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ZIPANG-2 TOKIO 2020 井波彫刻発祥『井波別院瑞泉寺』 勅使門『獅子の子落とし』、大門を支える『龍』の井波彫刻(最終話)

2018.10.28 14:55

このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


2018年5月、瑞泉寺を中心とした木彫の伝統が高く評価され、文化庁が取り組む「日本遺産」に「木彫刻のまち・井波」が認定されました!



木槌の音が響き、木々の薫りが漂うまち


瑞泉寺の門前の緩やかな上り坂、石畳の八日町通りには工房や町家が軒をならべ、どの家にも鳳凰や龍、七福神、動植物など様々なデザインの木彫看板や表札が掲げられています。通りのそこかしこから、「とんとん」「かんかん」「シュッシュッ」と時に力強く、時にリズミカルに木を叩き削る木槌の音が響き、辺りには楠や欅、檜など木々の薫りが漂います。ここは木彫刻のまち・井波です。


ひと際目を引く精緻な造りの看板が掲げられている木彫刻職人の工房は、ショーウインドウのように通りから中を窺うことができ、板張りの作業部屋の手前に弟子達、その奥で親方が自らの技を誇るよう鑿を振るう。一枚の大きな分厚い板に墨で下絵を描き、200~300種類の彫刻刀を使い分け、荒落し、荒彫り、小彫り、仕上げ彫りにと取組む。大きな欄間や繊細な仏具などは完成までに数か月から数年を要し、職人はその間一心不乱に木と格闘する。欄間や衝立、獅子頭、天神様など彫り上げられた多くの作品は工房内に大切な商品として陳列され、またそれらは若い職人達の貴重な手本ともなっています。


通りにある多くの町家は木造・中二階建てで、通りに面して格子が覆うなど江戸時代からの佇まいを留めており、全体に落ち着いた外観です。造り酒屋の町家の正面には大きな欅の一枚板の彫刻看板が掲げられ、屋号や商号、酒樽の図柄が彫り込まれています。蕎麦屋を営む町家に入ると、江戸時代の職人の手による彫刻欄間をはじめ、衝立や獅子頭など優れた彫刻作品におもわず目が留まってしまう。その他、通りには来訪者を歓迎する大きな彫刻のモニュメント「花鳥の塔」などと共に、バス停や電話ボックス、ベンチ、街路灯といった井波の人々の暮らしに関わる施設にも木彫刻が施され、伝統的なまちなみと融和しています。


一方、通りを北に下る本町通りには、鑿屋、刀屋、建具屋、木地屋、塗師屋などが建ち並び、彫刻職人を支える職人街として、木彫刻のまちの基盤となっています。本町通りの先には、代々瑞泉寺の大工棟梁をつとめた松井角平の手による旧井波駅舎があり、昭和47年の鉄道廃止以前は瑞泉寺への玄関口として多くの参拝客を迎い入れた。この旧井波駅舎から瑞泉寺へと向かう本町通りと八日町通り、そして八日町通りから東西に伸びる六日町通り、三日町通りなどにも、木彫刻の工房が数多く点在し、木彫刻のまち・井波は形づくられています。


井波別院瑞泉寺大門と門前町として発達した八日町通り

八日町通りの両側には井波彫刻の工房が軒を並べ制作風景を自由に見学できる。

井波別院瑞泉寺 御本堂

井波別院瑞泉寺は、明徳元年(1390年)、本願寺5代綽如上人によって開かれました。外国から送られてきた難解な国書を、綽如上人が解読し、天皇は大変喜び、一寺寄進を申し出られたと伝えられております。


綽如上人は、多数念仏信者の浄財による建立を希望され、天皇は勧進状を認(したた)める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可されました。明徳元年(1390)越中へ帰った綽如上人は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を作り、広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立されました。この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、又越中の一向一揆の重要拠点ともなった寺院となっていきます。


15世紀末には、井波城と称しました。福光城主石黒氏を破るとともに、井波の町は寺内町として発展します。16世紀、佐々成政の軍勢に攻められ、焼き払われてしまいます。その後城端北野に移った後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建されました。


