Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

参議院議員 赤池まさあき 日めくり

4月3日は聖徳太子「憲法十七条」制定の日

2016.02.03 19:40

 私は仕事をする上で、聖徳太子の「憲法十七条」を機会に応じて参照するようにしています。1400年前以上に制定した聖徳太子の「憲法十七条」は、当時の役人に対して発した道徳的憲章であり、それは日本の伝統精神となり現代まで生き続けています。十七条全文を読むと、普遍性をもって現代においても大変勉強になると思っています。


● 「十七条の憲法」(日本書紀22巻推古天皇より)

第一条 以和為貴(わをもってとうとしとなす)

第二条 篤敬三寳(あつくさんぽう(仏法僧)をうやまえ)

第三条 承詔必謹(みことのりをうけたまわりては、かならずつつしめ)

第四条 以礼為本(れいをもって、もととなせ)

第五条 絶餮棄欲(むさぼることをたち、ほしいままにすることをすてよ)

第六条 懲悪勧善(あしきをこらし、よきをすすめよ)

第七条 人各有任掌(ひとおのおのにまかせつかさどることあり)

第八条 早朝晏退(はやくまいり、おそくまかれ)

第九条 信是義本(まことはこれ、ことわりのもとなり)

第十条 絶忿棄瞋(いきどおりをたち、いかりをすてよ)

第十一条 罰賞必當(ばつとしょうを、かならずあてよ)

第十二条 国非二君(くににふたりのきみあらず)

第十三条 同知職掌(ともにしょくしょうをしるべし)

第十四条 無有嫉妬(うらやみ・ねたみを、あることなかれ)

第十五条 背私向公(わたくしをそむきて、おおやけにむく)

第十六条 使民以時(ときをもって、たみをつかえ)

第十七条 夫事不可独断。 必與衆宜論(それことをどくだんですべからず。かならずもろもろとともに、よろしくろんずべし)


 全文は以下です。

 (現代訳)推古天皇十二年(西暦604年)の四月三日に、聖徳太子は、みずからはじめて十七条からなる厳然たる法(道徳的法)を(朝廷の役人のために)作られた。

一、【以和為貴 わをもってとうとしとなす】 

うちとけ和らぐことを大事にし、背き逆らうことがないよう心がけよ。人はみな徒党を組み、道理をわきまえる者は少ない。だから、ある者は君主や親にしたがわず、隣近所と仲違いをおこす。しかし、上下の者が仲よくし、執われの心をはなれて話し合うことができるならば、道理が自然と通り、何事も成就しないことはない。

二、【篤敬三寳 さんぽうをあつくうやまえ】 

三宝をあつく敬え。三宝とは、仏(=覚者)・法(=仏になる教え)・僧(=教えを喜び実践する集い)である。すなわち四つの生れ(=胎生・卵生・湿生・化生のすべての生物)の最後のよりどころ、すべての国の究極の教えである。いつの時代でも、どのような人でも、この教えを貴ばないことがあろうか。人は極悪のものは少ない、よく教えれば従うものである。その場合、三宝に依り申し上げなかったら、何に依って我執のとらわれを正すことができようか。

三、【承詔必謹 みことのりをうけたまわりては、かならずつつしめ】 

君主の命令を受けたら必ず謹んで従え。君はすなわち天であり、臣はすなわち地である。天が地の上にあってこそ、四季は順にめぐり、万物の生気は通うができる。地が天を覆おうとするときは、すなわち必ず破壊をまねくであろう。このように、君主の命には臣は従い、上が行うことには下がならうべきなのである。だから、天皇の命令には必ず従え、従わないなら自らが破滅してしまうであろう。

四、【以礼為本 れいをもって、もととなせ】 

朝廷の役人たちは、礼儀(うやまい)を根本とせよ。民衆を治むる根本は必ず礼儀にある。上の者が礼儀知らずなときは下は整わない、下が礼儀知らずのときはかならず罪をつくる。だから、朝廷の役人たちに礼儀があるときは、位の順は乱れず、百姓(=民衆)に礼儀があるときは、国家はおのずから治まる。

五、【絶餮棄欲 むさぼることをたち、ほしいままにすることをすてよ】 

食欲や物欲を捨て、公明正大に訴訟を判定せよ。民衆の訴訟は日に千の事もある。一日でもこのありさまであるから、時が重なればなおのことである。このごろ訴訟を裁く者どもには、私利私欲がはびこり、賄賂を見て裁決する。即ち財力あるものの訟へは石を水に投げるようであり(よく耳を貸す)、貧乏者の訴へは水を石に投げるように(耳を貸さずに)いる。これでは貧しき民衆は解決の術を持たない。君臣の道はこれでは満たされない。

六、【懲悪勧善 あしきをこらし、よきをすすめよ】 

悪をこらしめ善を勧めるのは、古き良き手本である。だから他人の善を隠すことのないよう、悪を見たら必ず正しなさい。へつらいあざむくものは、国家を覆す鋭い刃物であり、人民を絶つ先の鋭い剣である。口先だけでこびへつらう者は、上に対してはいい顔をして下の過誤を説き、下に逢うと上の失態をそしる。そうした人は、君主に対して忠誠心なく、民衆を慈しむ心がない。これは(国を)大きく乱す本である。

