ZIPANG-2 TOKIO 2020~不思議な不思議な町 遊佐・ゆざ~(最終話)「祭りとは人類にとって祖霊との交信儀礼なのか?鳥海山の修験者から伝わる遊佐のまつり」
このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
山形、秋田両県にまたがる鳥海山で20日、初冠雪が観測されました。酒田市八幡総合支所によると初冠雪は昨年より16日、平年より10日遅いそうです。やはり、温暖化の影響か?
それにしては、名古屋は寒い!それともわが編集局だけなのか~
~鳥海山の修験者から伝わる遊佐のまつり~
蕨岡延年の舞[大御幣祭]【県指定重要無形民俗文化財】
吹浦田楽[花笠舞]【県指定重要無形民俗文化財】
杉沢比山【国指定重要無形民俗文化財】
遊佐のまつり
5月3日 蕨岡延年の舞[大御幣祭]
【県指定重要無形民俗文化財】
遊佐町上蕨岡は通称「上寺」と呼ばれ、近世期には鳥海山麓に位置する修験集落であった。蕨岡修験者は10ヶ月に及ぶ胎内修行と呼ばれる籠りの修行を行っていた。これは修行者が大先達になるために経験する最大の修行であり、行事であった。その中心となるのが3月18日に行われていた「暁の御幣立饗」と「笈緘饗」であった。これが現在5月3日に行われている大御幣祭りであります。
鳥海山とともに暮らす人々の信仰は、今もこうして人々の心に受け継がれています。
遊佐町上蕨岡(上寺) 山形県飽海郡遊佐町上蕨岡字松ヶ岡73
交 通
・JR…羽越本線「遊佐駅」から車で10分
・車…山形自動車道「酒田みなとIC」から車で20分
お問い合せ
「遊佐町教育委員会教育課文化係」TEL 0234-72-5892
5月4日・5日 吹浦田楽[花笠舞]
【県指定重要無形民俗文化財】
鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮の例大祭として、毎年5月4日・5日に開催されます。地元の跡取り達で組織する吹浦祭協賛会が中心となって各種の行事を運営します。
神社の神事をはじめとして、大名行列、神輿渡御、そしてこの祭の最大の見せ場である「花笠舞」などが賑やかに且つ厳かに繰り広げられます。
鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮 山形県飽海郡遊佐町吹浦字布倉1
交 通
・JR…羽越本線「吹浦駅」から徒歩7分
・車…山形自動車道「酒田みなとIC」から、国道7号線秋田方面へ20分
お問い合せ
「遊佐町教育委員会教育課文化係」TEL 0234-72-5892
5月15日 諏訪部祭<遊佐四大祭>
鳥海山の噴火と大地震で被害を受けた人たちを救うために活躍した、諏訪部権三郎を慕い、感謝の気持ちをささげるための祭。
本願寺 山形県飽海郡遊佐町 遊佐字倉ノ町19
交 通
・JR…羽越本線「遊佐駅」から徒歩10分
・車…山形自動車道「酒田みなとIC」から車で20分
お問い合せ
「遊佐町役場企画課まちづくり支援係」TEL 0234-72-4524
7月16日 載邦碑祭<遊佐四大祭>
庄内の国替えを、農民と一緒に反対運動の中心的な活躍によって中止させた、文隣和尚を慕い、感謝の気持ちをささげるための祭。
玉龍寺 山形県飽海郡遊佐町江地上屋敷田76
交 通
・JR…羽越本線「遊佐駅」から、車で5分
・車…山形自動車道「酒田みなとIC」から車で20分
お問い合せ
「遊佐町役場企画課まちづくり支援係」TEL 0234-72-4524
8月6日・15日・20日 杉沢比山
【国指定重要無形民俗文化財】
杉沢比山は、山形県飽海郡遊佐町の杉沢に伝わる古い舞です。そして、比山の舞台は村の鎮守である熊野神社です。もとは、鳥海山二之王子熊野大権現とよばれ、鳥海山修験順峰(じゅんぶ)修徒入峰(にゅうぶ)の二之宿でした。
はっきりとした記録は残っていませんが、その発生は鎌倉時代を下るまいと推定され、鳥海修験の隆盛と衰微の変遷を経るなかで、いつしか修験の徒から村人の手へと受け継がれてきたものと思われます。
比山(ひやま)と読みますが、言葉の意味ははっきりと解明されていません。杉沢比山の比山という名は、鳥海山に由来するものらしく、鳥海山が火山であるところからヒヤマと呼んだとか、あるいは、鳥海山を月山に対し日山と見立てた時代があり、その日山(鳥海山)に伝わる番楽という意味で、日山(比山)番楽と称したのではないかという説をはじめ種々あります。
