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神とあの日の自分

神さまから言われたこと

2018.10.18 18:59

神さまに言われたこと


お聖天さまに聞きたいことがあり、十一面観音様に機嫌を伺ったところ、今夜は遅い帰りだとのこと。

仕方なく、深夜をまわって、宝山寺で油供養のあるだろう時刻を待つことにして、深夜零時以降は心に任せてタイミングの良い時間を待つことにしました。


二時半に話を聞きおわり、ご真言を奉納していた後に、神さま、または、高い意識に言われたことをそのまま書きました。この文章の後半です。


ひととおり書いたものを自分で読みましたが、

じゅうぶんな理解を得ることが出来ずにいます。

そして、このことは決して私ひとりの事ではなく、私を存在のひながたとする、多くの人たちに通ずることなんだという感覚でいます。

したがって、そのまま載せます。







自分


2018年10月19日午前三時七分


もうやましい心はいらない。もう、あれが無い、これがないと言う日々も終わりだ。

一日中、優しい心で目に映り行く者たちを見つめていたい。

過去の禍も未来の栄光も、ただ映り行くものに過ぎない。

歌をうたうもの、音を体で感じる者たちを見ていたい。

神が私をどう使おうと決めたとしても、そこには真実はなく、心に映る証(あかし)の一部にすぎない。




真実は常に心の中にあって、おまえを塞ぐ闇も、おまえを照らす光すらも、おまえが選ぶ結果にすぎない。

優しさは誰のためにあるのか、それを勘違いしてはならない。

それは、おまえの愛するもののためにあるとしたならば、おのれはおのれであるまえに、おまえの見たものの心に従ってあるにすぎないことに気づいているだろうか。

優しさは、お前のためにあるならば、おまえは愛を引き裂くものにしかならない。

いいかげんに、おまえが愛することの、その結果の一つの様子に過ぎないことに気づいたらどうか。

闇にあるもの、光にあるもの、それらはそうたいした差は無いことを真に心に留めたならば、おまえの生き死にも報われることであろうに。

おまえは両極端の紐のようなものの一端に居るに過ぎないのだ。

さらに光の元にありたいのならば、闇を照らす光を観て在りかを知るのではなく、光を観て光を持つものになることが、どんなに尊いことなのか知りなさい。

旅だちは、もうそこまで来ているのです。海を渡る鳥のように、おまえは、せいがんふくの場所にたたねばならぬ。


(注)

せいがんふく

音がそのようなものであるだけで、意味はわかりません。

イメージとしては、場所を表し。日本海側の切り立った崖のある淵の場所の名前みたいです。

しょうがんぶく?