【GWT】【K暁】恋で継ぐ
「KKも、どう?」
暁人にそう聞かれたが、すぐに断った。とても自分に必要なものとは思えない。暁人は肩を竦め、両手を摩っていた。若々しい手から、ほのかに香りが漂った。
「でも、これからますます寒くなるよ」
「そうだな」
頷き、視線を上げると、桜の梢が葉を落としていた。ひやりとした空っ風が吹く。ジャケットの下にも冷たさが染み込んできて、KKは思わず肩を縮めた。
「そろそろ厚着でもいいかもね」
「ああ…。だが、バケモノ共を相手にしたら、どうせ暑くて脱ぐんだぜ」
「そうなんだよなぁ」
普通にしていて、暑さを感じる日はもうなくなった。折に触れて寒さに気付く。KKの硬い手足にも、秋の冷気は深く沁みる。
「KK」
呼ばれて振り返ると、片手を取られた。何をするのかと見ていれば、暁人はすりすりとKKの片手を丹念に擦りはじめた。ややもったりしたようなクリームの香りがして、片手にうっすらと光沢が移る。
「おい、いいって言ったろ」
「たまには塗ってみたら?」
「ベタベタするから嫌いなんだよ」
「サラサラしてるやつもあるよ」
「これは?」
「ちょっとペタつくかな」
「おい」
KKの渋面なんて気にもせずに、暁人はもう片方の手も取って丁寧にクリームを擦り込んでいく。
諦めて好きなようにさせて、つやつやしている自分の手を見る。…手皺が目立つ。
「こんなもんオレが塗っても意味ねぇよ」
「そんなことないよ」
暁人は笑い、ようやくKKの手を解放した。彼の手はといえば、やはり張りがあり肌理が細かく、健康的だ。若いな、と思うと同時に、これからだな、と感慨深くなった。暁人はなにもかもこれからだ。
「少なくとも、今日はひび割れにくくなるよ」
「ひびなんざ、今更だな」
自分はもう今更だ。
カサついて皺だらけで、指先は硬く、爪には細かい傷がある。この先も生きることができたら、この手はもっと固く、ひび割れ、皮膚は縮緬のように、指は古木のようになっていくのだろう。
「日々のケアって結構大事なんだよ」
今時の若者らしいことを言う。KKはハイハイと話を終わらせて、ポケットに両手を突っ込んだ。そんなことよりも今、KKには大事なことがある。今日の夕飯だ。
「何の鍋にするんだったか」
「味噌、にするつもりだったけど、いろいろ見たら変わるかも」
「鍋に文句つけるほど、狭量じゃねぇからな。オマエの好きなもんにしろよ」
「いいの?」
綻ぶ顔を見ると、KKの心も柄にもなく浮足立った。
今日はKKの住む部屋で、二人鍋をするのだ。
〇
実際の季節よりも、それに備えて人の暮らしは先取りをするもので、フジヤマートでおでんが始まっていたのがまずきっかけだった。
夏だろうが秋だろうが、怪異調査やマレビト退治で街を駆け回る暁人とKKは、いつだって健康的に腹を空かしている。その時も長丁場の戦闘を終えた後で、熱を持って渇いた体におでんは全くそぐわず、一瞥しただけで通り過ぎた。しかし頭の片隅には残った。それからどんどんと気温は下がり、冷房器具やアイスが要らなくなると、今度は温まるものに惹かれ始めた。
鍋とかずっと食ってねぇなぁ。KKの何気ない一言は若い相棒に拾われて、あっさりと叶うことになった。
せっかくだし、鍋する?暁人の言葉が、二人で、というニュアンスを含んでいたことにKKは喜んだ。
そうして、秋の日の仕事上がり、肉やら野菜やらを買い込んで、同じ帰路についている。
「あの佐藤商店ってお店、品ぞろえ豊富だし安くていいね」
「だろ?弁当もなかなかうまい」
こうして食材を抱え、誰かと肩を並べて自宅に帰るなんて、…本当にいつぶりか、久しく感じていない距離感だった。重んじてこなかったものでもあった。
ひゅるりとまた風が吹く。今度は暁人が身を震わせた。
「うう、やっぱり冷えてきたね。KK衣替えした?」
「毛布は出した」