山伏修験者が行っていた神楽のことを番楽といいます。東北の奥羽山脈を境に太平洋側では山伏神楽と呼び、日本海側では番楽と呼んでいます。これら一連の古風な舞は猿楽、呪師、幸若舞、田楽などが結びついた独特の舞です。
杉沢比山は数ある番楽の中でも、すっきりと洗練されユニークな美しい型、水ぎわ立った鮮やかな舞い振りを見せる芸術的価値の高いものと評価されており、昭和53年には国の重要無形民俗文化財に指定されています。
毎年、8月6日「仕組」、15日「本舞」、20日「神送り」の三晩に舞が奉納されます。お盆の時期と重なり昔からの信仰とつながっていると考えられます。演じられる曲目はもともと24曲ありましたが、現在行われている曲は14曲で、全曲を演じますと4時間ほどかかります。静かな山里の星空のもと舞台上で演じられる比山は、時に勇壮に時には荘重な舞で、観ている者の心を打ちます。
熊野神社 山形県飽海郡遊佐町杉沢字宮ノ後23
交 通
・JR…羽越本線「遊佐駅」から車で10分
・車…山形自動車道「酒田みなとIC」から車で20分
お問い合せ
「遊佐町教育委員会教育課文化係」TEL 0234-72-5892
10月14日 佐藤政養祭<遊佐四大祭>
鉄道の生みの親。東京(新橋)~横浜間に第一号の列車を走らせた佐藤政養を慕い、感謝の気持ちをささげるための祭。
吹浦駅 山形県飽海郡遊佐町吹浦字上川原45
交 通
・JR…羽越本線「吹浦駅」前
・車…山形自動車道「酒田みなとIC」から車で20分
お問い合せ
「遊佐町役場企画課まちづくり支援係」TEL 0234-72-4524
明治5年(1872)10月14日午前10時、日本で初めて東京(新橋)から横浜までの列車(錦絵)
佐藤政養プロフィール
佐藤政養(1821~1877)-小さい頃の名は与之助といい、遊佐町升川に文政4年(1821)佐藤与兵衛の十人兄弟の長男として生まれた。
与之助は、機転のきく子供であったし、何かをやると決めたら粘り強く最後までやり通す根性を持っていた。それを見込んだ父は、酒田の医者、伊藤鳳山と真島佐藤治のところで勉強させた。
33歳の夏、与之助は伊藤鳳山先生から強く勧められ江戸へ出ることにした。アメリカの黒船が横浜にやってきたのもこの頃だった。
幕府が、神奈川に新しい港を造ろうとした時、与之助は自分の学問を生かし色んな調査をした結果、横浜がもっとも適当だという意見を出し、勝海舟らの賛成によって横浜港が造られることになった。(横浜港の生みの親) 明治維新(1868)の後、日本の政治はヨーロッパやアメリカの文明の開けた国々を目標にして世の中は変わっていった。与之助は政養(まさよし)と名を改め、政府の役人となった。文明開化のためには貿易や鉄道がどのように大切であるかを主張した。
そして明治5年(1872)10月14日午前10時、日本で初めて東京(新橋)から横浜までの列車を走らせることに成功したのである。
2年後は、大阪から神戸を結ぶ鉄道も開通させ、日本国内の鉄道は次第に長く大きく延びていったのである。
正に、政養は鉄道の生みの親であった。政養の人柄は穏やかであり、計画などはしっかりと行き届いていて、文章も立派で更に剣をとっても坂本龍馬に引けを取らない剣豪であった。
明治10年(1877)、政養は56歳で亡くなったがその功績は大きく、毎年10月14日(鉄道記念日)吹浦駅前の銅像前で偉業を讃える祭が開催されている。
11月10日 佐藤藤蔵祭<遊佐四大祭>
西浜の砂丘の荒地に黒松の植林に尽力し田畑や農家の生活を救った、佐藤藤蔵を慕い、感謝の気持ちをささげるための祭。
藤崎小学校 山形県飽海郡遊佐町江地字丁才谷地31-4
交 通
・JR…羽越本線「遊佐駅」から車で10分
・車…山形自動車道「酒田みなとIC」から車で20分
お問い合せ
「遊佐町役場企画課まちづくり支援係」TEL 0234-72-4524
1月1日・3日・6日 アマハゲ
【国指定重要無形民俗文化財】
この行事は、遊佐町の女鹿・滝ノ浦・鳥崎の3地区に伝承される秋田県男鹿半島の「ナマハゲ」によく似た小正月の民俗行事で、鬼の面とケンダン(藁を何重にも重ねた蓑)を身にまとった男衆の姿は迫力があり、民俗学的にも注目されている行事です。
アマハゲと呼ぶ来訪神が各家を訪問するほか、鳥追いやホンテ焼きなどの行事も行われます。
アマハゲは、ケンダンを着て赤鬼や青鬼などの面をつけた若者が各家を訪問して餅を配ります。鳥追いは、ヨンドリ・ヨナカドリ・ヨアケドリ・アサドリの4回行われ、太鼓に合わせて鳥追い唄を歌いながら集落内をまわります。ホンテ焼きは、門松や注連縄などとともにケンダンを焼く行事であります。
