【GWT】【K暁】水の心
呪いというものを、暁人はいまいちよくわかっていなかった。
仮にもオカルト結社『ゴーストワイヤー』の若手エースとして、穢れを浄化したり、悪霊を祓ったり、〈マレビト〉を退けたりする仕事をしているからには、当然『呪い』を解く技術も求められる。
穢れも悪霊もマレビトも、そして呪いも、元は人間の強い感情から生まれるものだ。
怨嗟。憤怒。嫉妬。強欲。暁人の心にももちろんある。コーヒーに角砂糖がひとつふたつ入るような、ごくごく尋常な程度で。それらがどす黒く凝って形を取って、赤黒く立ち上るようになるには、集積か、あるいは強い理由が必要だ。
そんな無差別な攻撃性を持つ程の激しい感情は、今のところ無縁だ。大体の人はそうだろう――と暁人は思っていたが、ある人物は言った。「人を恨みたいと言う奴は多い」と。
心は目には視えない。大なり小なり、どんな人にも鬱屈と心に積もらせる感情があり、それが長く放置されれば、やがては種のように黒く凝る。そうした恨みの種を漫然と抱えながら生きている人は結構いて、そしてそういう人たちの目には、積み重なった藁人形はとても魅力的に映るようだ。
実際のところ、そう暁人が思うより、呪いの種は世に溢れている。
いまいち理解ができないのは、暁人にそういった凝ったものが無いから、あるいは自覚していないからだ。清掃業者がカビに詳しくなるのとは話が違う。『呪い』とは人が為すもので、その動機を理解できるのは――自分も恨みたいと思ったその時だ。
「理解する必要は無い。解き方をわかっていればそれで充分だ」
祓い屋稼業の相棒であり師であるKKはそう言った。暁人も頷いた。
しかし、だ。呪いにも千差万別あり、解き方も呪いの数だけあるとはいえ。
『ンッ…ああ…そこ…』
「………」
「………」
相棒と二人で、結界まで張って、アダルトビデオを眺めるこの時間は本当に必要なんだろうか。
そう思わずにはいられなかった。
〇
今回の依頼は『呪いのビデオの浄化』だった。
「何枚?」
「…十二枚」
「多くない?」
アジトに持ち込まれたボストンバッグを覗いてみれば、ごそっと無造作にビデオが詰め込まれていた。どれも色褪せて、ラベルの文字も殆どが掠れている。
霊視してみれば、バッグから立ち上って見えるほどの穢れが浮かび上がる。
「うわ…これ、ここに持ってきてよかったんですか?」
「中身を観ない限り、直接的な害は無いみたいよ。放置していいものでもないけど」
依頼を受けた凛子が資料を渡してくれる。計十二枚のビデオそれぞれの詳細がまとめられた資料には、ビデオの内容と、推測される浄化方法まで記載されていた。
――『ビデオを再生して、中の呪いをあぶり出して祓うこと』。
「…僕たちが観るんですか?」
「あなたたちなら大丈夫よ。保障するわ」
片眉を上げて微笑む凛子に、暁人は苦笑しかできない。
KKは本当に面倒臭そうに、まだ観てもいないのにつまらなそうに、眠そうにビデオを摘み上げてはバッグに放るを繰り返していた。
それでは早速とアジトのテレビで再生しようとしたら、当然のように二人してバッグごと放り出された。
「このマンションの住民全てに呪いを振り撒くつもり?場所を考えなさい」
「オレたちに押し付けといて随分な言い草じゃねぇか、オイ」
半ギレのKKを宥めつつも、暁人も途方に暮れる。まさか安全に解呪できる場所を見つけるまで、この穢れまみれのバッグを抱えて彷徨わなければならないのだろうか。
しかし、片笑む凛子の後ろからのそのそと顔を出したエドが、二人に行くべき場所を示した。いつものように、頭でっかちの科学者らしく。
『普段から神社と交流を持ってて幸いした。位置は送信したから、そこに向かってくれ。話はつけてある』
そしてポコンと二人のスマホに表示されたのは、渋谷区の北西にある神社だった。
