[渡辺真理さん]介護のプロが強い味方 2018.10.26 16:51 両親支えて18年 仕事と両立 アナウンサーの渡辺真理さん(51)は4年前、父の 半三はんぞう さんを88歳で亡くしました。現在は母、美智子さん(86)を自宅で介護中です。計18年に及ぶ介護の経験から「人生の終盤こそ幸せであってほしい。介護職の方々が強い味方になってくれています」と話します。 画像の拡大「入院中の父は、話ができなくても表情やそぶりから家に帰りたいことがよく分かりました。私も帰宅させたかった」1998年12月、母と2人で外出し、帰宅すると、父がベッドで横になっていました。様子が変だと感じ、部屋を見回すと、ドアのはめ込みガラスが割れていました。父が転んだのだと察しました。 私たちの問いかけに、父は「大丈夫」と返事をするものの、ろれつが回っていません。救急車で総合病院を二つ回ったのちに、脳神経外科医院に搬送されました。小脳の脳内出血でしたが、院長の夜通しの手術で、父は一命を取り留めることができました。 《半三さんは祖父が創業した会社を経営し、美智子さんは航空会社の元客室乗務員。一人娘が生まれたのは、それぞれ41歳、35歳の時だった》 両親は、私が幼い頃にも赤ちゃん言葉で話しかけることはありませんでした。当時としては年を取ってからの子どもだったので、親子一緒に過ごせる時間の短さを意識し、自立心を育てたかったのでしょう。大学受験も就職も、TBSを退社した時も、事後報告でしたが、父はいつも娘の判断を信頼してくれました。 大黒柱の父が倒れたのは、それまでの人生で最大の衝撃でしたが、一番つらいのは父自身のはず。父が私を信頼して課した使命なのだと受け止め、それに応えようと思いました。 父の入院はフリーのアナウンサーとして新しい番組に移った時期と重なったため、夕方に出勤し、深夜に帰宅する日々が始まりました。 東京都内に借りたマンションで仮眠をとった後、午前中に1時間ほど車を運転して横浜市内の病院へ。途中で母と自分の弁当を買い、洗濯物があれば実家で済ませてから、テレビ局に向かうのが日課でした。番組の先輩や同僚も、この状況を理解し、支えてくださいました。 介護保険制度がスタートした2000年4月、父は退院し、自宅へと帰ることができました。 《身長1メートル80の半三さんを、母子だけで自宅介護をするのは心配もあった。介護保険制度が始まったばかりのこともあり、関係する全員が手探りだった》 ケアマネジャーさんを中心に、介護の態勢を一から話し合いました。大柄な父でしたが、ヘルパーさんが器具を使って車いすに乗せるなど、適切に対応してくれました。 父に寄り添う生活の中で、母も要介護の状態になりました。父が他界した年には要介護3から5に。伴侶を亡くし、娘の前では気丈に振る舞っていましたが、精神的な苦痛は大きかったのだと思います。 そうした中で、介護職の方々が支えになりました。24時間態勢で一つ屋根の下に暮らしていると、ヘルパーさんはだんだんと家族のようになります。介護職を選ばれただけあって多くの方が心優しく、花を部屋に飾る前に、母の顔にそっと近づけて、香りを楽しませてくれることも。母も体の自由がきかない中で、家族同然のヘルパーさんと、いつも会話を楽しんでいます。 ヘルパーさんとは、「介護する側とされる側にとって、何が幸せなのか」と根源的な議論になることもあります。せっかく生まれた縁だから、心温まる思い出を少しでも共有できたらと考えています。 《10年前に結婚した夫の父親が、4月に前立腺がんで他界した。義父は義母の先々を案じ、2年前に神戸市から渡辺さんの実家近くに引っ越してきていた》 義父母は、私が通っていた幼稚園に併設の教会に連れ立って日曜礼拝に通うなど、地域にもなじみ、穏やかに暮らしてくれました。 最晩年の義父は介護が必要になりましたが、義母は他人に頼ることに戸惑いがありました。そんな時、私の母を担当するケアマネジャーさんが、「お 義母かあ さま自身が倒れては元も子もない。プロの人たちに任せてみませんか」と説得してくれたのです。義母も納得し、義父を手厚くみてもらうことができました。 振り返れば手探りで始まったわが家の介護生活。介護される側にとって、何が幸福なのかは確信できていません。観察し、想像しながら、介護される側もする側も笑える日々を送れればと願っています。(聞き手・宮沢輝夫)◇ わたなべ・まり 1967年、横浜市生まれ。国際基督教大学卒業後、90年にTBS入社。報道番組やワイドショーなどに出演し、98年からフリーに。テレビ、ラジオ、雑誌などで幅広く活動する。健康や街づくりに関するシンポジウムにも登壇している。 ◇ ◎取材を終えて 「ケアマネジャーさんやヘルパーさんのお力は本当に大きいです。同じサービス業として学ぶことも多く、尊敬しています」。渡辺さんは取材中、身内の介護に関わる人たちへの感謝の言葉を、何度も口にした。取材の終わりには「自分たちの介護生活は一つのサンプルに過ぎませんが、少しでも参考になればうれしいです」とも。控えめな口調ながら、介護を続ける人たちの役に立ちたいという強い思いが伝わってきた。