戦国鍋テレビ風ショートドラマ 利常の命日
10月12日は小松城を建設した前田利常の命日です。
前田利常がその時の状況をだるーく語り倒します。
この時の状況について、詳しく知りたい方は以下を読んでくださいね。
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それは、万治元(1658)年のことでございました。
前日、10月11日はイノシシが多産なことから子孫繁栄を祝う行事、亥の子祝いの日だったのでございます。
利常様は夕食の御膳をお召し上がりになり、その後、お祝いの亥の子餅が出てきたとき、いつものようにお召し上がりになることなく残してしまったのです。
思えばそのとき、すでに兆候があったのかもしれません。
その後、側近の家臣たちの夜の勤務も終了し、夜勤の者たちも宿直の部屋へと戻って行きました。
利常様は毎晩、幸若舞の九左衛門の舞をご覧になってからお眠りになるのでございますが、その夜もやっぱり九左衛門の舞をご覧になりました。
舞が終わり九左衛門が帰ってから、ちょうど八つ時頃(夜の1時半くらい)だったでしょうか。
宿直の子小姓(子供の小姓)の高澤牛之助と藤田三十郎の2人を起こし、明かりのための手燭(手に持つロウソク)を持ってくるようお命じになり、雪隠(トイレ)に行かれたのです。
その間に、手を洗う水を高澤牛之助が用意し、ほどなく利常様は雪隠から出られました。
すると、廊下で突然めまいをお感じになり、たらいのふちに手を置き、そのままそこにお座りになりました。
利常様は一番の側近である品川左門を呼ぶように高澤牛之助に命じられました。
すぐに牛之助は品川左門を呼びに行ったのですが、そのとき宿直だった藤田三十郎と永原権太夫に利常様のご気分が悪いことを伝えました。
権太夫は急ぎお薬の入ったタンスを持参し、利常様にお渡ししたのですが、利常様はお薬を取り出すこともできないありさまでございました。
権太夫はあわててお薬を利常様に飲ませようとしたのですが、薬がのどを通りません。
そして、利常様は
「左門、左門!」
と一番の側近の、品川左門をお呼びになりました。
これが利常様の最後のお言葉となったのでございます。
宿直の当番だった別所三平と武本三七が走りよって利常様を見ると、もはや正気のご様子ではございませんでした。
2人は驚いて、急ぎ医者の岡本平兵衛を呼んで鍼治療をさせました。
その後、小松城三の丸や枇杷島へも触れをしたので、加藤正悦や藤田道仙が走ってやってきて、利常様の脈を確認いたしました。
そのうちに小松にいる藩士で登城しないものはいない状態になったのでございますが、このときすでに7つ半時(朝5時頃)。
小松中の医師が呼び寄せられ、利常様の診察をし終えた頃には東の空が白んでまいりました。
しかし、医師たちの治療もむなしく、利常様は脈も絶え、息もなされず、その命は永遠に失われてしまったのでございます。
御年66歳でございました。
<主な参考文献>
『三壷聞書』利常公御逝去の事 330~331ぺージより
『御夜話集 上編』302~303ページより
『加賀藩史料』585ページより
文責:安藤竜(アンドリュー)