現在の本堂は、明治18年(1885年)に再建されたもので、木造建築の寺院としては、日本でも有数の建物です。井波大工の棟梁松井角平恒広を中心に多くの大工、彫刻師が完成させました。太子堂は、大正7年(1918年)、井波建築、井波彫刻、井波塗師の優れた技を集めて再建されました。棟梁は松井角平恒信で、大工34人が建築にあたり、7年がかりの大工事でした。


大門(山門)は、天明5年(1785年)、京都の大工によって建て始められましたが、京都本願寺の再建工事が始まったため、井波大工がその後を引き継ぎ完成したものです。


井波別院瑞泉寺の彫刻

雲水一疋龍(大門)

瑞泉寺は、天正9年・宝暦12年・明治12年と三度大きな火災にあって(伽藍)建物が焼失しております。越中の一向一揆の中心的寺院であった瑞泉寺も、天正9年(1581)に佐々成政によって焼き討ちにあい焼亡し、江戸時代に入り寛永19年(1642)に再建され、宝暦12(1762)3月に再び火災にあいます。


翌年から再建が開始されますが、京都の本願寺より再建のために、東本願寺の創立以来、代々本山お抱え大工の棟梁を務めてきた笠井若狭守が見聞に訪れ設計図面などを作成し、同じく配下のお抱え肝煎大工のひとりであった柴田新八郎など多くの職人が直接の再建と指導のために派遣されたと思われます。柴田新八郎は10年あまり井波に住まいして本堂などの再建を進めました。安永7年(1774)に17間四方の本堂完成させた後、大門(山門)の再建に取り掛かります。ところが天明8年(1788)正月に京都の東本願寺が火災にあってしまいます。そこでその再建のために多くの職人達と共に井波を離れて京都に戻ります。


そのあと、瑞泉寺の再建を引き継いだのが、柴田清右衛門、番匠屋七左衛門、松井角平などの地元の大工達でした。彼らは台所・式台門などを次々と完成させてゆき、今日に残る大門は文化6年(1809)頃にほぼ完成したと思われます。


再建に当たっては、彫刻を得意とする多くの大工・職人が関わっておりました。その内山門正面の「波に龍」の彫刻は、京都彫刻師の前川三四郎に依頼し、京都から運ばれてきたと言われます。そのほか、中国の八仙(大門正面より左手前から奥へ琴高・伯牙・鉄拐・蝦蟇仙人、右手前から奥へ呂洞賓・簫基・張果・平黄初)と呼ばれる八人の仙人の彫刻などは井波の彫刻師の手によるものです。


このように、今日迄連綿として続く井波彫刻は、京都の優れた伝統的な寺院建築や寺院彫刻に学んだ技術と、瑞泉寺再建などで培ってきた井波大工の技術との調和・融合によって生み出されたと考えられます。


獅子の子落とし(勅使門)
狩野派風な図柄で浮き彫りの技法が駆使され、日本彫刻史上の傑作とされています。



たとえば、寛政4年(1792)に柴田清右衛門が再建した式台門(勅使門または通称菊の門)の両脇板には番匠屋北村(田村)七左衛門が施した「獅子の子落とし」、蛙股には莫、虹梁には松に鶴が彫られている。先の子落としの彫刻に関しての図が残り、当初は鯉の滝登りと子落としであったようです。この式台門は桁行約3.7㍍、梁間約2.5㍍で唐破風造りで、昭和5年(1930)にこけら葺きから銅板葺きに改められ、平成17年(2005)に屋根周りほか修復が行われました。


こうして再建された瑞泉寺ですが、明治12年(1879)9月三度目の火災によって、大門から太鼓楼までの正面の建物を残して多くの建物を失います。やがて、明治18年に4代目の松井角平が棟梁となり、短期間で桁行40.1㍍・梁間39.7㍍の巨大な本堂を再建します。

唐狭間迦陵頻伽(本堂中央)