暁人は顔を上げる。KKもこちらを見ていた。目が合うと、互いが同じことを考えているとわかって、どうにもくすぐったい気持ちになった。
「…改まって行くのは久しぶりだな」
「そうだね」
それじゃあ頼んだの一言を最後にドアが閉じ、二人はいよいよアジトから閉め出される。
外の道路には西日が差している。夕方のホテル街を、並んでゆっくりと歩き出す。『あの夜』、暁人が怯みつつも進んだ道を、相棒と一緒に悠々と歩く。思い返すと少しだけ感慨深くなった。
「…あの時は本当に大変だったよ」
「オレの大切さが身に沁みただろ?」
またこの中年はキザなことを言う。
「うん、本当にね」
流さず真っ直ぐに投げ返してやれば、KKが一瞬たじろいだ。勝った。
アジトから北へ。おそろいの黒いタクティカルでまとめた二人の男が、ボストンバッグを抱えて歩いている。
「…ねえ、まさかだけど、職質されたりしないよね?」
「オレだったら呼び止めるな。だが、急ぐ方がよっぽど怪しく見えるぞ」
「それもそうだ…」
普段着で来ればよかった。けれど、KKがこのタクティカルで来るなら自分も揃えたくなる。子どもじみた連帯意識だが、なんたって相棒なのだ。ちょっとだけ特別に思うくらいいいだろう。
幸い警官に呼び止められることはなく、怪しい二人はホテル街を抜け、大きな鳥居の前に辿り着いた。揚々とした紫の幟旗が風に翻っている。今日は少し風がある。ぬるくて雨の匂いがする、晩夏の風だ。
『広川神社』
「ここに着いた途端にマレビトが出てきてさ。仕方ないから藪に入ったんだよ、僕」
「はは、見つからなくてよかったな」
「いや、すぐバレたからもう強引に本殿までダッシュした」
「…オマエって、たまにそういうとこあるよな」
葉を茂らせる柳の間を抜け、重々しい随神門をくぐり、まずは社務所へ挨拶に行く。エドの言葉通り、既に話は通っているようで、広川神社の宮司は快く二人を迎え入れてくれた。
「あなた方にはお世話になりましたから」
深々と頭を下げる宮司に暁人は慌て、KKは軽く笑い飛ばした。こう改まって感謝されると少し困ってしまう。暁人とKKだって散々神社から物を取り去っていったのだ。おあいこということにしたい。
「……今更だけど、数珠とか、ほんとに返しにいかなくていいの?」
「神様がくれるって言ったんだから、いいだろ」
「別にあげるとは言われてないけどね…」
今も左手首につけている数珠がなんだか気まずくなってくる。
深くは掘り下げずに、二人は宮司に付いて社務所のひとつへ案内された。参道の左手、一段上がった場所にある小屋だ。普段は物置兼神職たちの詰所にしているそうで、散らかっていて申し訳ないと宮司は身を縮めた。
しかしきちんとした畳敷きの部屋であるし空調は効いているし、茶菓子も、空気清浄機もある。そして今回最も重要なテレビとビデオデッキも、当然のように用意されていた。
「ビデオデッキは私の家にあったもので…ええ、動くとは思いますが古くてすみません」
「いえいえ!充分です。本当にありがとうございます」
「ビデオデッキ自体がもう古いんだ、あるだけありがてぇよ」
KKは少し遠い目をして呟いた。
こうして暁人とKKは、広川神社の社務所に腰を落ち着け、『呪いのビデオ』上映会を開くことになったのだ。
ビデオは計十二枚。
凛子がまとめた資料によれば、録画時間は短いもので五分、長いものでも三十分程度のようだ。
「ま、中途半端にやっても二度手間になるだけだ。今日だけで全部済ます必要はない。一枚ずつ確実に潰していくぞ」
解呪のために再生させるのであって鑑賞するのではない。ビデオに記録された『呪い』の加減にもよるが、長丁場になることも想定すべきだろう。
「…にしても、いいのかな。神社で呪いのビデオなんて」
「仕方ねぇだろ蹴り出されちまったんだからよ。駄目なら鳥居をくぐれてねぇよ、多分な」
