【日本橋②】人形丁
町名:人形丁
読み方:にんぎょうちょう Ningyōchō
区分:俗称→町丁
起立:江戸期
廃止:存続 「日本橋人形町」として
冠称:1947(昭和22)年3月15日から「日本橋」
現町名:中央区日本橋人形町三丁目、日本橋堀留町一・二丁目
概要:『江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図』にある。江戸期から新和泉町、新乗物町、長谷川町辺りを「人形丁」と呼んでいたようだ。江戸期に中村座、市村座等の歌舞伎や、薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)の操り人形芝居が行われた堺町、葺屋町近辺に人形遣い(又は人形作り職人)が多かったので「人形丁」と俗称され、また通旅籠町から堺町へ向かう南北の通りは「人形町通り」と呼ばれていた。
1872(明治5)年、水天宮が芝赤羽橋から移転してきてから、東京の代表的商店街の1つとして、1970(昭和45)年まで続いた寄席末広亭や大観音寺(人形町観音)、『与話情浮名横櫛』で有名な玄冶店を中心に大いに発展した。しかし、関東大震災後は銀座、日本橋等のデパートの進出により次第に衰退した。
1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、新和泉町、住吉町、蛎殻町二丁目、松島町、元大坂町、芳町、堺町の一部或いは全部を併合し、「人形町」として正式に一~三丁目を起立。東京府東京市日本橋区所属。
1943(昭和18)年7月1日、東京都日本橋区に所属。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲において、日本橋地区では人形町だけが焼け残り、戦後いち早くアーケード街が完成するなど、活況を取り戻した。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。1962(昭和37)~1964(昭和39)年にかけて都営1号線(現・都営地下鉄浅草線)、営団日比谷線(現・東京メトロ日比谷線)が開通。1976(昭和51)年1月1日、住居表示の実施により、それまでの一・二丁目に日本橋蛎殻町一・二、四丁目、日本橋芳町一丁目、日本橋小網町二丁目、日本橋浪花町の各一部を併せて町域を拡げ、新たに一・二丁目を編成。三丁目はそのまま存続。
撮影場所:人形丁