10月12日 湯川村→会津若松市[会津武家屋敷、鶴ヶ城]→磐梯町[道の駅 ばんだい](40km)
今日は、午前中に温泉で休養を取り、午後一番に会津若松市内にある「会津武家屋敷」へと向かう。
ここは、戊辰戦争で焼失した会津藩家老・西郷頼母邸を再現したもので、会津藩において1700石の格式を有していた西郷家らしく、堂々たる武家屋敷である。
屋内に上がることはできないが、家屋の外側から見学出来る仕組み。室内の調度品や蝋人形の様子から、当時を偲ぶことができる。
屋敷内には、来訪した藩主専用の厠があり、
滑車のついた装置により便の状態を確認し、健康状態を調べられるようになっているのは面白い。
家族が使用した風呂場も風情があり、旅館の離れなどで使えそうだ。
他にも、台所や、
役人所、
警備にあたる番所、
家臣の家などがあり、家老の屋敷がいかに大所帯であったかが伺える展示内容であった。
続いて覗いた第二資料室は、どこか重苦しい雰囲気が漂う。
ここでは、戊辰戦争の会津攻防戦のさなか、西郷頼母の家族と居合わせた一族計21人が、この邸宅で自刃した様子が再現されているのだ。
涙なしには見ることができない、悲劇の現場である。
実際の西郷邸宅は鶴ヶ城のすぐそばにあった。
新政府軍が城下に迫るとの報を受け、ついに籠城戦が決まり、当家の主人・西郷頼母と長男・吉十郎は入城したが、そのとき、母や妻、妹と娘たちもそのあとを追って入城することはできた。
だが、妻子を筆頭とする一族郎等は入城せず、集団自刃の道を選ぶ。
これには、籠城戦で女子供が足手まといになることをおそれたという理由はあったにせよ、それとは別に、西郷家の特殊な事情もあったと考えられている。
家老である頼母は藩主・松平容保の京都守護職就任など、藩主の方針にことごとく反対していた。
そのため5年間の謹慎もあり、その後復帰したものの、容保との関係は微妙であったとされる。
当主がそのようであったので、頼母の家族が鶴ヶ城に入城しても、城内では厳しい立場に置かれたことであろう。
結果的には、西郷家は忠義の一族として、白虎隊の悲劇と並んで後世に広く伝えられた。このようなことを念頭に置くと、ただでさえ悲惨な光景が一層痛ましい。
次に一行が向かったのは鶴ヶ城(若松城)。
戊辰戦争で壊滅的な被害を受けたが、その後の復旧工事により現在の姿になっている。
石垣の内側にV字の急傾斜の階段が設けられているが、
これは「武者走り」と呼ばれ、守備兵が櫓に簡単に登れるよう工夫された鶴ヶ城独特の構造である。
天守閣に登るため、石垣部分の塩蔵から中に入る。
城内では、戊辰戦争150周年の企画「1968年の会津藩」の展示が天守閣の1層から4層までで開催されており、
藩校・日新館の教育や八重の桜の主人公・新島八重の生涯などを紹介するビデオもある。
4層目には会津ゆかりの先人たちを紹介するパネルがあり、戊辰戦争ののち、明治の各界で活躍した人物について知ることができる。
旧幕臣、しかも会津藩ということで、政界で活躍する人は少なかったが、京都帝国大学総長を務めた山川健次郎、福島県人初の陸軍大将となった柴五郎、明治政府への出仕を求められたがそれを潔しとせず、畜産・酪農に生涯を捧げた広沢安任など、会津の人材の豊富さを感じさせる。
5層目が天守閣の最上階で、会津若松市の市街や磐梯山など周囲の山々を一望できる。
鶴ヶ城を後にし、Yの大学時代の寮の後輩、U君宅を訪問する。
大学卒業後、初めての再会だ。
彼は林野庁の職員として、喜多方市を中心とする広大な国有林の管理を任されている。福島市や前橋市での勤務のあと、2ヶ月程前に会津地方に赴任してきたばかりだ。
福島県は2回目だが、独特の歴史と文化を有する会津地方への赴任は、彼にとってまんざらでもなかったらしい。
会津盆地は盆地とはいえ広大な水田地帯が広がり、まるで北海道の平野を思わせる風景も気に入っている、とのこと。彼の住む会津若松市の官舎から見る市街地の夜景も、なかなかのものである。
職場がある隣の喜多方市は馬肉が有名とのことで、彼が準備してくれた最上級の馬肉の刺身に、
即席でこしらえた鍋とカナッペをツマミに宴会となる。
彼はYの1年後輩。お互いの同期の寮友の情報を交換しつつ、Kのついていけない特殊で異様な寮生活についての昔話で盛り上がる。
昔話も一段落というところで、以前「福島県南部の人達は、メンタル的には北関東の一部だと認識している」というKに対し、「そんなことはない」とYが強く否定した事を思い出す。
U君に聞いてみると、あながち誤りでもないらしい。福島県北部の福島市辺りでは事情が違うようだが、郡山市やいわき市を含む県の南部では、関東地方への帰属意識が実際に存在するらしい。
また、会津地方については、そもそも「東北だ、北関東だ」という話以前に、「自分たちは会津人だ」というプライドが相当強いとのこと。
そう言えば、「会津藩士・什の掟」注)会津藩士・什の掟(什:会津藩における藩士の子弟を教育する組織)や、
「あいづっこ宣言」が
街のそこかしこに掲げられ、
手ぬぐいにも印刷されて売られている。
この掟の最後には、「ならぬことはならぬものです」と書かれている。大河ドラマの綾瀬はるかのセリフで有名になったこの言葉は、会津人の一徹さを示して余りある。
昨日も書いたが、会津の人にとって「先の戦争」は第二次大戦ではなく「戊辰戦争」とされるが、京都にも住んでいたことがあるU君によると、京都の人にとっては、「先の戦争」はなんと「応仁の乱」になってしまう、とのこと。500年以上昔のことである。京都人、おそるべし。
森林を管理する関係で猟師さんとの付き合いもあるU君が入手した、貴重な熊や猪の缶詰をお土産に頂戴し、U君宅を後にする。
今晩も、「道の駅 ばんだい」に宿泊。