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2Danbelt Experience

新進気鋭のエッセイスト、フジサトシオリ氏から論評を頂きました。

2023.12.19 05:10

「死生観」について、あなたはこれまでに立ち止まって考えたことがあっただろうか。

自分自身の命が尽きる、その瞬間について思いを馳せたことがあっただろうか。

 

耳馴染みのない言葉に思えるが、広辞苑にて意味を調べると「死と生についての考え方、生き方、死に方についての考え方」とあり、驚くほどにシンプルに定義されている。

命あるものは誕生し、各々の人生を各々の形で全うしようとし、叶えようとし、そして、いつか必ず最期を迎える。当たり前のことである。一方で、この当然の事実を、一体どれだけの人間が、どれだけの温度感で、自分に関係のあることとして捉えられているだろうか。

まあ、そう多くはないんだろうな、と、なんとなく鬱々とした、気だるさを含む少し冷めた気持ちで思う。

 

ワタナベサトシ氏の楽曲には、この「生と死」というテーマについて、深く深く、表層意識の奥底まで引き込み、考え込ませられるような、まさに「フシギナセカイ」へ引き込まれるような感覚を聞き手にもたらす力がある。

 

【見知らぬ外へと そろそろ行こう 窓を閉めないで また戻ってくればいい】(フシギナセカイ)

 

今回このライナーノーツを光栄にも依頼いただき、その日からずっと、ひたすらに私自身の今回のテーマである「死生観」について、全わたしの感性を研ぎ澄まして向き合っている。どのような言葉を紡ぎたいのか、どんな言葉であればこの想いを伝えられるのか、ぐるぐると考え事をしている最中で、まだ自分すら見たことのない自分自身の内面と向き合っている感覚に陥る。一人でこのような重厚なテーマについて考え込んでいると、もう暗闇の奥底に閉ざされて出られなくなってしまうのではないかという不安がよぎる夜もあるのだけれど、それでもまた戻ってこれる、大丈夫、と思わせてくれる、希望の光のような一文である。

 

ここで私自身の話をしたい。

 

今回の収録曲である「ショーネン」という楽曲は、私、一個人の死生観を形成してきたこれまでの人生と強く重なり、あらためて立ち止まって考える機会を与えてくれた。考えすぎかもしれない、というくらいに深く深く考えさせてくるワタナベサトシ氏のリリックは、おびただしいほどのエネルギーを帯びている。

 

【澄んだ目をしたショーネンは 少しずつ大人になって あの小説やあの映画にでさえ もう涙も流さない】(ショーネン)

 

冒頭歌い出しから強烈的な印象だ。まるで、自分自身のことを言われているようで。

 

私は高校2年生の時、父親を亡くした。海外出張先での滞在中の突然死であり、まさに晴天の霹靂だった。温かく優しく、穏やかに微笑みながら、それでいてひんやりと凍ったように冷たい父の顔に触れた時、私はこれまでの人生で、感じたことのない感情になった。どうして元気に旅立っていったはずの父がこうなってしまったのか、頭で理解できても感情が追い付いてこなかった。

 

幼少期は童話の花咲か爺さんの犬のシロが死んでしまうシーンで泣いてしまっていた私だが、この瞬間からだろうか、死を怖いもの、悲しいものと思わなくなった。不思議と父との別れの場面でも、涙はほとんど流せなかった。今思えば、そう思うことでしか、高校生ながらに父がいなくなったことの悲しみや恐怖を乗り越えられなかったのかもしれない、と思う。

人はみな、このように人生の中のいろいろな経験を通じて、生まれ持った感情や性能の一部分を欠落させていきながら、そぎ落としながら、洗練されて成長し、大人になっていくのだろう。本当によくできた仕組みだと感じる。進化の過程で、人間が生存していくために歴史的に体得してきたシステムなのだろうか。

 

【澄んだ眼をしたショーネンは 幾つもの修羅場を越えられず 信頼していた夜からでさえ 今じゃ溢れ堕ちそうさ】(ショーネン)

 

一方で、あの時当時のわたしが、自分の体験した苦しみや悲しみを、真正面からド直球で受け止めていたらどうなっていたのか。とても重要な分岐点であるような気がして、時折考えることがある。その時の感覚と、この歌詞はものすごく、まるで口裏を合わせたかのようにぴったりと重なる。

いうなればその衝撃から10年以上たった今でも、父のことを思い出して古傷が疼く日もある。そんな時、それを無意識の感情のナイフのように、自分で自分を突き刺すかのように受け止めてしまう日があったとすれば、その瞬間に警鐘を鳴らすような、そっちじゃないよと呼び戻してくれるような、そんな暖かいメッセージのように感じている。

 

【失われたショーネンは 「なぜ生きる?」と問われ 失われたショーネンよ 答えをだしておくれよ】(ショーネン)

 

誤解していただきたくないのは、これをただ父親を亡くして可哀想なお涙頂戴のエピソード、として捉えて欲しくないということである。

私は普段、周囲の人間に父の話は尋ねられない限りはしない。実際これまでに、心無い言葉をかけられたこともあるし、一方で私の悲しみを受け止めて必要以上に負の感情を増幅し、涙を流してくれる友人もいた。

