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不条理と人間の本質について

2018.10.22 10:16

不条理という言葉を聞いて最初に思い浮かべるのは、フランスの哲学者であり作家であったアルベール・カミュである。


人間は世界と対峙しその不合理性に反抗することで不条理を超える、または不条理を受け入れるとするのが、カミュのいう不条理であると私は認識している。


カミュは1956年にノーベル文学賞を受賞し、1960年に交通事故という不条理の中で急死している。

タイヤのパンクの状態などから、KGBにより暗殺されたとも一説では言われている。

それが本当だとしたら、事故は不条理を超えて、人災と言われるものである。


さて、窮地に立たされたときにその人間の本質が分かる、という言説があるが、今日はそのことについて考てみたい。


多くの人間には、絶対絶命のピンチが突然訪れる、ということはめったにない。

もしそんな経験をされていたら、あなたは稀有な人間であり、何か特別な宿命を帯びているに違いない。

では、私のように窮地を知らない凡夫に対する本質は何を見たらよいのだろうか。

それは、日常である。

人間の本質は、日常に宿る。


不条理と思われる出来事が起きたとき、人は我を忘れる。

つまりその状態は、その人間の本質ではない。

ではなぜ多くの人間は窮地に立たされると「魔がさす」と言われるような自ら事態を悪化させるような行為をしてしまうのだろうか。

便宜上、人間には善悪があるという仮定のもと話を進めると、人間は悪路を自ら歩んだ結果、出口のない窮地に追い込まれる。

はじめは恐らく正しいと言われる道もあったはずなのに、その中から不正解の道を歩み続けてしまう。

つまり、最初から窮地だったのではなく、日常と言われる時間の歩みの延長で、それは起きている。

はじめは些細な選択であっただろう。

ルサンチマンを種にして、小さな嘘や欺瞞が心に宿る。

それは誰にでも生じることである。

だが、人は心の弱さから、現実をそのまま受けいれられず、自身にとっての不条理から目を背けるという行為をしてしまうことがある。

その結果、小さな嘘を発することもあるだろう。

虚栄をはることもあるだろう。

他者や自身に対する攻撃性として表れることもあるだろう。

そんなささいな行為が、現実との解離を推し進めるうちに、本質としては「普通の人」であったのが、やがて修復し難い窮地を生む。

それが、不条理の正体である。


明日あなたはこうして死ぬ、ということが分かっていた場合、それは不安とはならない。例えばそれが酷い仕打ちであったとしても、何が起きるか分かっていると、人間はその中で安住できる。

反対に、人は自身の知らないことに対し不安を覚える。

それは、人間の脳が反復性でできているためである。

人間の脳は一度使ったシナプス結合をなぞることに対して安心を覚え、よりそのシナプスを強くする。

反対に、自身の知らないことをやったり、先のわからない事態に陥ると、強いストレスを感じるようになる。

自身に起きた一瞬のピンチを欺瞞で回避した脳は、同じピンチを安心して同じような欺瞞で回避するようになる。

パワハラをする者はパワハラを強め、薬に依存する者は依存を強くする。

それを脱するためには強固になぞられた自身の安心という衣をはがさなければいけない。

強いストレスを伴う、困難な作業である。

だが、窮地に辿る道から逸れるためにはそれしかない。

そうして不条理を越え、現実と和解すること、それが人間の本質である。