馬場vs猪木か、B・I砲か?「プロレス夢のオールスター戦」が実現するまで
1979年5月22日、東京スポーツ誌上で『実現か?馬場・猪木戦ー三団体(新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレス)に"初対決を要請』と大見出しが踊った。
東京スポーツは創立20周年記念事業の一環として三団体が揃う『プロレス夢のオールスター戦』を企画、三団体に大会出場へのオファーをかけた。当時のマット界は三団体が新日本、全日本が全盛で、一番老舗だった国際プロレスが後れを取り、新日本と提携して連立を結んでいた。
開催にあたっては東スポは三団体にしっかり下交渉をして根回した上で、三団体共「前向きに検討する」と返答し、東京スポーツも一面に掲載して、実現へ向けて大きく動き出したが、一番難題だったのはマット界の二大首領であるジャイアント馬場とアントニオ猪木の存在だった。
昭和46年まで馬場と猪木は日本プロレスを支えてきた二大スターだったが、猪木がクーデター事件で日プロを追われ、新日本を旗揚げしたことで二人は袂を分かち、馬場も日プロを退団して全日本を旗揚げしたが、猪木が馬場戦を実現させるために、いろいろ手段を講じて馬場を追い込み、馬場が対戦を避けたことで、新日本側が「もう永久に全日本相手にしない」公式見解を出し、"馬場は逃げた"というイメージを植えつけていた。
東スポのインタビューに答えた猪木は「オールスター戦」に大賛成の意向を示したが、馬場は「頭から拒否するつもりはない」としながらも即答は避けた。理由は"猪木はまた俺の名前を使って利用しようとしているのでは?”と警戒していたからだった。馬場は「過去のいきさつ(猪木への挑戦発言)をクリアするなら」と条件を出すも、猪木は過去のいきさつも事を持ち出してくる馬場に「何のことかわからない」と反発、再び馬場ー猪木戦の実現へ向けてアピールしだしたことで、早くも「オールスター戦」実現へ向けて暗雲が垂れ込め始める。
そこで東スポが妥協案を示し、馬場vs猪木が無理なら馬場&猪木のB・I砲復活を軸にして、三団体の代表にトップ会談実現を提案、猪木も国際の吉原社長と話し合って出席を決め、馬場も応じたことで三団体の代表による首脳会談が実現するも、馬場は内心乗り気ではなかった。しかし長年お世話になっている東スポの顔を潰すわけにはいかず、会談に出席した時点で「オールスター戦は断ることは出来ない」とわかっていた。この時の馬場はゴング誌の竹内宏介氏に「長いものには巻かれろだよ」とこぼしていたという。
東スポ側の本山良太郎代表を交えた三団体首脳による首脳会談が6月14日に実現、三団体も出場を了承して合同記者会見が開かれ、8月26日の日本武道館で開催されることが発表されるも、対戦カードに関しては具体的な発表されなかった。理由はB・I砲復活に関しても猪木が「今回はお祭り的なイベントでいいけど、いずれは統一日本選手権を、ぜひ実現させて欲しい」と条件を提示し、馬場が態度を硬化したため、話し合いが難航したからだった。さすがにマスコミもカードが発表されなかったことで不満を露わにする。
会見後も再び首脳会談が開かれたが平行線となり、馬場は全日本の試合で後楽園ホールに向かい、猪木もパキスタン遠征への準備のため会談は一時中断、首脳会談は再開されたが交渉は深夜の午前3時まで続いた。そこで馬場は「過去のいきさつをクリアできるという保証をして欲しい」と東スポ側に要求、猪木も本山代表と話し合うとして、この日の首脳会談は解散となり、猪木はパキスタンへと旅立ったが、猪木は出発直前で新日本のコミッショナーである衆議院議員の二階堂進氏に今後の話し合いを任せることを提案する。二階堂氏は元総理大臣である田中角栄氏の側近で副総裁にもなった政界の実力者だった。なぜこういう形にしたのか、馬場と猪木も直接交渉すればケンカになると判断し、馬場は本山代表、猪木は二階堂氏を代理人にして、交渉させるという形にしたのだ。
馬場と猪木が代理人を立てたことで、交渉はスムーズに進み、メインはB・I砲復活に最終的に落ち着き、二人も代理人の顔を潰すことが出来ないため了承したが、対戦相手に関してはファン投票で選ばれることになり、B・I砲の最後の相手であるザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)か、抗争相手であるアブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シンに絞られたが、最終結果としてブッチャー&シンが1位となり対戦相手に決定した。そして対戦カードも次々と決定した。
<第1試合 3団体参加バトルロイヤル>
参加選手 新日本=山本小鉄、魁勝司(北沢幹之)、小林邦昭、平田淳二、前田明(前田日明)、斎藤弘幸(ヒロ斎藤)、ジョージ高野、全日本=渕正信、薗田一治(ハル薗田)、大仁田厚、肥後宗典、百田光雄、伊藤正男、ミスター林、国際=鶴見五郎、高杉正彦、米村勉(米村天心)、デビル紫、若松市政
<第2試合 20分1本勝負>