暁人は顔をしかめながらビデオを取り出し、整理しておく。霊能力者として経験を積み始めている暁人だが、こうも典型的というか、有名どころの呪物を預かるのは初めてだ。
呪いのビデオは、呪いを映像媒体として『記録』できること、そしてテープを複製し増殖することに特徴がある。もっともビデオ自体が廃れつつある現在では強い感染力は薄れ、翻って年代物としての負の力を獲得しつつある。
実際この中の一部は、元は普通のビデオだった。「変なものが映っている」という些細な噂によって穢れを集めてしまい、本当に呪いのビデオへ変異したのだ。噂の力ってすごいな、と暁人は素人のように感心する。
資料を参照しつつ整理する暁人の傍ら、KKはしばし何かを考えていた。やがてぽんと膝を打つと、おもむろにボディバッグから何かを取り出す。
「ちょうどいい機会だ。神域だから重ね掛けをする必要は無いが、礼儀ってもんがあるからな」
「なに?」
「新しいことを教えてやる」
「えっ」
KKの言葉に、暁人はにわかに色めき立つ。
機が熟したと判断した時、KKは暁人に教えてくれる。新しいことができると。それはまさしくステップアップの瞬間で、師弟関係としてはかなり嬉しい一言だ。成長を実感できる暁人はもちろん、教える側のKKもいつもなんだか嬉しそうにしている。
KKから渡されたのは、掌に収まるほどの丸石と、細く白い縄だった。
「これは…」
「あててみろ」
あの霧の夜を思い返す。確かに見た。大きさは違うが、初めてアジトを訪れた時に、これと似た石を。
「結界?」
「あたりだ。張り方を教えてやる」
そう、二人をマンションに閉じ込めた結界、その根源となる石だ。
これは時限性の爆弾のようなもので、局所的にあの世の干渉を強め、破壊が間に合わなければ結界内部のものを丸ごと押し潰すというとんでもない代物だった。あの時はそれはもう死ぬほど焦った。
結界を仕掛けた般若面の男は、元はエドや凛子と同じチームにいた科学者だった。科学的な視点から『結界』を解析すると、石は珪酸塩鉱物からなるただの物質ではなく、結界の構築をプログラミングされたエーテル装置となりうるらしい。
暁人もKKも科学者ではない。なんなら生粋の霊能力者でもない。まずKKが、そして暁人が手にしたエーテルの能力は、科学により解釈された霊能力である。般若面の男のような膨大な科学的知見は無く、またれっきとした神職から見れば、KK達の力は邪道もいいところだろう。
だが人類が火や電気をエネルギーとして制御したように、科学は霊威をもパターン化して制御する。エーテルの適合者である暁人とKKは、ほとんど自在に、常世の事象に干渉することができる。結界だってその一つだ。
「…これで、どう?」
「ああ。いい出来だ」
暁人はKKに教わりつつ縄を編み、石を包み、術と力を込める。
すると石は青白い光を帯び、暁人の手から離れて卓袱台の少し上で静止した。ポチャン、と霊視に似た光が石から滴り、青い波となって畳の間に広がっていく。一見して周囲の様子は変わらないが、霊視してみれば、部屋を包む青白い光が浮かび上がった。
「完璧だ。さすがだな、暁人」
わしわしと頭を撫でられて、さすがに暁人は照れた。
「これで、外からも中からも影響は出ない筈だ。気は進まねぇが、観るか」
「KK寝ないでよ」
「自信はねぇな」
とりあえず高そうな煎茶を一杯いただいて、二人はビデオをデッキに差し込んだ。
一本目は、心霊スポットのリポート映像だった。面白半分で廃墟に入った若者たちが、次々と不可解な現象に遭い、一人ずつ消えていく。やがて撮影者に不気味な女が迫り、カメラが転げ落ちて映像は終わる。という内容の作りものだったが、どうも撮影場所は本物の曰く付きだったらしい。観終わった時点でテレビの前に男の悪霊が出てきたが、即座にKKに祓われた。
