十九冊目【民芸~理論の崩壊と様式の誕生~】
【民芸~理論の崩壊と様式の誕生~】
著者 出川 直樹
出版社 新潮社
柳は自身で誇るように器物と対話のできる稀有な人物であった。器物に話しかけるばかりではない。彼は器物がその胸の内を語りかけるのを聞く耳を持っていた。民芸各論のいたるところに柳の聞いた器物の声を私達は目にすることが出来る。当然工芸品の質を表すにも、正邪善悪、健康病気、正直不正直など人間にこそふさわしい形容が多用されている。彼は人間に対するように器物に対している。工芸品に人格を与えてしまっている。「物」が「者」になっているのである。「工芸の為の社会」という逆転した発想も工芸品に人格が与えられていれば、むしろ当然の発想といえる。「人間のための社会」という通常の概念に工芸が人格をもって入れ替わったのである。――自然環境、人間、工芸品という序列の中で工芸品に人格が与えられるとどうなるか、序列がひとつずれるのである。即ち人間は工芸品を生み出す環境として自然の側へ押しやられてしまうのだ。
柳宗悦が中心となって始まった民芸運動。昨今は民芸への関心が高まっており、民芸ブームともいわれているようです。ローカルへの関心の高まりと共に、昭和初期のカウンターカルチャーとしての民芸運動にも関心が集まっているように思います。「民芸・理論の崩壊と様式の誕生」と題された本書は、民芸理論を「柳好みの様式」であると断言しています。確かにそのとおりで、民芸の優れた仕事とされるものは、柳宗悦が数ある品のなかから選び抜いた柳の眼にかなった一部の優品です。そして、それらが美しい物とされ、それ以外は美しくないとするならば、柳自身が否定した「大名物」や「有名作家の作品」を美しいとするものの見方と、相違がなくなってしまいます。その点で柳の「理論」は破綻しており、残したものは、ただ「様式」であると著者は述べています。「無心であるから」「大量に作られて反復してきたから美しい」というフィルターは、確かに力のある見方ではあるけれど、そのものさしにのみ頼って物を選ぶというならば「大名物であるから美しい」ということと同じになってしまいます。ものを見る時に情報や肩書きで見ることを否定し「直下」で観よ。といった柳の言葉と矛盾してしまう。それでは柳が生涯言い続けた「不二の世界」にはたどり着けない。どこまでいっても優れたものと醜いものが残ってしまう。そして、そうなってしまうと「美醜はない」と言った理論と矛盾がしてしまう。著者はその点を指摘しています。
勘違いされやすいのですが、柳は「理論=ものさし」を決めて、ものを集めていたわけではなく、心惹かれるものを集めて並べていくうちに、民芸の理論に気がついていきました。柳は若い頃から、ものの見方ではなく心の見方を述べていたように思います。それにしても柳の審美眼が大変すばらしかったことは疑いようがありません。誰も価値を認めていなかった有象無象の物の中から、選び抜かれた秀作達が今日も日本民藝館に並んでいますが、同時代のものと比べても群を抜いて美しく、力強く、またそれらを展示する技術も含めて、いずれも生き生きと輝いていて、いつ伺っても本当に素晴らしいです。しかし、全国の民藝館が同様であるかといえば、疑問が残ります。日本民藝館のような澄んだ空気を持った館は少なく、その多くは長い時間の内にくすみ、ふるぼけてしまっています。柳の審美眼は確かに素晴らしかったですが、素晴らしかったが故に、それを模倣することで様式となっていきます。今一度我々は、柳が見つめた「民芸」という思想や様式について再度考えなければいけないように思います。
また、民芸運動には生活改善運動の側面もあり、社会的な運動であったのにも関わらず、理想の「生活」を提示することができませんでした。民芸調の家具や住居といった「様式」は提案できましたが、それも内装に留まり、「コミュニティ全体を俯瞰したもの」ではありません。柳自身は当然そこまで含めた「生活と生産と人生」について考えていたでしょう、出西窯や上賀茂民芸教団のような事例もありますが、柳が実現したかったのはもっと総合的な試みで、ラスキンの「聖ジョージ組合」や、モリスの「モリス商会」のような工芸ギルドの反省から学んだ、おおきな「素朴で美しいものを信仰の柱とする生活者の教団」だったように思います。
今日「民芸」と聞いて、総合的な「生活」を思い浮かべる人はいないと思います。その点では山本鼎の起こした「農民美術」は、「生産」と「生活」のイメージが湧きます。それは、経済的な救済や自立に価値を置いていたからでしょう。もし民芸が建築や街づくりや教育といった面にもっと広がりをみせていたら…柳が物に人格を観ていたように暖かな視線を、教育にもっと注いでいたら、民芸運動は違った広がりをみせていいたように思います。しかし、それが叶わなかったのも個々人の内面の可能性に信頼をおく白樺派の理念…(これは同時代の多くの若者が持っていた感覚かもしれません)があったからで、それがあったから民芸運動は起こったわけで、水掛け論であるように思います。では、それらからなにを学ぶのか。それが現代における民芸運動の課題ともいえます。
柳宗悦は、急速に変わり行く近代日本の「日常」を変革することは出来ませんでした。しかし、時代の価値観に疑問を投げかけ、ブレーキをかけさせ、問題定義を残したことはおおきな成果でした。それがのちの「ディスカバー・ジャパン」ブームの際に全国で地域性や意味を持たない「民芸品」という「お土産品」をたくさん生み出すことになったことを批判する声もありますが、それすら、今を生きる我々からすると過去の失敗として、反省という学びを与えてくれています。各地の文化は確かに薄められ、元のそれとは異なるものとなっているかもしれましせんが、それでもなお僕らの心を打つ伝統や文化が色濃く残っていることは真実だと思います。民芸論は日本人が元々持っている「自然さ・簡素な美・材質感を大切にする」という美観を強調しています。それは現代も未来においても生き続ける「真に日本的」なものです。現代は今一度この「日本的」なものへ立ち返ることが求められているのだと思います。それが疎かなまま地方へと消費の場を移すことは、現代の郊外都市、地方都市のような無個性で頼りがいのない「どこにでもあって、どこでもない田舎」を作り出すだけです。今一度、昭和初期の民芸運動や、同時代の運動を見直すことで、現代の貨幣社会へ舵を切る前の状態へと戻すこと、もちろん、それは単なる回顧主義ではなく「過去のシステムの発展的な回帰」として温故知新の話です。その為には、なにかを盲目に批判したり、信じこむのではなく、疑問をもって「直下」にものごとをよく見聞きし理解して、改善に努めるひたむきな努力がかかせないのではないでしょうか。