「…まぁ、それも布か…」
長年身を粉にしてきた刑事職を辞し、名前を捨て、家族と『死別』までしたKKが住むのは、冴えない安アパートだ。お似合いだろう。必要なことは大体アジトで事足りるので、自宅というよりねぐらだ。だが仮にも相棒兼弟子兼想い人を招くのならと、先の休みに珍しく整理やら掃除やらを頑張った。…あくまで、KKの尺度ではあるが。
案の定、玄関に一歩入った暁人は「もうちょっと換気しなよ」と言った。中年男の心には結構な一撃だった。
けれどなんとか及第点ではあったようで、幸い踵を返されることはなく、暁人はてきぱきと食材の準備を始めた。胸を撫で下ろしつつ、KKはコンロと鍋を用意する。鍋はアジトから拝借してきた。
「…他にすることあるか」
「コンロの準備した?皿ある?…じゃあ座ってて。すぐ切るから」
ざくりと白菜を切る手はやはり手馴れている。暁人が料理している姿を見るのが、KKは好きだった。
テレビや雑誌で聞き齧るに、料理は何も考えずにできる、らしい。料理をしている時の暁人はよりリラックスして見えた。妹の麻里にも、きっとこういう風に飯を用意してやってるんだろう。鼻歌は今流行りの曲なのだろうか。難しい顔をしているのは、料理の具合か、それとも勉学のことか。つれづれと考えながら彼を眺めていると、心が緩んで軽くような心地がする。
愛しさ、というものは。
傷つけないために遠ざけて、もう触れることもできなくなった古い宝物だった。それでもこのろくでもない人生で、二つでも抱けたことは大変な僥倖だったのだろう。そのまま死んでもいいくらいに、きっと自分にはもったいない宝物だった。
尚も生きて、この歳になって、新しく得られる幸せがあるなどと。
やることもないのに座らずに、側で立ったままのKKに、暁人は呆れた顔をして笑った。
鍋はもちろんうまかったし、腹の底から温まった。豆乳鍋なんてKKだったらまず選ばないが、中年男の口にも合う優しい味だった。他人といることは、自分の中にはない選択肢に触れることでもある。
満たされた腹をさすってそのままダラダラ…とはせず、暁人がきびきびと後片付けに入るのでKKも手下のようにきびきび動いた。そして食卓がきれいになってようやく、暁人は座布団に腰を落ち着けて満足そうな顔をした。
「あー、やば。眠くなってきた」
「ひと眠りしてもいいぞ」
「いや…今寝たら、十二時くらいに起きちゃうよ」
「若いんだからそれくらいいいだろ」
「えー…」
眠そうな顔でテレビを見ながら、暁人はごそごそとバッグを漁り、チューブを取り出した。
夕方も見た、KKの手に擦り付けてきた、ハンドクリームだ。
「念入りだな」
「水仕事の後は赤切れしやすいしね」
KKは少し苦い気持ちで納得した。水仕事なんてほとんどしないKKには無い習慣だった。寒くなってきてから、暁人の持ち物に加わったアイテムだ。
「冬はどうしても乾燥するから荒れると痛いんだ」
白いクリームを擦り込んでいくと、暁人の手はしっとりと薄い光沢を帯びる。
「…オレ達ぁ、手が商売道具だしなあ」
「確かに、そうだね。KKもやっぱり塗りなよ」
暁人とKKをはじめとしたエーテルの適合者たちは、手で印を結び、エーテルを宿して怪異を祓う。手が大事でない作業などそう多くはないが、特にKKたちは印を結ばなくては戦えない。
「ほら、手見せて」
「やだね」
無視して手を取られた。言うことを聞かない弟子だ。
「やっぱりカサついてるじゃないか。クリーム分けてあげるよ」
「どうせこれから風呂入るんだから意味ねぇよ」
「じゃあお風呂上りに塗ってあげるね」
「そ……」
不覚にもどきりとした。この夕飯には何の下心も…微塵も無いといえば嘘になるが、とにかく健全に鍋を囲むのが目的で、それ以上のことは望んでいなかった。
だが、長くいてくれたらもちろん嬉しい。