本堂正面の唐狭間(欄間)の彫刻はまさに浄土の荘厳を描写する「阿弥陀経」にも登場し、仏の声にたとえられ、比べようのない美声持ち、お浄土そのものを示すという、迦陵頻伽の姿があります(『万華鏡』天上絵より)。 しかしながら、正面階段上の向拝手挟の彫刻などについては、アジア太平洋戦争後のものもあるといわれます。


弘化4年(1847)に上棟式を挙げた太子堂も明治12年に焼失し、その再建は5代目松井角平が引き継ぎ、大正7年(1911)に完成させます。太子堂は桁行24.7㍍、梁間27㍍一重裳階付入母屋造です。ここの向拝の木鼻・手挟など等をはじめ多くの彫刻は田村(岩倉)理七など井波の彫刻師たちの力強い作品です。


かれらは、同時に東本願寺の再建に関わりその彫刻にも腕をふるいました。続いて、昭和7年には鐘楼(桁行5.1㍍・梁間4.6㍍)が、同9年にの二階建て式台を持つ瑞泉会館(桁行25.5㍍・梁間19.1㍍)がそれぞれ作られています。


こうして、瑞泉寺の再建と共に伝承・発展してきた井波地域の彫刻の技術は、今日の伝統的な工芸作家や職人・技術者に脈々と受け継がれてきています。


井波別院瑞泉寺の境内案内

 

 

山門


江戸時代末期の天明5年(1785)、本山真宗本廟(東本願寺)の大工の棟梁であった柴田新八郎貞英により釿始(起工式)が執り行われましたが、同8年本山の火災復興のため帰京しました。

副棟梁の地元井波の大工、松井角平恒徳が引継ぎ、文化6年(1806)に上棟式を行い見事に山門を完成させました。

総檜の重層入母屋造り(重要文化財)。楼上には釈迦三尊の木像を安置しています。


本堂


明治18年(1885)に再建され、間口25間(46m)、奥行23,5間(43m)総面積約590坪(1,950㎡)、単層入母屋造りの北陸随一の大伽藍です。

本尊は阿弥陀如来、両脇壇には宗祖親鸞聖人御影と先門首御影を安置しています。


太子堂


大正7年(1918)に井波彫刻の粋を集めて再建されました。約16間(29m)四面、総面積255坪(840㎡)の重層伽藍。内陣中央に後小松天皇より開基婥如上人に下賜された聖徳太子二歳の尊像、両脇壇には開基綽如如上人御影と瑞泉寺前住職御影を安置。

毎年7月21日から29日まで行われる恒例の太子伝会は、八幅の御絵伝に描かれた聖徳太子のご一生を絵解きされる、全国でも稀な仏事です。


宝物殿

貴重な品々が展示されています。

昭和41年(1966)に造られました。面積50坪(165㎡)の六角の建物です。瑞泉寺の持つ数々の寺宝を展示してあります。一見の価値あり!


瑞泉会館

昭和9年(1934)に建立の総檜造りの建物です。階下には寺務所・会議室・客室などがあり、階上講堂は昭和初期のモダンな建築として、広く一般催事に利用されています。


式台門(勅使門 菊の門)

寛政4年(1792)に建てられ、2005年の大法要で200年の状態に復元されました。
門の両脇には、井波彫刻の元祖番匠屋七左衛門作の「獅子の子落し」の彫刻などがあります。


虎之間

身の丈程もある虎の掛け軸(上)

虎の間は明治12年の大火直後、放生津(射水市新湊地域)の同行衆が仮御堂として建設したといわれ、内部には虎の掛け軸が置かれています。天井は一部格天井と彫刻が拝され仮御堂であった雰囲気を残しています。


高岡門

高岡門は、昭和5年(1930)に現高岡市周辺の同行衆の募財により現在の姿となりました。ここをくぐると荘厳な大門(山門)が来訪者を迎えてくれます。


鐘楼堂

昭和8年(1933)に再建。大梵鐘は口径4.1尺(124cm)重さ900貫(3,372kg)で北陸随一です。
本堂・太子堂・山門と共に、井波大工の代表的建造物として名高く、北陸随一の大きさを誇ります。


