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10月21日 佐渡市[佐渡金山史跡]

2018.10.24 12:02


コンビニでの宿泊は落ち着かない。早朝、近くの相川公園に移動する。


ここ相川は、佐渡金山の中心地区にあたる。

1601年に、ここで金鉱山が発見されて以来、佐渡国(現 佐渡市)は徳川幕府の天領となった。


日本全国から多勢人が集まり、最盛期には約5万人が、この地区で暮らしていたという。


公園の駐車場で資料整理や調べ物などを済ませ、「佐渡金山遺跡」の観光へと出発……といきたいところだが、その前に、ちょっと佐渡金山の歴史についてお勉強を。



佐渡の伝説によると、佐渡の金・銀山の歴史は平安時代に遡る。

『今昔物語集』にも、佐渡では1100年ごろから砂金採取が行われており、当時の佐渡金山の中心は南部の西三川地区にあったことがうかがわれる。

その後、16世紀半ばに鶴子銀山が脚光を浴びるようになり、関ヶ原の戦いが終わった直後の1601年に、相川金銀山が発見され、1603年には徳川幕府直轄地となり、佐渡奉行所が置かれるようになる。

佐渡代官となった大久保長安により、町並みは整備され、陣屋も相川に移された。

徳川幕府の財政を支え、17世紀の金・銀の生産量は金が年間400kg、銀が40トン以上を採掘。
ボリビアのポトシ鉱山やメキシコのサカテカス鉱山と並んで世界屈指だったと言われている。

明治時代に入ると、佐渡金山は「官営佐渡鉱山」となり、西洋人技術者を招いて機械化・近代化が図られ、さらに「宮内省御料局管轄の皇室財産」となって、模範鉱山として日本産業の近代化に貢献することになる。

1896年に、三菱合資会社に払い下げられ、日本最大の金銀山として拡大発展を遂げる。

1940年には、年間最高生産量の1,537kgを記録したが、1989年になると資源が枯渇し、操業休止。


400年近くに及ぶ長い歴史の幕を閉じたのだった。


という事で、大方の歴史がわかったところで、まずは、近くの北沢地区にある「浮遊選鉱場」と「50mシックナー」を見学することに。




運動場のような芝生の右手に、階段状に広がる巨大なコンクリートの造物が浮遊選鉱場だ。

危険なので登ることは禁止されているが、子供なら仮面ライダーごっこをやりたくなるだろう。


左手の円形の建造物が、50mシックナーで、砂金を含んだ泥水は、まずこの巨大なプールに貯められ、上澄みの水分が除かれる。その後、細い川を挟んだ反対側の浮遊選鉱場に運ばれる。 

重量のある鉱石を原材料とする鉱業では、山の上から下に向かって作業工程が設定される。


こうやって写真を切り取ると、コロッセオのようにも見える。



佐渡鉱山では採掘場所の大立・高任地区から、鉱石選別のための高任・間ノ山地区、選鉱・製錬をする間の山・北沢地区を経て、生産品を積み出す大間港まで、約3kmの生産ラインが設定されていた。


そして、このレーンの先には大間港が。



ここにいると、昭和が遠く感じた。




さて次に、すぐ横の坂を登ったすぐ丘の上にある佐渡奉行所跡を訪ねる。


江戸時代には、幕府から佐渡奉行が派遣され、18世紀終わり頃には、奉行の下に300人に及ぶ部下がいたという。 


今日は茶会が催されており、奉行所の建物の中に入ることができないため無料だった。


ところが、観光の目玉は敷地内にある「勝場(せりば)」であり、これが無料で見学できたのはお得だった。


勝場とは、鉱石を粉砕し、石臼で泥粉状になるまで挽き、比重の違いを利用して選鉱作業をする建物である。  

実際の選鉱器具を展示して当時の様子が再現されているほか、佐渡金山の歴史に関する小ぶりな資料館にもなっている。


作業は、こうして細かく砕くことから始まる。


最後に、木綿の布の上を、文字通り「流しそうめん」のように流して不純物を取り除いていた。


金を漏らさず取り出そうとする執念は相当なもの。しかも、念には念を入れ、同じ工程を何度も繰り返したそうだ。



江戸時代の採掘・選鉱・鋳貨の工程を絵巻物にした「佐渡金山絵巻」も展示されており、興味深く、時間を忘れて見入ってしまった。




最後に、山道を登った先にある佐渡金山見学コースの目玉、「佐渡金山史跡」へ。

ここでは、江戸時代の手掘りの採掘跡である「宗太夫坑(江戸金山絵巻コース)」と、明治期の近代化以降に使用された「道遊坑(明治官営鉱山コース)」の2つの坑道を、それぞれ別料金で見ることができる。


我々は「江戸金山絵巻」に書かれた鉱夫のリアルな蝋人形が見られる「宗太夫坑」を選ぶ。


鉱山では絶えず湧き出る地下水の排水が欠かせない。「水上輪」という揚水装置をクルクル回して蝋人形が排水している。


古代ギリシャの物理学者・アルキメデスが考案したポンプが祖型とされる装置だそうだが、一人でこれをひたすら回しているのは相当しんどい労働だ。


坑道では金鉱を掘り出すだけでなく、それらを運搬したり、地下水を組み上げたりと、様々な分担がある。


そのうち金鉱を掘り出す「金穿大工」は、他の坑内労働者と違い技術者扱いだったため、食事や休憩の時間が与えられ、ムシロの上で寝ることができた。

彼らの休息所を再現した場所では、彼らの会話がボソボソと聞こえてくる。


耳を澄ますと、


「酒が飲みてえよう〜」


「馴染みの女に会いてぇよ〜〜」


と、男達だけの作業場特有の哀愁が漂っている。



興味深かったのは「やわらぎ」という佐渡金山に伝わる神事芸能である。


お供え物を前にして祈りを捧げる蝋人形。棚の上では面を着け御幣を持ち、神主のように着飾った親方が「やわらぎ」を演じている。


これは、山の神の心を和らげるとともに、鉱脈が柔らかくなることを祈っており、手掘りによる採掘が容易に安全に行われるようにとの、金穿大工達の願いが込められているという。 




坑道は30分ほどで見終わるが、その先には佐渡金山に関する資料館があり、30秒以内に10kg余りの金塊を片手で掴んで透明なケースの穴から出すことができれば賞品が出る、というコーナーもある。


過去に2000人程の人が成功したようだが、小さな穴から取り出すには、手を金塊と平行にして引き出す必要があるとのことで、当然ながらなかなか難しいようだった。ちなみに、この金塊の時価は約6000万円とのことだった。




出口付近に茶屋があり、池があったので覗いてみると、金と銀の鯉が悠然と泳いでいた。

あっぱれ、あっぱれ。