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ふらっと神社 News&Topics

糺(ただす)神社<安来市>

2018.10.24 16:03

島根県安来市にある糺神社の御祭神はちょっと判然としておりませんm(__)m


’22/6/28 このページの最後に追記をしました。



判然とはしておりませんが、京都・賀茂神社より勧請されたと云う記録が以前読んだ戦前(?)発行の古い本に載っていたと思います。

先日書いた、賀茂神社とセットであれば、賀茂御祖神社(下鴨神社)を勧請し、賀茂建角身(かもたけつのみ)命と玉依媛(たまよりひめ)命が御祭神となろうかと思います。

※不確かですみませんm(__)m参考まででお願いします※

糺神社の真正面には、安来市立社日小学校があります。

この小学校の一角には古墳があり、舟形の木棺が見つかっています。

↑ 拝殿側から見た様子・正面には校舎があります。

↑ 小学校の一角にある舟形木棺がでてきた古墳の跡


地形からみると、北側に社日山・社日公園があり、その先は商店街ー国道ー港となっています。

前述の本を読んだときに、昔の海岸線はもっと内陸部だったことが記載されていました。

出雲歴史博物館から出ている入海の記憶にも載っていましたが、昔の海岸線は社日山からこの糺神社の方まで来ていたようです。

なので、小学校の一角で、現在は内陸部のところでも舟形木棺が出てきてもおかしくないのです。


賀茂氏・・・前回の賀茂神社では陰陽師だったりと説明を書いておりましたが、もっとずっと遡るを、そのご先祖様は大国主命と宗像三女神の一人、多紀理毘賣命の間に生まれた「アジスキタカネヒコ命」を祖とする一族となるそうです。


もう一つ

以前安来神社で紹介したのですが、出雲風土記には安来郷の条項に、意宇の国造=出雲国造の娘がワニに噛まれて亡くなると云う悲しい物語が書かれており、その慰霊祭とも言えるお祭りが毎年8月のお盆に行われます。

「月の輪まつり」とか「月の輪神事」とも言われるお祭りですが、市内四つの町内が、

「エーンヤエーンヤ、デゴデットーヤー」の掛け声で山車を引きながらお囃子と共に市内を練り歩きます。

風土記では、亡くなった娘の父・語部臣イマロが八百万の神々に祈りを捧げ、たった一人で娘の命を奪ったワニを切り刻みます。

「エーンヤエーンヤ」とは、「おーい、おーい(誰か)」という意味で、

「デゴデットヤー」は、「手伝いに来てくれ」という意味になります。

つまり、「月の輪祭り」は亡くなった娘、父・イマロ、ワニを慰霊と、暑気払いの祭りなのです。

この「月の輪祭り」の祈念とお祓いが行われるのは、実は賀茂・糺神社で行われるのです。

※「月の輪祭り」では安来神社は関わりがありませんーが7月のお祭りは安来神社で祈念されます※

冒頭で書いた本には、京都の賀茂神社から神社の勧請と共にお祭りを持って、この「月の輪祭り」が始まったともありました。

もしかすると、京都の祇園祭が病気平癒のお祭りなのでその辺りがルーツなのかもしれませんが・・・。

※もちろん規模などは全然比較になりませんし、祇園祭なら八坂神社だから賀茂神社なら葵祭??※


安来は隠岐の島へ流された後醍醐天皇を天皇の娘が見送った港でもあるし、たたらで製造された鉄や鋼を搬出していた港で、かなり古い時代から人々が生活していた痕跡も多く残る土地です。


’22/6/28 追記 ご祭神について

雲陽誌に御祭神の記述がありました。


糺大明神 大己貴命玉依姫をまつる、元和元年中堀尾の陪臣堀尾民部一信建立の社なり、


御祭神:大己貴命、玉依姫命。

元和元年中=1615年の中頃=1615年3月には大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡した年でもある。

陪臣(直参の家来)である堀尾民部一信が建立したお社となっています。


堀尾民部一信とは(参考資料から)

堀尾民部を説明するにあたって、堀尾民部が仕えていた堀尾吉晴について説明します。

堀尾吉晴は、松江市民ならそのほとんどが知っているお殿様で、国宝になった松江城を築城した人です。

その生い立ちは、安土桃山時代の現愛知県にあります。

岩倉織田氏に仕え、その後織田信長、豊臣秀吉に仕え勲功を挙げていきます。

秀吉の死後は、徳川家康に近づき、反徳川派である石田三成や前田利家らとの調整役を行って、徳川家康の信頼を得ています。

関ケ原の頃になると、家督を忠氏に譲り隠居。

関ケ原で忠氏が勲功を上げ、1600年9月出雲国冨田(月山冨田城)へ移る。

1604年に忠氏が早世し、家督が幼い孫の忠晴へ継がれ、その後見役に吉晴が就きます。

1611年松江城が完成し、本拠を月山冨田城から遷したが、同年6月に死去。


堀尾吉晴の実の姉は、現岐阜県の揖斐勘左衛門に嫁ぎ生まれたのが揖斐宮内一信です。

揖斐宮内一信は、早くから伯父である堀尾吉晴(直参)に仕え(なので陪臣)、一門衆として堀尾姓を賜り、揖斐姓から堀尾姓に変えます。

堀尾宮内一信はその後、民部一信と名も改め、堀尾民部一信になります。

堀尾民部は1602年から1619年まで、毎年仕置役(行政・司法)を仰せつかっています。

糺神社神社が建立されたのも1615年なので、この仕置役としての業務で建立されたのかもしれません。

因みに同じく安来市にある加茂神社についても書かれており、


天正年中堀尾山城守忠晴造営の棟札あり、


と、書かれていました。

天正(1573~1592)年だとまだ出雲に来ていないはずですし忠晴はまだ生まれていないはずなので、早すぎるのですが・・・。

ですが、1611~1633年の間に忠晴によって造営されたのだと思われます。


参考資料

・堀尾吉晴共同研究会発行『近世大名・堀尾吉晴とその一族の石塔』令和3年3月

・松江歴史館発行・松江歴史館研究紀要第二号『松江城下町遺跡出土の桔梗紋の瓦をしようした家について』新庄正典