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飯島 愛 ちん ガッタス・オスピタル

騎手・三浦皇成さん、妻・ほしのあきさんと長女に支えられ…骨盤骨折から復帰「トップに」自信と覚悟

2018.10.26 16:29

落馬、そこへ体重470キロの後続の馬が…

「すごい衝撃だった。何が起きたか分からなかった」

 2016年8月14日、札幌競馬場(札幌市)。断然の1番人気に推された第7レースで、大きな落馬事故に見舞われた。

 最後の直線で先頭に立った瞬間、馬が転倒し、ダートコース上に投げ出された。そこに、後ろを走っていた体重約470キロもの馬が時速約60キロの速さで突っ込んできた。

 ボキボキ――。体の中から鈍い音が聞こえた。何とか起き上がろうと四つんばいになったが、下半身に全く力が入らない。痛みよりも、息ができず苦しかった。すぐに担架に乗せられて札幌市内の病院に救急搬送された。「死ぬ、死ぬ」。うめくように言い続けた。

 08年、騎手として華々しいデビューを飾った。その年は91勝を挙げ、武豊騎手が持つ新人年間最多勝利記録(69勝)を更新。11年にはタレントのほしのあきさんと結婚した。

 ただその後は、決して順風満帆ではなかった。年間勝利数は60~70勝台。伸び悩んでいた。

 レースで馬が故障し、落馬することは珍しくない。しかし、デビュー9年目で起きた事故は、医師から「命が助かってよかった」と言われたほどの大けがだった。骨盤が真っ二つに折れていた。待っていたのは、騎手生命さえも脅かすような、1年近くに及ぶ壮絶な日々だった。


激痛、幻覚、3度の手術

 落馬事故で、札幌市内の北海道医療センターに救急搬送されると、集中治療室(ICU)に入れられた。

 上半身を支える土台である骨盤は、割れて左右が完全に分断され、原形をとどめていなかった。左肺は、折れた肋骨(ろっこつ)が刺さってつぶれていた。肺挫傷だった。

 「すぐには手術できない」。担当した医師はそう判断し、容体を安定させることに全力をあげた。肺からの出血もひどく、脇腹に開けた穴から管を入れて血を抜いた。

 呼吸が楽になると、今度は、経験したことのないような激痛が襲ってきた。痛みを和らげるため強い痛み止めを使ったが、「心のコントロールがうまくできず、幻覚のような変な夢を見た。生きた心地がしなかった」。

 ベッドでは全身が管につながれた状態。左脚の感覚は全くなかった。身動きができないので、床ずれができないよう、看護師らが数時間おきに横を向かせてくれた。

 手術ができたのは、事故から4日後の8月18日だった。その後、26日、29日にも立て続けに行われた。最もひどい痛みに見舞われたのは2回目の手術の後で、激痛に耐えきれず泣き叫んだ。

 難しい手術だったが、骨盤は金属プレートや15本のボルトなどで固定され、ようやく、いい形に収まった。自分で寝返りも打てるようになった。だが、依然として状況は予断を許さなかった。


感染症、綱渡りで抑制

 寝たきりの状態が続いていたが、落馬事故から約3週間後、車椅子には乗れるようになった。2016年9月17日、自宅に近い茨城県つくば市の筑波記念病院に転院した。

 担当した整形外科部長の相野谷武士さんは、骨折のひどさに驚いた。長年、騎手を数多く診療してきたが、「10年に1人の大けがだった」。40代なら引退してもおかしくなかった。

 さらに厄介なことが起きていた。骨盤の一部である恥骨の部分に、抗菌薬の効きにくい細菌が繁殖し、感染症を起こしていた。抵抗力が落ちるなか、3回も手術を繰り返したためだという。

 2週間後、たまった膿(うみ)を取り除く手術を行った。うまくいかなければ、骨盤を固定する金属プレートなどを抜くことになり、治療が振り出しに戻る可能性さえあった。「どっちに転んでもおかしくなかった」。相野谷さんは、綱渡りだった経過を振り返る。

 約1か月かかったものの、感染症は幸い、抑え込むことができた。しかし、肝心の新しい骨ができてこなかった。骨折した部分に超音波を当てるなどしたが効果はなかった。

 「早く動きたい」。5歳の頃から憧れた騎手だった。「もし騎手に復帰できないのなら、日常生活に戻れたってしょうがない」。気が焦るばかりだった。

 退院したのは、年の瀬も押し迫ったクリスマス。とはいえ、まだ家の中でも車椅子が必要な状態だった。


半年たっても新しい骨できず…「偽関節」と呼ばれる状態に

入院生活の中で、これまでの騎手人生にリセットボタンを押せた日があった。

 「こんな自分は嫌だ」

 新人記録を塗り替える華々しいデビュー。だが2年目以降は、周囲の大きな期待に応えるような成績は残せず、ずっと自分を否定し続けてきた。絶えず重くのしかかるプレッシャー。「自分であって自分でないような感覚」に苦しみ、不安と孤独感にさいなまれた。

 そんな時に起きた落馬事故だった。自分を見つめ直すのに、十分過ぎるほどの時間を与えてくれた。ある日、急に気持ちが楽になった。妻のほしのあきさんや長女が精神的な支えになった。「家族の前だと、ありのままの自分でいることができた」。素直に家族のために頑張ろうと思えた。

 本格的なリハビリは、松葉づえや手すりを使って歩くところから始まった。筋肉はすっかり落ち、中でも左脚はやせ細っていた。当初は左足を地面につけてはいけなかった。それだけに両足の裏全体をつけた時、「戻れるという確信が持てた」。

 ただ、骨盤骨折から半年たっても、新しい骨はできなかった。骨がくっつかず、ぐらぐら動く「偽関節(ぎかんせつ)」と呼ばれる状態になっていた。この部分の骨をくっつけ、骨盤に入った金属プレートを組み替えないと、腰を曲げられない。復帰には再手術が必要だった。

 「うまく行くかはやってみないと分からない」。筑波記念病院整形外科部長の相野谷武士さんから、そう告げられた。2017年4月のことだった。


体にはまだ14本のボルト…でも、怖さはない

 骨盤の金属プレートなどを組み直す手術は2017年5月16日、無事成功した。新しい骨ができ始め、約1か月後、松葉づえなしで歩けるようになった。「当たり前だったことが少しずつできるようになった喜びを忘れずにいたい」

 復帰した時、前より成長していないと意味がない。トレーニングは体幹を意識し、質のいい筋肉づくりに取り組んだ。派手だが無駄な動きも多かった騎乗フォームは、馬の動きに同調した乗り方に変わった。7月上旬、久しぶりにまたがった馬の背中は懐かしかった。体は勝手に反応してくれた。

 1年ぶりの復帰を果たしたのは8月12日。あの日と同じ札幌競馬場(札幌市)を選んだ。自分への「けじめ」だった。

 「皇成、おかえり!」。雨の中、パドックで声援が飛ぶと、耐え抜いた日々を思い返し、熱いものがこみ上げた。復帰戦は妻のほしのあきさんが心配そうに見守るなか、5着で終えた。「次は勝ちたい」。自然と湧き上がった思いに、「俺、やっぱり騎手なんだなって実感した」という。

 「誰もできない経験をした。これで変われなかったら、頑張った自分に申し訳ない」

 騎手は、死ぬ可能性があることを思い知らされた。手術は5回にも及んだ。体にはまだ14本のボルトが入る。だが怖さはない。騎手という仕事に誇りを持てた。トップジョッキーになる――。その覚悟と自信を胸に人馬一体となって、ターフを駆け抜ける。