邪道・大仁田厚が新日本プロレスに侵攻(後編)長州vs大仁田を巡って猪木と対立
話は戻って11・18京都大会、この大会は「ワールドプロレスリング」の収録の大会ではなく、ビデオ販売されていた「闘魂Vスペシャル」の収録の大会だったが、京都大会が選ばれたのは1・4東京ドームの目玉として最大級のインパクトを出すためにリアルさを重視し、敢えて「ワープロ」の収録日を選ばなかった。
京都大会に大仁田が現れるという情報を仕入れた週刊ゴングは大仁田番記者だった吉川氏だけでなく新日本番記者の金沢氏を取材に差し向けた、金沢氏を指名したのは竹内氏で金沢氏は長州批判を言わせた張本人、"これこそシュートの取材だ"と考えたからだった。吉川氏を通じて大仁田と連絡を取った金沢氏だったが、大仁田は他の新聞社も新日本に乱入することを嗅ぎ付けていたことから、「他のマスコミにわからないように体育館に忍び込み、待っていられる場所を用意して欲しい」と依頼してきたのだ。金沢氏の手引きで秘かに会場入りした大仁田は保安室に隠れ、出番が来るまで待機、そして第5試合が終わると大仁田がリングに上がり、田中秀和リングアナからマイクを奪い、新日本に宣戦布告、これに大仁田の全日本プロレス時代の後輩である平成維震軍の越中詩郎が乱入し、大仁田につかみかかろうとするが、小林ら他のメンバーが制止、大仁田は越中を無視して長州を呼び出すと、リングインした長州に挑戦状を投げつける。それを読んだ長州は破り捨てると殴りかかり、それを合図に中西学、金本浩二、安田忠夫、飯塚孝之(飯塚高史)、吉江豊が荒れ狂う長州を制止、佐々木健介も駆けつけて大仁田を蹴り飛ばす。健介に対して怒りを露わにした大仁田は「長州、狙うはお前の首一つ! と叫んで去っていった。
これで大仁田参戦の既成事実を作った新日本は1999年1月4日の東京ドーム大会に大仁田の参戦を発表、刺客として差し向けたのは健介だったが、大仁田は何と煙草を吸いながら、ニタニタ笑っての入場、先入場していた健介に奇襲をかけイスで殴打、しかし平然と受けきった健介は大仁田を殴り、花道に連行して大仁田を振り回す。リングに戻った健介はラリアットを炸裂させ、大仁田は血反吐を吐くも、コーナーに倒れこんだ大仁田は健介に火炎攻撃を浴びせ、この暴挙に怒った山本小鉄レフェリーは大仁田の反則負けを宣告し、大仁田を殴りつける。館内は大ブーイングも「オイ!新日プロレスファンよ、よく聞けよ。新日本はこんなもんで反則かい!?器量が小さいのぉ!これは俺の生き方じゃ!!」と叫んだ。内容は健介が圧倒していたが、健介が勝っても火炎攻撃という大きなインパクトで大仁田の存在は消せない、まさしく猪木の言ったとおりになってしまった。
その後大仁田は4・10東京ドームで蝶野正洋と新日本初の電流爆破マッチで対戦し両者KOとなると、7・21札幌で蝶野率いるT-2000と共闘して武藤敬司率いるnWoJAPANと6人タッグ戦で対戦、8・28神宮球場大会ではグレート・ニタがグレート・ムタと時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチで対戦して敗れるも、大仁田の存在は打ち消すことは出来なかった。そこで猪木が社長だった藤波辰爾に大仁田を干すことを命令し、藤波も大仁田を良く思っていなかったことから指令に従い、大仁田をビックマッチのカードから外し干すことで新日本から追い出し、小川をビックマッチ要員として登用して、仮に長州が復帰しても抗争相手には小川を据えたようとしていた。 干された大仁田は長州戦が進展しないことに焦れ、6月30日新日本海老名大会に突如訪れ、リング内でトレーニングをしている長州に嘆願書を手渡そうとするが、長州がフェンス手前で「またぐなよ」と制止、だがこの嘆願書事件がきっかけになったのか長州は一夜限りの復帰を果たして大仁田と対戦する事を決意、実現に向けて大きく前進する。