「…なんなら、泊まるか?」
KKのそれなりの勇気には気付かず、暁人はうーんと首を傾げた。
「でも服無いしなあ」
「下着はさすがに嫌だろうが、服はサイズ同じだろ。オマエ、オレの服は散々着てたしな」
「言われてみれば」
暁人はあっさり頷き、すぐに立ち上がった。コンビニで下着を買うと言って、ぱたりと出ていく足音を聞きながら、KKは息を吐き出して目元を覆った。
惚れた相手を初めて泊まらせることに成功した。
人生で二度目だ。
〇
今日の仕事は猫又の使い走りだった。忌々しいことこの上ないが、商人である彼等に幅を利かせたければ、ある程度のお願いは聞いてやらなければならない。
骨董品を集めているその猫又が、運搬中にどこかで落としたという陶器の捜索。全く面倒な仕事だった。結局、せっせと真面目に草むらを探っていた暁人が見つけたのだ。
落とした際の衝撃によるものか、陶器にはヒビが入っていた。猫又は少し残念そうにしていたが、くしくしと顔を洗ったかと思えば、すぐににこやかな顔に戻っていた。
(これは金で継ぐことにするよ。せっかくだからね)
猫にしては殊勝な考えだと思った。
「KK」
ほかほかと温まった体で風呂から戻ると、既に暁人が待ち構えていた。
ついに観念して手を差し出すと、待ってましたとばかりにクリームを擦り込まれる。サービスのつもりか、指圧を加えてマッサージまでしてくれている。なかなかに快い。
泥臭くてろくでもないことばかりしてきた。手の荒れなんて気にしたこともなかった。そうして数十年生きてきたから、KKの手はすっかり硬くなっている。散々適当に扱って傷まみれにしてきたものを、今更手入れして何になるだろう。
だがKKの手に触れる、暁人の手は優しい。いつか…そう。今年の春の終わりにも、手を握られた。勝手知ったる相棒の仲だが、改まって相手の手に触れることはそう無い。あの時も、暁人はKKを心配してくれたのだ。
誰も彼も突き放すような生き方をしてきて、そう、今更。暁人の素朴な心遣いがえもいわれず嬉しい。
「冬は塗ってた方がいいよ。傷まない方がいいだろ」
その通りだ。当然だ。
この歳になると、夏が終わると無性に侘しいのだ。独り身で、誰の目にも留まらない仕事をしていたら、尚のこと寒風が胸を軋ませる。熱や潤いを攫われるような心地がして、夏の間は誤魔化せていた罅が浮き上がって時折痛む。
それをどうにかしようという考えさえ失せていた。
正直戸惑う気持ちもある。これまでの自分には備わっていなかった習慣。気にしていなかったこと。これでいいと思っていたこと。それでは痛いだろうからと気を遣って手入れをすること。それで何が変わるのか。
だが、暁人が何気ない顔でKKに触れる手は、快い。
「安物だけど、さっきコンビニで買ってきたからあげるよ。思い出した時でいいから、こまめに塗るようにね」
「…オマエが塗ってくれるんじゃないのか?」
仕掛けてみれば、暁人の手が一瞬揺れた。
一拍の沈黙。
「…自分でやりなよ。子どもかよ」
悪態で躱されてしまったようだ。しきりに手を取ってきたのはそちらのくせに、言ってくれる。
クリームを塗り終えて離れようとした暁人の手を、今度はこちらが取る。
暁人はあからさまに戸惑って、何か言おうとしたり、視線をさまよわせたりしていた。だが手を振り払おうとはしない。KKの寝間着を借りた暁人を前に、布団が一枚しか無いって伝え忘れたな、と考えながら、身を寄せる。
一人は楽だ。だが一人でいれば、空っ風に晒されるまま、熱情や感傷は乾いていくのだろう。
「KK」
動揺している。だが逃げない。
まぁ、そういうことなのだろう。
いつかの夢でも暁人は逃げなかった。
ひとしきり戸惑って、それからKKの目を見て、…観念したように目を閉じた。
胸がじわりと熱く潤む。
重ねた唇はやはり、二人でいることの正しさを語ってくれた。