1月1日 (滝ノ浦地区)
1月3日 (女鹿地区)
1月6日 (鳥崎地区)
交 通
・JR…羽越本線「遊佐駅」から車で10分
・車…山形自動車道「酒田みなとIC」から車で20分
お問い合せ
「遊佐町役場企画課まちづくり支援係」TEL 0234-72-4524
参考
秋田県男鹿半島の「ナマハゲ」
ナマハゲの起源については諸説があり、「漢の武帝説」「修験者説」「山の神説」「漂流異邦人説」などが語り伝えられています。
漢の武帝説
昔ばなし「九百九十九段の石段」の鬼が五社堂に祀られて、「ナマハゲ」の起こりになったという説です。
昔ばなし「九百九十九段の石段」
中国の漢の時代、武帝は不老不死の薬草を求め五匹のコウモリを従えて男鹿にやってきた。五匹のコウモリは鬼に変身して武帝のために働いたが、ある日「一日だけ休みを下さい」と武帝に頼み、正月十五日だけの休みをもらい村里に降りて作物や家畜、村の娘たちまでさらい、あばれまわった。
困り果てた村人は武帝に「毎年ひとりずつの娘を差し出すかわりに、一番どりが鳴く前のひと晩で、鬼たちに海辺から山頂にある五社堂まで千段の石段を築かせてくれ。これができなかったら鬼を再び村に降ろさないでほしい」とお願いした。
ひと晩で千段は無理と考えた村人だったが、鬼たちはどんどん石段を積み上げていった。
あわてた村人は、鬼が九九九段まで積み上げたところで、アマノジャクに「コケコッコ」と一番どりの鳴き声のまねをさせた。
鬼たちは驚き、怒り、そばに生えていた千年杉を引き抜き、まっさかさまに大地に突き刺して山に帰って行き、二度と村へは降りてこなかった。
修験者説
男鹿の本山・真山は古くから修験道の霊場でした。時々、修験者は山伏の修行姿で村里に下りて、家々をまわり祈祷を行いましたが、その凄まじい修験者の姿をナマハゲとして考えたという説です。
山の神説
遠く海上から男鹿を望むと、日本海に浮かぶ山のように見え、その山には村人の生活を守る「山の神」が鎮座するところとして畏敬され、山神の使者がナマハゲであるという説です。
漂流異邦人説
男鹿の海岸に漂流してきた異国の人々は、村人にとってはその姿や言語がまさに「鬼」のように見えました。ナマハゲはその漂流異邦人であるという説です。
編集後記 ~御礼~
日本にはそれぞれの地域に根付いたお祭りが一体どれだけあるのでしょうか?
その源流にまで遡ると、実は元は一つなんでしょうか?
例えば、よく知られている秋田の"ナマハゲ"ですが、 山形県遊佐にも「アマハゲ」というよく似た行事があります。これについて秋田県男鹿の「ナマハゲ」を比べてみると、遊佐町のアマハゲは、どことなく優しそうな雰囲気が漂ってお酒を注いでもらう姿や年長者の肩を揉む姿は憎めないアットホームな感じがしますよね~かたや、男鹿のナマハゲ赤鬼・青鬼は厳しい表情・仕草で大人でも暗がりでバッタリ出会ったら逃げ出すか腰を抜かすかも…きっとお面の表情になりきる演者の覚悟は並大抵ではないような気がいたします。
いづれにしても、長い年月をかけて曽祖父→祖父→父親→息子→孫→曾孫…という順にそれを継承して来たに違いなく、改めて感慨深いものがあります。
盆節句と同じく、全国各地で、行われるこうした祭礼をかぎりなく、ご紹介するうち、祖先から伝えられた伝統がこれから先も地球が存在する限り何百年~何千年と伝承していくことは、人々の潜在意識の中に、ご先祖の記憶や魂が消え去ることなく、あの世とこの世の交信が行われているのではないかと思う今日この頃です。
相変わらず時間切れで、ご紹介し残しておりますが、本号にて暫くの間、山形県遊佐町からお別れいたします。ご協力いただきました遊佐鳥海観光協会ならびにご関係者の皆様に感謝申し上げます。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎王」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
NPO法人 遊佐鳥海観光協会
〒999-8301 山形県飽海郡遊佐町遊佐字石田19-18
(JR遊佐駅内)TEL/0234-72-5666
鳥海山大物忌神社 山形県飽海郡遊佐町吹浦字布倉1(吹浦口宮)TEL 0234-77-2301
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