そして2000年7月30日横浜アリーナで長州vs大仁田による電流爆破デスマッチが行われることを発表、会見に出たのは長州だけで社長の藤波は反対の意志は崩さず会見には同席しなかったが、「もうやらせるしかない」と黙認するも、猪木は長州の新日本追放を示唆して試合そのものを潰そうとする。最終的に長州は反対を押し切ったが、猪木は周囲に「大仁田の毒に触れたら、あいつ(長州)は二度目の引退を逸するよ」と話していたという。横浜アリーナ大会は営業部ではなく、新設されたばかりのソフト事業部の主催で出場する選手も武藤や蝶野も出場せず、長州派の選手が中心となって出場。また新日本プロレス初のスカパーによるPPVで生中継されたのも、長州vs大仁田だった。
長州は4月亡くなった福田雅一の遺影を持って登場、開始から長州は下を向く大仁田が着用しているTシャツの襟首を掴んで首を絞めて倒すと、制止するタイガー服部レフェリーを蹴ってから大仁田を有刺鉄線に被弾させ、長州はボディースラムの体勢から大仁田を有刺鉄線に叩きつけて被弾、爆発の威力に長州も吹っ飛ぶが、大仁田は有刺鉄線が腕に巻きついてしまい出血する。
長州は大ダメージの大仁田にストンピング、ナックルを浴びせ、劣勢の大仁田は急所打ちで反撃するとDDO、ヘッドロックに長州を捕らえて有刺鉄線へ心中を図るが、長州が体を入れ替えたため大仁田一人が被弾してしまう。長州はブレーンバスターからサソリ固めで捕らえるが、大仁田は有刺鉄線に触れて自ら被弾させることで脱出、大仁田ならではの機転だったが、長州は再び大仁田を有刺鉄線に被弾させると、リキラリアットを炸裂させ、カバーに入るが大仁田はカウント2でキックアウト、長州は「来い、来い!」と大仁田を誘うとリキラリアットを連発させ、再びサソリ固めで捕獲、リング中央で完全に決まっているサソリ固めの前に大仁田はピクリとも動かなかったが、服部レフェリーは試合続行は無理と判断して試合はストップ、長州が圧勝となったが、ギブアップを奪えなかった。
大仁田は後年「オレはプロレスラーとして"強い"象徴ではない。長州力とは違う。自分とは対照的な長州力を電流爆破に入れることが出来た。長州さんをリングに上げただけで、オレの中では長州戦は終わった。上げるだけでよかったんだから、もし長州さんが復帰せずにあのまま引退していたら、長州力伝説になっていた。俺は伝説にさせたくなかった。長州伝説で終わらせないための悪巧みだったんだよ、オレと対戦した中で、一度も電流爆破に当たらなかったのは、長州力だけ。それが気に入られねぇなと思って、オレは長州力が男として決断してあのリングに上がってくれたことは感謝する。だけれど、オレはあの人と飯を食いたいとは思わない。男同士で語り合おうとは思わない」と明かしたが、長州は確かに電流爆破のリングに上がったが、電流爆破を受けてしまえば大仁田の持っている毒を長州が認めたことになる。だから一度も受けずに勝ちを収めた。長州にしてみれば大仁田と対戦するに当たってのギリギリの妥協点だったのかもしれないが、大仁田にしてみれば電流爆破のリングに上げただけで満足としながらも、内心は長州が電流爆破を受けなかったことに関しては満足していなかったのだ。
長州は2001年2月に現役に本格復帰するが、猪木は大仁田戦を強行した長州に対し「もうアイツには新日本は任せられない」と判断して長州排斥へと動き、2001年4月に長州を現場監督から解任、格闘技路線へと舵を切る。長州も「もう、猪木についていけない」と判断して新日本を去りWJプロレスを旗揚げする。一方の大仁田は参議院議員に出馬して当選、WJのリングに参戦したが、長州と対戦したのは6人タッグの1試合のみだった。WJ崩壊後は長州は大仁田興行でタッグで何度も交えるも二度とシングルで対戦する事はなかった。
大仁田は2017年10月31日、後楽園ホール大会で7度目の引退、長州は今年の6月26日に引退を示唆したが、それに対して大仁田はまた復帰を果たした。大仁田のまたの復帰を長州はどう思っているのか、案外あきれ返っているのかもしれない。
(参考資料 金沢克彦著「子殺し」 日本スポーツ出版社「あの話、書かせて貰いますⅡ」、田崎健太著「真説・長州力」新日本プロレスワールド、長州vs大仁田戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)