七、【人各有任掌 ひとおのおのに まかせつかさどることあり】 

人には各々任務があり、職務は乱れずすべきである。徳が高く道理を知る人が官職につくと褒め称える声がたちまち起る、わるがしこい人が登用されると禍い乱れがたちまち多くなる。この世に生れながら(世の道理を)知る人は少ない、よく(道理を)思うときに聖者となる。事の大小にかかわらず、適任者が職務に着いてこそ善く治まる。急ぎ過ぎたり、緩慢すぎたりすることなく賢人を登用すると、自然にゆとりが生れる。これによって国家は永く存続し、国土人民に危険がなくなる。いにしえの聖王は、官職のために人を求めて、人のために官職を求めたりしなかった。

八、【早朝晏退 はやくまいり、おそくまかれ】 

朝廷の役人たちは、朝早く来て遅く帰れ。公務は余裕がない。その日にやり尽すことは難しい。朝遅く来ていては急ぎの用事に間に合わない、早く帰ったらどうしても仕事を終えることができない。

九、【信是義本 まことはこれ、ことわりのもとなり】 

信(誠実)は正義の根本である。事務ごとに信を持ちなさい。善悪や成功失敗の原因は信の有無にある。役人たちに信があるなら、どんな事業も成功する。役人たちに信がないなら、どんな事業もすべて失敗するだろう。

十、【絶忿棄瞋 いきどおりをたち、いかりをすてよ】 

忿怒の心を絶ち、瞋恚を棄てて、人と意見の違うことを怒るな。人はみな心があり、心はそれぞれ執着がある。ある人が是認すれば自分は否認する、自分が是認すれば他人が否認する。自分は聖人ではないし、他人は愚者ではない。ともに(欠点の多い)凡夫にすぎないのである。善悪の理屈は誰がよく定めることができよう。お互いに賢く愚かであることは、鐶(金属製の輪)の端が無いようなものである。だから他人が瞋るといっても、かえって自分の過ちを恐れなさい。自分ひとり会得していると思っても、衆議に従って同調して行いなさい。

十一、【罰賞必當 ばつとしょうを、かならずあてよ】 

明確に功罪を観察し、功績には賞し、過失には罰することを必ず行え。日ごろ、賞は功績に対してなされていない、罰は罪科に対してなされていない。任務にあたる朝廷の役人たちは、よく賞・罰へを明らかにすべきである。

十二、【国非二君 くににふたりのきみあらず】 

国司(中央から地方に赴いた役人)・国造(世襲の地方官)は、民衆から勝手に財物や労力などを集めとってはならない。国にふたりの君主はない。民衆にふたりの主人はない。地の続く限りの億兆の民は王を主人とする。任に就いた官司はみな王の家臣である。どうして政府の仕事として、民衆から取立てを行うのか。

十三、【同知職掌 ともにしょくしょうをしるべし】 

もろもろの官吏に任じられたら、同様の職務を掌握しなさい。例えば病気になったり、使役があったりして仕事が欠けたりすることがある。しかし(同僚が)良く知っているならば、協調して前任者のしたようになさい。そんな任務は聞いてないなどと言って、決して公務を停滞させてはいけない。

十四、【無有嫉妬 うらやみ・ねたみを、あることなかれ】 

朝廷の役人たちは、嫉妬してはならない。自分が人を嫉妬するとき、他人は自分を嫉妬している、嫉妬の患いは際限が無い。このために智恵が自分に勝っていると喜ばず、才能が自分より優秀だと嫉妬する。このように、五百歳の後たった今賢い人に遇っても、千年たっても聖人を待つことは難しい。賢い人や聖人を得なければ、どうして国を治めることができるだろう。

十五、【背私向公 わたくしをそむきて、おおやけにむく】 

私情を離れて公益をめざすのは、朝廷役人の道である。すべての人は私情があるときはかならず恨みがある、憾みがあるときはかならず間違いが起こる、間違いが起こるときは私情によって公益を妨たげる。憾みが起るときは、制度に違反し法を破る。それ故に初めの章(第一条)に、「上下の者が仲よくし、執われの心をはなれて話し合う」というのは、またこのことである。

十六、【使民以時 ときをもって、たみをつかえ】 

民衆を使うときは時節をわきまえてするのは、古き良き手本である。冬には閑があるから(この時)民衆を使いなさい。春から秋に至るまでは農作業や養蚕の時節であるから、民衆を使ってはならない。農作業をしないで何を食べるのか、養桑しないで何を着るというだろうのか。

十七、【夫事不可独断。 必與衆宜論 それことをどくだんですべからず。かならずもろもろとともに、よろしくろんずべし】 

何事も独断で行ってはならない。必ずみんなで議論すべきである。小さい事は軽妙に、必ずしも皆と相談しなくてもよい。ただ大事を論ずる場合は、誤りがあるかどうか判らない場合がある、そのため皆と論議すると事態に道理を得るができる。