不機嫌な果実
もうだいぶ昔だけど、この湖で幻のレインボーを目指すと心に決め、初めて釣りに行った時のことだった。
そぼ降る霧雨がふとピタリと止み、湖の対岸、高千穂峰(たかちほのみね)の裾野にあたる場所一帯に巨大な白い雲の壁が、まるで意思を持っているかのように堂々と、力強く移動してきた。
目の前を右から左へ。雄大な山をすっかり覆い隠すように、ゆっくり、ゆっくりと湖面を舐めるように移動するその様を呆然と眺めていると、同じく対岸右手の山頂にある霧島東神社からは、まるで雲を後押しするかのような荘厳な太鼓の音が「ドン・・・ドン・・・。」と遠鳴りを含みながら聞こえてくる。
その内に、真っ白な壁は目の前をすっかり覆い尽くし、鏡のような湖面はそのまま白の奥に吸い込まれて雲と溶け合った。眼前に広がる光景はまだ見ぬ天上の国の入り口を思わせた。気がつくと周りには私以外誰もいなかった。
「やっぱり、ここはそういう場所なんだ。」そう思わせてくれるのに十分な、神さびた光景を前にして畏(おそ)れはなかった。何故だか懐かしいような、嬉しいような、不思議な感情が湧き上がったことを覚えている。
あれからここに何回通ったか分からないが、あの白い壁を見ることが出来たのは後にも先にもこれ1回。
渓流シーズンが終わり、朝夕が肌寒くなってくるとまた幻を追いかける季節が始まる。数年かけて何十匹か釣ってきたレインボーの内、最大は63㎝。
年中、どこかしら何かしらトラウトフィッシングばっかりやっている節操のない雑食性トラウティストなのだけど、やっぱり何より大事なのはこの湖で過ごす時間。
レジャーとか、遊びとか、趣味とか、余暇とか、このことを表現するのに用いられる言葉はいくつもあるだろうけど、ここで釣りをするという行為はそんな軽々しいものじゃなくて、むしろ祈りや瞑想といった精神的な活動に近いものだと捉えている。
元々ここには大昔から龍神の伝説が伝わっている。また、数十年前、ここはビッグレインボーのメッカだった時代が確かにあった。
何故だか分からないが、その2つのわずかな情報が合わさって、自分の中ではこの湖の龍神はすっかり巨大かつ老成化した雄のレインボーになってしまっている。
もっと言うとなぜここまで惹かれるようになったか自分でもよく分からない。一つはもちろん渓流の禁漁シーズンでも遊べるということがあるが、私の場合はここの釣りが1番で、春~秋の暑いシーズン、つまりここで釣りが出来ない時期に他の場所に行くというニュアンスの方が多分正しい。
何でもオカルト的に考えるのが決して良いことではないということは充分分かっているが、それでも何か目に見えないものに導かれているような気がしてならない。
「虹色の龍神を狩る。」
6~7年前にそう思い立った時は、正直何の根拠もデータもなかった。
その当時知っている人は知っていたのだろうが、私は本当にここにレインボーがいるかどうかすら確信がなかったのだ。
それだけに、初めて40アップを釣ったときは本当に興奮した。
その美しさにうっとりと見惚れた。
友人とこの話しをするときは、「神殺し」なんて言葉を使うこともある。
神の化身を殺すだなんて、相当に物騒な言葉であることはもちろんよく分かっている。
また、もし実際に出会えたとして、本当にそうするのか、釣り上げるという行為をもってその心を屈服させることを殺すと言うのか、それは分からない。
もし釣ってしまった後、私自身の心がどうなるかも分からない。ただ、1本のロッドとリールとルアーでそれを釣り上げる。そして、この手に抱え、写真を撮る。
そんなことが大げさではなく、何かしら人生のターニングポイントになるような気がしているのだ。
今年は10月に入ってここまで2回訪れた。
それらしいバイトは数回あったけど、ここまでノーフィッシュ。
元々、釣れる時とそうでない時がかなりはっきりしていて、放流をしたとしても釣れない確率が高い湖だ。それはおそらくカルデラ湖特有のすりばち状の地形のせいだと思う。
一度、岸から100mくらいのところにボートを停めて、いつも使っているスプーンを垂直に沈めてみたら着底するまで80秒かかった。
ふだん岸からフルキャストしてフリーフォールさせるポイントが深くて45秒くらい。あっという間にとんでもなく深くなってしまう。
一度そんなディープに潜り込んでしまうと手も足も出ないし、仮に方法があったとしても、そんな釣りはしたくない。鱒釣りには趣(おもむき)や美学が必要だと思うから。武士は食わねど~なのだ。
まあでも、そのおかげでレインボーたちは釣りきられることなく、伝説の湖のボトムで少しずつヒレと鼻をとがらせ、ワイルドに戻り、我々アングラーを楽しませてくれる存在になる。
そしてその中にはきっといるはずなのだ。
とあるアングラーが言った。「この御池じゃなあ、50㎝以下は稚魚なんだよ。」上等だ。私ももとよりそんな数釣りは望んでいない。
その時はきっと、自分の心に長年わだかまっている固くこわばったものがきっとほどけてなくなるのだ。その瞬間を待ち望みながらここに足繁く通うのだ。なぜなら、あの時そう強く感じたから。
凶暴な理性が欲しい。
冷徹な知性が欲しい。
龍神の眼光が欲しい。
純粋な魚釣りとはだいぶかけ離れているかもしれない。でも、あの直感を信じて行動し、もう長い年月が過ぎた。そして、その瞬間まではきっとここに通い続けるだろう。
それに、例え釣れなくてもここに釣りに来るだけで、ずっと心の中でぶらさがっている苦く、酸っぱい、トゲトゲした不機嫌な果実のようなものが、少しずつ甘く熟してゆくのを感じる。
風にそよぎながら輝く湖面をぼうっと眺めているだけで、思索と感性の毛穴が心地よく開いてゆく気がする。
この湖には「魅力」というありきたりなフレーズでは収まりきれないほど深く、艶やかな力が確かにある。
また今年もその季節がやって来た。