最高の指導法かどうかはいつも相手が決める
先日、知り合いのご家族とお食事に行って参りました。
そのご家庭の娘さんは高3。指定校推薦でほぼ進路は決定ということ。
昔から英語が大の得意で、受験勉強をしているわけではありませんが、センター英語は満点近くを取れるほどの実力者。大したものです。
話してくれた空所補充問題などの解き方は新鮮でした。
「えーと、まず有り得ないものが大体2つぐらいあるからすぐ消えますよね。そこから残った2つを入れてみて、自然な方を選ぶ」
僕の中にはない解き方ですが、本来の英語力ってそういうものなのかもなぁとも思います。
そんな彼女がこんな事も言っていました。
「いや、私、不定詞って言われてもなんだかわかんないし、SVOCもふれないんです」
よくよく話を聞くと、日本語で説明される英文法自体はからっきし駄目だということ。
「だから、SVOCふりなさいって言われても0点。その時の先生に「君は英語苦手だね」って言われた。もし、ああいう指導を受け続けてたら私は英語駄目になってたかもしれません」
と嘘のような真の話をしてくれました。
タイトルにもした以下の文言は、それを聞いて思った僕の考えです。
最高の指導法かどうかは、相手が決める。
誤解を恐れず言ってしまえば、この世に「最高の教え方」なんてものはありません。それはとても流動的で、不確かなものです。
僕ら指導する側は、相手の状態を見て、「相手のため」になる教え方を考えて、自分の引き出しの中にあるベストだと思われるそれを生徒へと心を込めて渡します。
何を持って「相手のため」とするかも、議論が分かれるところでしょう。将来のHAPPYか、今わかることか、テストの得点アップか、目標達成か。そのニーズだって相手やタイミングによっても変わってきます。
色んな情報を踏まえて、「相手のため」になる教え方を模索していく。「この教え方は最高だ!」「この教え方は絶対ダメ!」みたいに思考停止になってはいけません。だってそれは相手や目的やタイミングによっても変わるから。だから、僕らだって日々日々成長していかなくてはならないのです。
自分の中の引き出しを増やしたり、元ある中身を充実させたり、新しいものを研究してみたり、反論となるような考えを分析して持っている考えを強化してみたり。日々日々、生徒たち以上に学び、自己研鑽していかねばならぬのです。
でも、それが僕らは楽しいんですよね。その時間は、塾人にとって大事な、大切な時間。やりがいや面白みにもつながる部分です。
それでもって、そんな修行のような時が過ぎて、やっと君に「これが最高だ!」と思えるものを渡す瞬間がやってきます。
君のことを思って、「どれが合うかなぁ」なんて引き出しの中を探って、頭の中で繰り返しシミュレーションして、何度も試して、準備して、伝え方も工夫して、もしもうまくいかなかった時のプランBだって用意しておいて、
自信を持って、心を込めて、贈り物を渡すその瞬間。
弾けるような笑顔で「おお!わかりやすい!」なんて言ってくれたら最高です。
もちろん、そこで僕らが気を抜くことはありません。その後、君一人でその知識を使いこなせていなければ何の意味もありませんからね。
でも、君が思い通り笑顔になったそのとき、一人で問題が解けるようになったそのとき、その先の道で目標が達成できたとき、もっと遠い先の未来でいつか幸せそうに暮らす君を見たとき、
ああ、きっと間違ってはいなかったかな、って、
僕らは、ほんのちょっとだけ、本当ほんのちょっとだけ、自分の伝えてきたことを胸を張って誇れるのです。うん、ちょっとだけね。
正解を持っているのは、いつも君なんですよね。
本日もHOMEにお越しいただき誠にありがとうございます。
自らへの注意喚起。もっともっと自分の中の世界を広げていかねば。