)なのだと納得しました。(↓)( ↓ 写真:猫ビル、書棚写真:薈田 純一さん)
本書では書籍を分類・整理しているジャンル毎の書棚やそこに保管されている書籍を写真と解説で紹介していくのですが、保管されている書籍のジャンルが実に幅広いのに驚かされます。 また書棚に関連した立花さんが取るあげるサブジェクトにしてもここにちょっと挙げるだけで「キリスト教」「マリアの出現」「プラトン、アリストテレスから近代のヴィトゲンシュタインまでの西洋哲学」「神学」「佐藤優」「井筒俊彦」「パレスチナ・中東問題」「ソ連・共産党の歴史」「埴谷雄高」「二・二六事件」「ヨーロッパ・ブルゴーニュ公国・地方」「神聖ローマ帝国」「マックス・ウェーバー」「ギュスターヴ・ドレーの絵画」「脳科学」「サル学」、、、そのいずれの話を読んでも立花さんの見識の深さには圧倒される思いでした。例えば最近のパレスチナ問題なんかでも彼の見識とか見方がとても深く、ユダヤ人、パレスチナ人、ヨーロッパ人の歴史を公平な見地から解説しています。
しかしながら、本書の主役は、立花さんではなく、その立花さんが蔵書している書籍であり、その書籍の写真です。実は、こういった作家や文化人・著名人の書籍に注目し、彼らがどんな書籍を読んでいるのか、その書棚を写真に撮り「**の本棚」というタイトルでシリーズ化して出版しているものもありますが、そういった「本棚シリーズ」には、その人のまさに個性が現れてていると思います。きれいに(人に見てもらうために)美しく書棚の書籍をレイアウトしている人もあれば、無造作に書籍を並べてる人もいます。立花さんの場合は人に見せるため書棚を特に美しくレイアウトしている、という感じではありません。ある程度、ジャンル分けした書棚に、書籍の大きさが同じようなものをまとめ、小さいものは上段、大きなものや全集とかまとまったものは下段に置くというような感じで、照明も本を見栄え良く照らすということは行っていません。あくまでも自分の著作•研究用として読み、用済みの書籍はある程度理路整然と分野別に静かにそこへ並べて置く(寝かせておく)、といった感じの整理の仕方のようです。まさにそういったところに彼の論理的なマシーンのような頭脳の明晰さを感じます。
本書のページをめくりながら、立花さんの書棚の本書を一冊、一冊丁寧に見ていくと、いつの間にか彼の脳内を見ているような錯覚もしてきます。立花さん自身も「このように書棚の全容をパチパチ撮られるというのは、あまり気持ちが良いものではない。自分の貧弱な頭の中を覗かれているような気がする。さして美しくもないからだのヌード写真を撮られているような気もしてきたりする。」と語っています。やはり、読んだ本の一冊一冊に読んだ人の個性や性格、、或いは、その本を読んだ時のある種の赤裸々な思い、感情も見え隠れするのでしょう。。
日本のジャーナリズムの自由と品質を担保してきた作家・立花隆の猫ビルの書棚は、換言すれば立花さんの「知の工房」「知のラビリンス」とも言えるかも知れません。まさにその人の思想、考えといった内面も垣間見えるものが蔵書だと思います。そいうった意味で、立花さんの書いた著書とは違ってこの立花さんの知性の形成を伺える蔵書紹介というのは、とても興味深い企画だといえると思います。
これだけの数の書籍を読破してきた立花さん。自ら読了した書籍を見返しながら、、「これだけ年をとってくると、考えることがある。今後、熟読するに足る本に、何冊、出会えるだろうか。昔読んで、後でもう一度読み返したいと思っていた本を読み直すのと、どちらを優先させるべきだろうと迷ったりもする。もう新しい本を漁るのをやめて、かつて読んだいい本の読み返しに集中した方がいいのかも知れない。」と考えることもあったのです。
「しかし、やっぱりそれは誤りだと思う。やはり、若くブリリアントな才能に出会う方が、ずっとワクワクする。自分が若いときは、若い才能の持ち主に出会うことは嫉妬の対象にこそなれ、なかなか賛嘆の対象にはならなかった。しかし七十を過ぎて、素直に、何でもよいものは良い、と言いたくなった、、」 常に未知な才能を追い求めていた立花さん。自分の知らない世界を知る喜びを最後まで追い求めていたのでしょう。