荒川真vsスネーク奄美
<第3試合 20分1本勝負>
星野勘太郎 マイティ井上vs木戸修 石川敬士
<第4試合 30分1本勝負>
阿修羅・原 佐藤昭夫 木村健吾vs永源遥 寺西勇 藤原喜明
<第5試合 30分1本勝負>
長州力 アニマル浜口vsグレート小鹿 大熊元司
<第6試合 45分1本勝負>
坂口征二vsロッキー羽田
<第7試合 45分1本勝負>
藤波辰己 ミル・マスカラス ジャンボ鶴田vs高千穂明久 タイガー戸口 マサ斎藤
<第8試合 60分1本勝負>
ラッシャー木村vsストロング小林
<第9試合 時間無制限1本勝負>
ジャイアント馬場 アントニオ猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャー タイガー・ジェット・シン
全てが決まると馬場と猪木は今までとは一転してお互いを尊重するコメントを連発。猪木に至っては「雰囲気を掴むためにオールスター戦前に全日本プロレスのリングに上がろうかな」とコメントし、馬場も「次のシリーズからでもどうぞ」と応えるなど、和気藹々だった。
テレビ中継に関しては全日本が日本テレビ、新日本がテレビ朝日と専属契約を結んでいた関係でノーテレビとなったが、首脳会談実現前には販売するチケットの割り当てや興行利益の配分などでフロント同士の交渉が行われるも、国際側でひと悶着があり、営業同士の話し合いになると力のない国際は蚊帳の外に置かれ、これに怒った国際側のフロントは吉原社長に「そんな大会出なくていいですよ!」とボイコットすることを訴えていたという。次の営業会議では国際側のフロントは誰もが出席するのを嫌がり、一番下っ端だった根本武彦氏(後に全日本、NOAHの営業)が出席させられ、根本氏は新日本プロレスの新間寿氏、全日本プロレスの大峡正男氏という重鎮の前に何も発言することが出来ず、「言いたいことはありますか」と聴かれると、「はい」としか答えられなかった。
対戦カードに関しては第1試合のバトルロイヤルは、各団体の所属選手を全員オールスター戦に出場させたいという配慮から馬場と吉原社長によって組まれたもので、全日本側はサプライズとしてシリーズに参戦していたボボ・ブラジルのバトルロイヤル参戦も計画していた。第5試合では後に維新コンビを結成する長州と浜口が初タッグを組み、第6試合では唯一新日本vs全日本の対抗戦が行われたが、当初は坂口vs国際のグレート草津を予定していたものの、草津が対戦を嫌がったため、全日本の羽田にお鉢が回り、羽田はガチガチに緊張し、明け方まで酒を飲んで会場に向かったという。
オールスター戦開催当日は当日券を求めに徹夜組は80人もおり長蛇の列、武道館は16500人超満員札止めを記録、その観客の中に当時プロレスファンだった獣神サンダー・ライガー、田中秀和リングアナもいた。
メインの馬場、猪木vsブッチャー、シンは凶悪コンビが開始前に奇襲をかけ、凶器攻撃でB・I砲を苦しめるも、猪木がシンにコブラツイストを決め、ブッチャーにはこの大会から初披露した延髄斬りを放ってからB・I砲の流れになり、馬場と猪木がシンの両腕を捕らえてショルダーアームブリーカーの競演を披露するなど見せ場を作る。終盤に猪木がブッチャーの援護を受けたシンによるロープ越しのブレーンバスターを喰らってしまうも、馬場がカットすると、再度ブレーンバスターを狙ったシンに猪木が逆さ押さえ込みで3カウントを奪い、B・I砲が勝利を収めた。
試合後になお襲い掛かる凶悪コンビを蹴散らしたB・I砲だったが猪木がマイクを取り「私は馬場選手と戦えるように、今後も努力していくつもりです。二人が今度このリングで会う時は、戦う時です」と握手を求めると、馬場は笑顔で「よし。わかったやろう!」と握手をかわし大団円でオールスター戦を締めくくった。だがこれには後日談があり、馬場がオールスター戦前夜に猪木からの電話を取り、"あることをすることので承諾して欲しい"と迫っていた。馬場は竹内氏に「だから猪木は信用できないんだよ」とこぼしていたが、おそらくだが猪木からの要求は馬場に対する挑戦表明で、猪木は土壇場になって馬場に根回ししてきたのだ。馬場もここで蹴るようなことがあれば、猪木はドタキャンをするかもしれないという考えもあって、承諾せざる得なかったのではないだろうか…
オールスター戦を契機に馬場、猪木の冷戦は雪解けとなり、マット界は安息を迎えたかに見えたが、それはつかの間の平和に過ぎなかった。1981年に国際プロレスが崩壊、新日本がブッチャーを引き抜いてから、外国人選手による引き抜き戦争が勃発したことで、新たなる冷戦を迎えた。その最中に東スポ側が「第2回プロレス夢のオールスター戦」を打診、実現寸前にまでこぎつけていたが、事業の資金繰りに苦しんでいた猪木が運転資金の捻出のためにオールスター戦を実施しようとしていたことが馬場に察知され、そして東スポ側も外部に極秘事項を漏らしたこともあって開催は中止となった。
(参考資料日本スポーツ出版社 『検証8・26プロレス夢のオールスター戦』 辰巳出版『実録・国際プロレス』)