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10)マッカーサーアメリカの軍人である。

2018.10.21 01:34

10)マッカーサーアメリカの軍人である。

―マッカーサーアメリカの軍人であるー、

無傷の二個師団の精鋭に守られ宮城の中にいる。

宮城は皇居であるが、戦いの為に造られた城でもある。

★日米開戦当時の日本軍の快進撃ぶりから、敗戦の決まった頃の、ぺリリユウ島の戦い、続く硫黄島、サイパン、沖縄戦で玉砕(全員が戦死するまで戦う)しても降伏しない戦闘ぶりを、嫌というほど味わっているのだ。

特に『神風徳別攻撃隊』の、死の道ずれと爆弾を抱えて突っ込んでくる、ゼロ戦は恐怖の的である。

また、否戦闘員の婦女子も逃げ場をなくし、岬の突端に追い詰められ、それでも降伏をして敵に助けを求めるより、死を選び、「天の配下、万歳!」と叫び、海に飛び込み、後の『万歳!クリフ』と、語り草となった所である。

最近、天皇、皇后の両陛下が慰霊の為に訪れ、名所になった所もある。

★事に本土決戦を叫ぶ、陸軍がどの位兵力を温存しているかは、不明である。

勝手知った本土である。住民も先祖伝来の土地を護らんと、必死の抵抗は予想できる。

それを考えればどの位の死傷者が出るか? 本土占領にそれだけの価値があるか?の疑問を感じながらも進駐して来たのだ。

それが、天皇陛下の、「終戦の詔勅があった途端に」一発の銃声さえ聞かない。

★これだけ権威のある天皇は、一日も早く口実を設け、殺さなければならぬ、が、一変、日本の統治は、天皇制の利用するに如かず。に替わって行った。

―マッカーサーアメリカは軍人であるー、

日本を統治するには天皇制に不可欠であるが、二度とアメリカに反旗を翻し、アメリカの敵になる事を防ぐ為には『皇室の弱体化と、日本人から闘士を奪う事だ』、と気が付き、戦争が、三年八か月の倍の七年の時間を懸けて行われた。

★まず、日本人への自虐思想の植付けである。天皇陛下と国民は平和を愛するが、一部の軍人は、周辺の弱小民族を植民地化せんと侵略し、欧米の軍との戦いで周辺諸国に多大な迷惑を掛けた。

幾ら誤っても謝り過ぎる事はない。天皇制の擁護と、食料援助に感激した素直な日本人は、この教えを謀略とは知らずに、素直に受け取った。

★だが、折から起った朝鮮戦争に危機を感じたアメリカは、この共産主義のアジアの防波堤を担っていたのが日本である事に気が付き、慌てて、政策変更を試みたが、時すでに遅く、日本人の自虐思想は、一部国民の間に今でも残っている。

★しかし、これは共産主議勢力の謀略に乗った一部のものであるので、私はあまり心配していいない。

★しかし、あれだけ資金を継ぎこみ、多くの地を流したシナ大陸を毛沢東率いる共産ゲリラに渡し、蒋介石は台湾に逃げ込み、一地方政権に甘んじている事には悔しさを禁じえない。

何れ、この事は後に一冊に纏めたと思っている。

―マカーサーの性格―

★もともとマッカーサーは、卑劣な復讐心と、自己正当化の衝動が非常に強い男であった。

こういう性格の男が、我が国の第十四軍によってフィリピンのバターン半島に追い詰められ、昭和十七年四月、コレヒドール島から部下を見捨てて自分だけ命からがらオーストラリアに逃げた。

★これは、如何に本国からの命と言っても軍人の最大汚点である。

その悔しさを込め、逃げ際に、「ウィシャル・リターン」(我々は必ず帰って来るぞ!)の名セルフを残している。

この闘士は軍人として評価できる。

オーストらリアの米軍基地に逃げ込んで、一年あまりで軍隊を再編成、アメリカの工業力の粋を極めた、物量に物を言わせた反撃が始まったのである。

★これで、さらにどれだけ、性格が歪になるか。

日本軍によって、軍人として世界に恥を晒すことになった。このマッカーサーが、こともあろうに、我が国を占領する連合国最高司令官になって昭和二十年九月、コレヒドール島から乗って逃げたB17で、その名も「バターン号」に乗ってきて厚木に降り立ったのだ。

★このマッカーサーが、日本に来て為そうとしたことは、「復讐を実行しつつアメリカは正義で日本は不義だと世界と日本人に刷り込むこと」である。

その為に、彼が実施したのが、東京裁判と他の多くの戦犯裁判という茶番劇である。

★彼は自分が屈辱を受けたフィリピンの二人の将軍に対して、襲いかかるように復讐する。かつて緒戦でシンガポールを陥落させた、マレーの虎といわれた猛将の山下奉文大将は降伏文書に調印の為にフィリピンでアメリカ軍に投降した。

この山下大将に対して、マッカーサーは、日本に来た翌月の昭和二十年十月二十九日に裁判を開始し、同十二月七日判決で翌昭和二十一年二月二十三日に軍服も着せずに絞首刑にして殺している。

★この対象なのが日露戦争での旅順開城で「天皇陛下の意向である」の伝言を聞いた乃木大将とステッセル将軍の会談である。

★次は、マッカーサーをコレヒドール島から追い出した、昭和十七年の第十四軍司令官本間雅晴中将に対して、昭和二十年十二月十九日に裁判を開始し、

翌二十一年二月十一日判決、同四月三日午前0時五十三分死刑執行。この本間中将に対する判決日は紀元節二月十一日である。

そして、死刑執行の日と時間は何か。四年前のその日、その時間、即ち、本間雅晴第十四軍司令官は、バターン半島に立て籠もって頑強に抵抗するマッカーサーを司令官とするアメリカ軍にたいし、昭和十七年四月三日午前0時五十三分、総攻撃を下命した。

★マッカーサーは、その日のその時刻に、本間雅晴中将を死刑にしたのだ。

つまり、私怨を晴らした。

私が、冒頭に、マッカーサーは実に嫌な奴だと書いた理由がお分かりいただけたと思う。

それともう一つ、マッカーサーの癖が既に顕れている。それは、日付けに拘る事である。本間裁判の判決日、死刑執行日がそれだ。

★この山下、本間両将軍が死刑になるなら、日本軍と戦ったアメリカ軍の全ての将軍も死刑でなければならない。

アメリカ軍は日本の民間人を殺す目的で軍事行動をしていたからである。

サイパン、沖縄はおろか東京、大阪、広島、長崎を見られよ。

さらに、ベトナム戦争におけるウェストモーランド統合幕僚長も間違いなく絞首刑だ。

にもかかわらず、マッカーサーが後に書いた「回顧録」には、自分が行った裁判は完全に正義に基づくものだったと強弁している。

★特に、本間中将の妻が、東京でマッカーサーに、「夫の助命嘆願をしているのではない、裁判記録に自ら目を通してほしい」、

「そうすれば何を為すべきかお分かりいただけると信じている」と願い出たことに関しても、よくもまあぬけぬけと嘘がつけるなあ、と思うほど誤魔化している。

★以上の通り、マッカーサーの、恨みのフィリピンにおける二人の日本軍の将軍に対する措置とその時の癖を述べた。    続く、