二本目はホームビデオだった。子どもの誕生日の様子を映した映像で、和やかな団欒風景の後、ケーキの蠟燭を吹き消すために灯りが落とされる。暗くなった瞬間に、主役の子供の背後に悍ましい表情の女が映る。映像はその状態で停止し、画面の中の女がこちらへ手を伸ばしてくる――――のを、暁人がすぐに祓った。
「すごい、本当にこんなことあるんだね」
「写真から手が出るんだからテレビからも出るだろ」
「ああ…あの心霊写真、心臓が止まるかと思ったよ…」
三本目は観光地の紹介映像。不審点がわかりづらく、KKと一緒に画面を睨みつけて、ようやく滝壺に佇む人影を見つけた。
と、ぶつりと画面が暗転し、覗き込む二人の顔と、二人の背後に立つ女の足を映し出す。女の痩せた腕と長い髪が二人に絡みつく―――より速く、師弟は同時に裏拳の勢いで女に御札を叩きつけ、祓いの印を二重でお見舞いした。
「これ、オーバーキルってやつじゃない?」
「別にいいだろ、苦しむ時間を短くしてやったんだ」
ビデオに潜む恐ろしい怨念も、エーテルの適合者である二人にとっては大した脅威ではない。幸い、異空間を生じさせたりマレビトを呼んだりするような根の深いものは無く、順調に六枚のビデオをただのガラクタに戻していった。
そして七枚目だ。資料を見た暁人は思わず「うわ」と声を上げる。
「どうした」
「アダルトビデオだよ、これ」
「あー、まぁあるだろうな、一枚くらいは」
人間の欲もろ出しだしな、とKKはのんびり言う。少し目が疲れたらしく、脚を投げ出して眉間を揉んで呻いている姿に、おじさんだなぁと改めて思う。
「…どうする?」
「見る他ねぇだろ」
「えぇ…」
「これも仕事だぜ」
KKは歯牙にもかけない。ろくでもないことは大抵経験済み、の百戦錬磨の元刑事に、アダルトビデオ一本で渋っても無駄だ。仕事は時にやりたくないことだってやらねばならないのだ。暁人は諦めて、デッキを操作する。
「オマエ、ダチと一緒にAV観たことないのかよ」
「無…くはないけど、それとこれとは別だろ」
無神経なおじさんだ。遊びではなく仕事だし、普通のAVではなく曰く付きだし、隣にいるのはダチではなく相棒で、好きな人だし。
――真夜中に興奮状態でのしかかられたことを、もう忘れたのか?
暁人は悶々と、顔を覆いたくなる記憶を思い返す。ひと月ほど前のある夜、暁人は夢うつつに隣で寝ていたKKにのしかかった。自分でも信じられない行動だった。その上、暁人の体は確かに興奮していたのだ。襲ったといわれても反論できない。
恋とは軽快に楽しめるものと思っていた。相手を好きな気持ちは福々と心を富ませて、二人で関係を深めていくその過程も心躍るものだと思っていた。けれどKKへの感情は、どうもそうではないらしい。
あの一件について、KKはそれから一切触れてくれない。いっそ叱るなりなんなりしてほしかった。そうしたらふるまいを正せる気がするのに。
暁人は再生ボタンを押した。
ノイズの後、画面は安っぽいラブホテルの一室を映し出した。
〇
画像は荒いしカメラワークはヘタクソだし役者は大根だし、これじゃ抜けねぇな、とKKは率直に思った。
十把一絡げのAVの一枚だ。ただ男と女がセックスしてるだけ。まぁプレイは少しハード寄りだが、結局は演技だ。局部がもろに映る場面があっても何もかき立てられない。昔はこんなんで必死にマスかいてたかねぇ、としんみりした気持ちにさえなる。
しかし、やはり結界を張って正解だった。歴とした神域で男女の嬌声を流すのは、いかにKKの神経が図太くてもさすがに憚られる。窓には簾が下ろされているし、音量も絞っているから外にはバレないだろう。とはいえ、この部屋にだって神棚がある。とっとと観て祓うに越したことはない。KKはあくびをした。
ひとつ。小さな懸念があるとすれば、暁人だ。
まず四十を越した男が、若い弟子に懸想しているのだ。それを踏まえればこの状況は大変良くない。だがこんな安いAV一本で興奮して、真剣に惚れている相手に手を出すほど、KKは浅はかでも愚かでも弱くもない。
