「楽しい」もしくは、「ヤバい」が大事?
少し抽象的なテーマになりますが「努力」の定義について考えてみました。
「努力」を辞書で調べるとこうです。
[目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。]
努力は過程であり、それによって得られたものが成果である。これが一般的な認識ですよね。
しかし、色々考えていくと努力とはある意味、「結果」ではないかと思うようになりました。
僕は、成功者の自伝を読んだり身近な人の成功体験を聞いたりするのが割りと好きで、それに至る過程というのは、大きく下記の2パターンに分けられます。
①好きで楽しくて仕方ないので夢中にやっていたら成功していた
→夢中パターン
②自分がやらなきゃヤバい状況になったので、必死にそれを解決しようと動いてたら成功していた
→必死パターン
夢中パターンだと例えばオタク系。宮崎駿やイチローなどそれが好きすぎて寝食惜しんでまで没頭するタイプの人が該当します。幼い頃からPCオタクだった人が巨大IT企業を築いたりとかもそう。必死パターンで言えば、スタートの段階で詐欺にあってしまったり、USENの宇野社長のように、莫大な借金を抱えた会社を父親から引き継ぎ、必死に返済していくうちに勢い有り余って会社も大きく成長したりなど、マイナスからのスタートで成功したという、火事場の馬鹿力的に成り上がった経営者も多いですね。
何も成功とはこれらのような大きなものに限らず、日常の小さな成功体験でも当てはまります。例えば普段のダイエットが続かなくても、「結婚式のドレス着る為に痩せる!」と決意すると殆どの人が成功しますけど、これは必死パターン。売上成績が優秀な営業マンには「これが駄目だったらこう試してみよう、あれで成功したから次もやってみよう」のように、営業自体をゲーム感覚で楽しんでいる人が多く、これは夢中パターン。
「いやいや、楽しくもなくヤバイ状況でもないけど、純粋に目標に向けて苦しいことを毎日耐えてる人も沢山いる!」という思う方もいるでしょう。しかしそういう状況でも、「自分はその目標に到達しないとヤバイ!」とある種、強迫観念的に自分を追い込んでいる必死パターンであると言えます。
夢中と必死のパターンがミックスすることも多いです。僭越ながら、僕の例で言えば、とても小さな成功体験ではありますが、マラソンのタイムが上がった時。普段ラン仲間と走ったり大会に出場することはとても楽しい。では、なぜ普段一人でも走るのか?それは、体力が落ちたり体重が増えたらヤバい、次の大会でタイム更新ができないと自分的にヤバいから、という両方のモチベーションで動いた結果であるとも言えます。
つまり、人というのは、「楽しい」か「ヤバい」状態にならないと頑張らないんですよね。その後成功を収めた時、「あっ、自分が今までしていたことって努力だったのかも?」と気付くのです。ですので、努力とは後から定義されるもの。ある意味、結果でもあるというわけです。しかし一般的には努力=苦行というイメージがあるために、「努力しよう」と決意して実行しても殆ど続かずに終わります。
ということで、もし「社員や部下が全然主体的に働いてくれない」という悩みをたまに聞きますが、「楽しい」もしくは「ヤバい」状況を作れていないことに問題があるのかも知れません。今の正社員という雇用体系でヤバイ状況を作るのはなかなか難しいとは思いますが・・。
ただ、自分自身が必死になる状態は割と簡単に作れます。自分の目標を声に出したりSNS等で発信するという、よく聞くワザです。「絶対にKOで倒す」と試合前にボクシングの選手などがよく使う手で、言った手前やらないとヤバイ状況に持っていって自分を追い詰めるというものです。しかし、本当にそうなりたいと思っていないと、ただ目標を言っただけで終わってしまうので注意が必要です。
目標がなかったり楽しいと思えることがない人は、自分の欲求に敏感になってとにかく色々試してみるしか無いのではないでしょうか。そこで飽きたりしたら向いていないということでまた次の興味を探せば良いだけです。
余談ですが、僕は20代の頃、ランニングを日課にしようと挑戦しても1ヶ月も続かないという失敗が4,5回ありました。しかし今はもう3年以上続いています。これは、31歳の時に初めて大会に参加して本当の楽しさを知ってしまったからです。ですので、「自分も毎日走って身体を鍛えたいんだよね」という人には一様に「じゃあまずはマラソン大会にエントリーしちゃいないよ」と薦めてるのですが「そんなの無理無理!」となかなか実行に移してくれる人はいません(笑)