ただ本音を言えば、自分自身はそれを他人に自己開示することで、同情を受けたり可哀そうだとか思われるのは、めっきり御免である。こんなにも毎日幸せに過ごしている人間に対して、どこが可哀そうだ!という敵意すら芽生える。それは冗談として。

 

毎日の中で、誰にでも別れは訪れるものであり、ありふれた日常の話のうちの一つにすぎないと、理解している。私だけではなくて、毎日を生きる人それぞれが、各々一生懸命に、何かを乗り越えてすごしている。だからこそ、忙しく慌ただしく過ぎて行ってしまう日々の中で、そのいつか来る「瞬間」に対して、私はいつでも考えていたいし、準備をしていたいのである。

 

一番に伝えたいことは、いま、自分のそばにいる大切な人との別れ、自分自身が最期の瞬間を迎えよとするときに、悔いのない生き方とはどのようなものか、立ち止まって考えてほしいということだ。

これこそがまさに、私の思う「死生観」である。

 

「なぜ生きる?」と聞かれて、あなたはどんな答えを導きだすのだろう。

 

まさに十人十色、全員が違う答えを持っていていいと考える。なんなら、まだはっきりとした答えはみつからず、これから考えたいと感じる人もいるだろう。それもいい。

 

私がこの「ショーネン」という曲を、何度も何度も繰り返し耳に沁み込ませていく中でたどり着いた、「なぜ生きる?」に対する答え。

それは、やはり別れの瞬間や儚さ、絶望、混沌を知っているからこそ、今自分のそばにいてくれる人を、精一杯大切に愛していきたいというところに終着した。これを読む私の家族は、こんなにも私の愛を受け取って、さぞかし喜んでいることだろう。

 

様子がおかしい。

歌い出しから、魂を揺さぶられ、こんなにも奥深くまで、自分の過去の明るくはない経験について考え込ませられていたはずなのに、暗闇に閉じこもるような感情にまでなっていたはずなのに、歌詞一つ一つの言葉を自分の中の感性で咀嚼して理解を進めていくなかで、いつの間にか自分自身の生きる意味を改めて考えさせられているのだから、びっくり仰天、驚きである。

しかも、希望に満ちた、この感情は一体なにものか。

 

こんな気持ちに気が付かせてくれた、2Danbelt Experienceこと、ワタナベサトシ氏に抱えきれないほどの感謝をこの場を借りてお伝えしたい。

楽曲からインスピレーションを受けた私の「死生観」について、こうして思いを発散し、集約する場を作ってくれたことに、この上ない感謝の気持ちで溢れる。

個人的な話ではあるが、私はありふれたどこにでもいる、しがない会社員である。そんな私に、今回このような機会が巡ってきたことは、いうなれば奇跡である。大袈裟な言葉に聞こえるかもしれないが、心からそう感じている。精一杯の全身全霊で、生きる意味を見出し、明日から私の人生を全うすることが、今回のこの依頼をいただいた感謝に対する、ワタナベサトシ氏に対する恩返しであると、私は捉えている。

 

前アルバム、「棺蓋録」冒頭のライナーノーツにて、メメントモリ美容室 石渡幸治氏が明かしていたように、ワタナベサトシ氏の生業は医師である。

 

なぜこんなにも、生きること、死にゆくことについて感情を揺さぶってくるような楽曲を生み出すことができるのか。彼の普段の生活そのものこそが、彼の生み出す楽曲の根底にあるのだと気づいた今、その理由が分かったような気持ちになっている。

 

医師という仕事、病院という空間を想像してみてほしい。

あれほどまでに、生と死が隣り合わせで、紙一重のように融合しながら共存する空間というのはなかなか他の追随を許さないように思う。

天命を全うし穏やかな気持ちで旅立つ老人、それをあたかも心の準備ができていたという面持ちで送り出す家族もあれば、予期せぬ不慮の事故や病気によって、周囲もなにも心の準備ができぬまま、悲しい叫びが聞こえる日もあるだろう。

毎日そのような環境に身を置いているワタナベサトシ氏だからこそ紡げる音楽が、ここに存在するのだろうなと感じる。

 

【失われたショーネンよ 精算はもうお済みでしょう】(ショーネン)

 

私の魂が星にとどくとき、この世界に未精算は残しておきたくないなと、思う。

きっとこの曲の終着点に表現されるこの言葉の意味は、悔いの残らない、未精算の残らないように一生懸命に生きていけるように、というワタナベサトシ氏からのメッセージではないか

と、私は解釈している。

 

2023年8月。

人生初めての執筆活動に葛藤しながら、私はこの原稿を書いている。

今ある自分の眼前の幸せに目を向けながら、我が人生の中で成し遂げておきたい精算事項に思いを馳せる。

 

嗚呼、言葉にできないほどに、この時間、環境、すべてが愛おしい。

感謝を込めて。