では暁人の方はどうか。
思い返しても信じられないが、KKはこの若さと誠実さを型で固めたような相棒兼弟子に、寝込みを襲われたことがある。…いや、言い過ぎた。のしかかられただけだ。それも暁人は平常ではなかった。おそらく見ていた夢の延長だったのだろう。
夢うつつとはいえ、惚れた相手がそういう熱を持って触れてくれたことはやはり少し嬉しかった。
けれど手放しで浮かれていい出来事でもない。暁人は健常な成人男性で、性欲も相応のようだ。そして少々影響されやすい部分がある。それは同時に柔軟性であり、彼の伸びしろであり、真っ当な優しさである。失くしてほしくはないが、危ういのも確かだ。
ちらりと暁人の様子を窺ってみる。
暁人は膝を抱え、無の表情でテレビを見つめ続けていた。一見すると、空しさ満点でやむを得ず安いAVを観ている若者そのものだ。だが、じっと観察してみれば……少し、呼吸が早い。
ああ、若干だが興奮してるのか。
やはり若いと、こんな陳腐なAVでも反応するらしい。師匠としてはもう少し気を強くもってほしいところだが、KKよりもずっと若くて感受性の優れた青年に、欲求を抑えろというのも難しい。
ビデオの内容がこれだ。宿している穢れの内情も自然と察せられる。興奮した状態で呪いに触れるのは、極力避けた方がいいだろう。
「暁人」
声をかけると、暁人の肩が揺れた。
「ちょっと煙草買ってきてくれよ」
「え、……はぁ?」
無表情が、「何言ってるんだこのおじさん」という呆れに変わる。さほど動揺はしていないようで安心した。
「さすがに飽きてきた」
「吸いたいなら自分で買いに行きなよ」
「尻に根が生えちまった」
「うわほんともう…このおじさん…」
ため息しつつ、暁人は浮かない表情だ。
ビデオの内容に辟易しているのは傍目にもわかる。けれどこれは「仕事」だ。観るのは嫌だが、途中で放り出したくもない矜持もあるのだろう。KKは少し前の自分の発言を反省した。かえって意地を張らせてしまったようだ。
「わぁったよ。なら、普通に食えるもん買ってきてくれ。思ったより長引きそうだ」
一旦ビデオを停止し、改めて頼み込むと、暁人の表情が緩んだ。
「煙草は買わないからね。何がいい?」
「適当で…いや、おにぎりの…梅と昆布」
こういう時に「適当でいい」とか言わない方がいい。KKは学びつつある。暁人はいつもの温和な顔で「はいはい」と立ち上がった。
暁人が出ているうちに、呪いを引きずり出してでも祓ってしまおう。
KKはそのつもりで、障子を開ける暁人の背を見送った。
だが。
『ネェ』
濁った女の声が響き、二人の動きが止まった。
一瞬の硬直の後、KKは弾かれたように立ち上がり、暁人は飛び退こうとする。暁人の目の前に……だらりと天井から垂れ下がる女がいた。あまりに唐突だった。間に合わず、女の腕が暁人に絡みつく。KKは暁人のフードを引っ掴み、渾身の力で引き戻した。
だが焦ったために体勢が悪く、反動でKKの体が前のめりになり…女の腕が今度はKKに絡みついた。
「KK‼」
女が耳元で囁く。
『シタインデショ?』
当たり前だ、オレはまだ枯れてねぇ。
反射的に啖呵を切りながら、暗闇に沈んだ。
ゴポ、と重い泡の音がする。
暗闇に白く、誰かの顔が浮かんだ。あれは…元妻だ。愛した人だ。悲しませてしまった人だ。笑顔でこちらを見つめている。
次に凛子の顔が浮かんだ。絵梨佳の顔も。漂うKKの周囲に、次々と見知った女性たちの顔が浮かんでいく。そしてそのどれもが、見たことのない表情をしてKKを見つめていた。伸びてくるしなやかな手が、KKに触れる。
猛烈に吐き気がした。胸がカッと熱く滾り、こみ上げる感情がある。
激怒だ。
「化け物が!他人のツラを勝手に使うんじゃねぇよ‼」
激情に呼応して、構えた両手から爆炎が噴き上がる。水の中だろうが関係ない。どうせ本物の水じゃない。凝縮した火球を手近な顔めがけて爆発させてやる。
金切り声が上がり、浮かんでいた顔たちが一斉に消えた。
暗い水底のような空間だった。手に宿したエーテルだけが光源だ。息はできるが、うまく身動きが取れない。
もがいていると、薄暗い視界を何かが過った。二度、三度、視界の端を影が滑る。間違いない。動きの速い何かが泳ぎ回っている。それも一体だけではなく、KKを囲むように複数がいる。
泳ぐように移動する敵。覚えがある。
やがて女の密やかな笑い声が聞こえてきた。不気味な笑声はどんどんと増え、蛙の合唱のように歪に響き合う。かなり気持ちが悪い。
「クソっ」
当てずっぽうに火のチャージショットを放つ。だが今度はどこにも当たらず、暗い水に消えていった。そして攻撃に反応して、荒々しい水がぎゅるっと渦を巻いた。
『ふふ』
僅かな光の中に、女の顔がいくつも浮かび上がった。
石膏のように青白く、ひび割れた顔。どす黒い唇があるだけののっぺらぼう。ぎちりとKKの体に巻き付いているのは、蛇のように伸びた長大な体。
マレビト、〈黒土女〉だ。
「う、くそが…っ」
まずい。分が悪すぎる。
何体いるのか――数えるのも嫌になる数がKKを取り囲み、体を掴み、一瞬のうちに締め上げていた。獲物を捕らえる蛇そのものだ。腕どころか、体の一切の動きがきかない。成す術もなく、絡みつかれて塊のようになり、徐々に沈んでいく。
穢れの深さを見誤った。取るに足らないビデオだと思い込んで警戒を怠っていた。油断した瞬間に引き込まれ、抵抗する間もなく術中に嵌ってしまった。
後悔はいくらでも浮かぶ。だが今は打開策が先だ。動くことさえできないが、何か、何か。
こいつらが怯むものはなんだ。
そう考えた時、不意に水中に音が響いた。
りん、と、高く澄んだ鈴の音だった。
甲高い悲鳴と共に、急に体が解放される。またぎゅるりと水が動いて、黒土女たちが頭を押さえ、悶えているのがわかった。そうだ。こいつらは媒鳥札の音を嫌っていた。
りん、りん、と続く鈴の音はKKから鳴っている。だが今、媒鳥札は持っていないのに、何故。警官として長年鍛えた直感が、記憶をひとつ拾い上げる。
(あの子にはよくしてもらったから)
そう言ってKKの額を踏んづけた、なりたての猫又がいた。
「…あーくそ、まんまと助けられちまった!」
この機を逃すまいと、KKは強く水を蹴る。暗くて、目指すべき水面もわからない。けれどがむしゃらに水をかき、進む。
大丈夫だ。そんな確信がある。何故ならKKは一人ではない。
やがて鈴の音は絶え、一体ずつ黒土女が追ってくる。追いつかれるのはすぐだ。だがもう焦りはなかった。
すぐそこに暁人がいる。
閃くような昂揚が心を照らす。手を伸ばすと、一際重い水音と共に、泡の中から見慣れた手が現れた。迷わずに、絶対に離さないようにしっかりと掴む。掴み返す力は笑ってしまうくらい強かった。
「―――ッはぁ、あ―――…」
ざぱり、と水面から浮き上がる。
呼吸はできていた筈だが、上がってみれば肺は空気をいっぱいに吸い込み、心臓はばくばくと激しく脈打っていた。
「KK…‼」
「助かった…暁人」
息を切らしつつ顔を上げると、眉を下げた暁人が固くKKの腕を掴んでいた。KKの無事を確認すると、見る間にその顔に安堵が滲み、がばりと抱き着かれる。
「あんた、もう、本当にびっくりしたんだからな…!」
「オレもだよ。悪いな、油断しちまってた」
「いや…それは僕の方だろ。すぐに動けなかった」
「充分動けてたよ。オレが警戒を怠ったのが原因だ」
責任の庇い合いで埒が明かない。KKはぽんぽんと暁人の背を撫で、周囲を確認する。窮地は脱したが、ここも現実ではない。空間ウテナだ。
穢れによって生じるこの異空間は、どこまでも水面が続いている。水は別の世界との境界だ。地中すら自在に泳ぐ黒土女によって、KKは異空間のさらに水底へ引き込まれてしまったらしい。
「ぼんやりしてられねぇな。すぐにここを……っと⁉」
立ち上がろうとして、ぐっと体が倒れる。水面から伸びたいくつもの青白い手が、KKの服を掴んでいた。水の向こうに黒土女の不気味な顔が何体も浮かんでいる。
「くそ、しつこい奴らだ…!」
もう一度火のショットをおみまいしてやろうとして、ぐっと暁人に制された。
「おい暁人、なん……あ、暁人くん…?」
思わず尻すぼみになる。暁人の右手から、炉のように炎が噴き上がった。照らされた端正な顔は、鬼気迫る憤怒で染まっていて。
「邪魔するなよ‼」
怒声と同時に、暁人は猛る炎を直下の水面に叩き込んだ。爆音と衝撃が全てを吹き飛ばす。
炎熱が消えた時、水面はもう何の影もなく、ただ大量のエーテルがきらきらと二人に集まってくるだけだった。
「よし」
ぐっとガッツポーズをする暁人の拳から、ぱっと名残のように火花が散った。
KKはしばしそんな弟子を見つめ、
「…オマエ…最高だな…」
「でしょ?」
満足気に笑う顔に、さらに惚れ直すなどするのだった。
ここは大量の黒土女だけが潜む空間だったらしい。暁人が水中の黒土女を灰にすると、すぐに空間は消滅した。
無事に社務所へと戻ってみれば、そこにはやはりKKを引き込んだあの女がいた。空間が消えたことにより大きく力を削がれたのか、ぶつぶつと呟きながら、よたよたと畳を這いまわっている。
『ネェ…フフ…ネェ…』
色情霊だな、とKKが囁いた。痴情や肉欲に囚われた悪霊だ。
テレビは砂嵐と明滅を繰り返し、結界の要である石は不安定に揺れていた。かなり強い霊のようだが、暁人の結界に阻まれてずっと這いまわっていたらしい。戻ってきた二人に気付くと、女は虚ろに笑いながら這いずってきた。
『ネェ…イイヨ…フフ…』
すかさずKKの御札が飛び、悪霊の動きを封じる。
「さっさと往生しな。狂うほどの欲なんか、消えてなくなるさ」
印を結ぶと、悪霊は悲鳴を上げて消えていった。同時に部屋の異常がぶつりと消え失せ、しんと静かな部屋に戻る。ジー、とひとりでにデッキからビデオが吐き出された。
「穢れは消えてる…ね。もう大丈夫だ」
「やれやれ。とんだ爆弾が潜んでたな」
二人は大きく脱力し、畳の上に座り込む。
冷えた茶をごくごくと飲み干すKKを横目に、暁人はもう一度資料をめくる。今回持ち込まれた呪いのビデオは、どれもが死者を出している凶悪な呪物だ。
先程のアダルトビデオによる被害者は、全て男性だった。死因は――溺死。皆一様に、テレビの前で溺れ死んでいたという。怪事件という他ないが、真相がわかれば納得だ。この情報で気付けていれば、と悔やむが、さすがにここまでの根深さは予想できない。
「AV観て、抜いてるとこを襲われるんだろ。ちんこ出したまま殺されるなんて死んでも死にきれねぇな」
作りは粗いのに、異常に情欲をかき立てられるというのも、霊障のひとつだったらしい。暁人とKKには効かないが。霊障は、暁人には効かないが。
若干気まずい気持ちでいると、KKがふとこちらを見た。
「オマエ、ちょっと興奮してたろ」
今だから言えるが、と後付けされる。
「…普通、気付いても黙ってるのが優しさってやつじゃない?」
「さっきまでは黙ってた」
「なんで黙りきらないの」
羞恥と憤慨を堪えつつKKを睨めば、KKは意外にも真剣な顔をしていた。どうやら茶化した訳ではないようだ。
「ああいうのは感化されたら終わりだ。オマエ、同調しやすい質だからな。気をつけろよ」
「…そうかな」
「そうだよ。だが、オマエの長所でもあるんだ。無理に変える必要はないが、きちんと一線は保っておけ」
師弟として心配されたようだ。暁人は大人しく頷いた。正直、好きな相手に二度も興奮しているところを見られて、恥ずかしいなんてもんじゃないのだが。
KKはやれやれと煎餅を齧りながら、煙草が吸いたそうにしていた。時計の針は午後八時過ぎを指している。残りは次回へ持ち越しだ。内実を考えれば、七枚を浄化しただけでも充分な進捗だ。
暁人は残りのビデオを手に取る。次からは準備と警戒を徹底しなければ。
『呪い』、とは。
人が為すもので、激しい負の感情から生まれ、人を害するものだ。
強い攻撃性を持つほどの激情は、自分とは無縁。そう思っていた。けれど、両親が他界した時、妹が火事に遭った時、胸を塞いだ感情は。般若面の男に妹を攫われた時、喉からせり上がった感情は。
そして、KKを奪われそうになった時、身のうちから溢れた業火は。
「…KK」
「なんだ」
「いつでも冷静でいるって、難しいね」
KKは少し首を傾げ、おかしそうに笑った。
「当たり前だ。機械じゃねぇからな」
「でも、ちょっと怖いよ」
自分は大丈夫だと、落ち着いているという慢心。何かあれば当然に心は波立つのだ。それがどんな攻撃性を持つか、自分のことなのに把握しきれない怖さ。おかしいと自分で気付ければまだいい。間違いにも気付かないまま、自分が正しいと信じたまま、激情のままに、取り返しのつかないことをしてしまったら。
知らず、視線が落ちる。
衣擦れの音がして、KKが側に寄ってきた。温かい手が、暁人の両肩に添えられる。
「オマエは大丈夫だ」
「なんだよ、そんな軽く…」
目線を上げると、KKが穏やかな顔をして暁人を見つめていた。きゅうっと胸が締め付けられた。
「オレにはオマエがいるし、オマエにもオレがいるからな」
これ以上の安心があるか、と。
KKの窮地には暁人が、暁人の窮地にはKKが、駆け付けられる。二人は相棒だし、どうしたって引き合ってしまうのだ。今までずっと、息をするように、そうしてきた。
「…なに、口説いてる?」
照れ臭くて嬉しくて、つい憎まれ口を叩いてしまう。うっかり幸せだなんて思ってしまった。こんな相手がいてくれて。こんなに頼もしい人が相棒でいてくれて。
「……」
「…KK?」
肩を掴まれたまま、しばらく。
「………そうだ、と言ったら?」
「…えっ」
KKはじぃっと、真っ黒な目を一心に暁人へ向けていた。これだけは誤魔化すまいとするように。
二の句が継げない。
二人はしばらく、社務所でそのまま見つめ合っていた。
〇
水と魚だったら、どちらか。
そんな会話をしたのはどこだったか。暗いが、優しい灯りがあって、落ち着く場所だった。細かな泡がちらちらと漂っていて、遠く雨音がしていた。
そこには光る小さな魚たちと、大事な相棒がいた。
時間など気にしなくてもいい静かな水底で、話をした。
――僕が水だろ。
魚たちと遊びながら、相棒はそう言った。
水は情念の溜まり場だ。穢れの影響を受けやすく、流れが滞ればすぐに淀む。この世界に身を浸してから、水にまつわる話は良くないものばかりだ。
――だって、KKは僕の中にいたんだからね。
けれど水が無くては生きていけない。全ての生き物は例外なく水が必要だ。水は生命の揺り籠で、体そのもので、生きる場所さえ水で回る。良いも悪いもなく、大概のものは水中に留まるのだ。
必然、自分は魚だ。
暁人は自分を受け容れた。あの夜入り込んだ彼の体は、やがては離れがたいくらいに居心地の良い場所となった。水は暁人で、魚は自分。漂う光の魚の一匹となり、もう一度彼の体に飛び込んだなら。そんな空想さえしてしまう。
――暁人。
身を寄せて、そっと抱き寄せた。彼は驚いていたが、照れ臭そうに笑うだけで拒まなかった。拒まないことを自分は知っている。ここは夢の中だ。
記憶から生成される虚構ではなく、互いの想いが会える場所だ。
エーテルと同化してから長く経つ自分は覚えている。本人すら覚えていない、暁人の感情を知っている。確証は無いし、本当は自信も無いが。夢の中で何度か触れた彼の想いに、期待してしまう。
魚が求めれば、水は応える。
だから恐れつつも求めたのだ。