太鼓堂

太鼓楼は天保13年(1842)に再建された桁行5,1㍍・梁間4,6㍍一重入母屋造りです。時刻を告げるため太鼓を鳴らしていたといわれています。瑞泉寺11代浪化が、この堂を司晨楼と名づけたといわれ瑞泉寺におられた本願寺8代蓮如上人を訪ねて、篤信者の赤尾の道宗の到着を待ちわびて、正月の修正会の時、鐘と太鼓を同時打ちしたという由も残っています。


台所門

台所門と呼ばれる長屋門で桁行19,4㍍・梁間4,8㍍あり、以前は瓦葺きで、壁面はなまこ壁があり、さらに横にある太鼓楼に連接していましたが、平成21年に行われた復元工事では銅板葺き(創建当時のこけら葺きに戻すことが可能な形で)・壁には杉板貼りという姿に戻っております。


後小松天皇廟

大正15年(昭和元 1926)に砺波の相撲講の募財で建立されもので、碑文題字は彰如上人の筆です。

後小松天皇とは、第三代足利将軍義満の室町時代北朝最後の第六代の天皇であり、歴代第100代の天皇になります。


行事

定例法話 毎月24日・28日

1月 1〜3日 修正会 / 献杯式

2月 15日 22日 涅槃会 聖徳太子御祥月法要

3月 17〜23日 春彼岸会

4月 中旬 22〜24日 花まつり 綽如上人御忌法要

5月 上旬 藤の茶会

7月 21日〜29日 太子伝会

8月 1日〜5月 14〜16日 暁天講座 盂蘭盆会

9月 1日 20〜26日 二百十日太子伝会 秋彼岸会

10月 1〜3日 24日 宗祖親鸞聖人報恩講 綽如上人杉谷法要

11月 26〜28日 御正当法要

12月 31日 除夜の鐘


修正会・献杯式(1月)

瑞泉寺では大晦日に除夜の鐘が撞き終わりますと、お餅とお酒を宗祖親鸞聖人にお供えし、献杯式がおごそかに執り行われます。引き続き正月元日に新たな年を迎えたお勤めが行われます。 【道宗打ち】・・・太鼓堂にある太鼓と梵鐘との同時打ちが行われます。これは、雪の山道を越えて待ちわびる蓮如上人の許に、上人のお弟子だった赤尾の道宗が到着したという伝承にちなんだといわれております。 続いて本堂から太子堂へ移動し、聖徳太子の誕生会が行われます。


涅槃会(2月)

涅槃会は二月十五日釈尊の入滅の日に、その遺徳の追慕と報恩のために行われる法要です。
山門楼上釈迦三尊でのお勤め後、太子堂で勤行と法話があり、続いてお参りされた方々に向けて、四色の涅槃団子が撒かれます。


春彼岸会(3月)

彼岸会は江戸時代に広く年中行事化し、寺や墓参りの慣習が生じたと考えらます。
瑞泉寺では、春分・秋分の日をはさむ七日間、午後からお勤めが行われます。


綽如上人御忌法要(4月)

瑞泉寺の開基である綽如上人のご命日にあわせて、4月22日から24日まで執り行われる法要です。太子伝会、報恩講に並ぶ別院の三大法要です。


太子伝会(7月)

井波別院瑞泉寺の伝統演説である「太子伝会」は、西暦1710年頃に始まったと伝えられています。聖徳太子のご一生が描かれている御絵伝を元に、絵解き説教がお取り次ぎされ、「聖徳太子二才像」のご開扉が行われます。期間中には特別宝物展・お茶会・生花展などが催されています。

また、この太子伝会の期間に合わせて、「いなみ太子伝観光祭」が開催されます(金〜日曜日)。別院内や街中において、木遣り町流しや模擬店、氷の彫刻といったイベントが行われます。


二百十日太子伝会(9月)

立秋から数えて二百十日目は、古くから台風などで天気の荒れやすい日とされています。
瑞泉寺では、1日だけの太子伝会にて、絵解き説教と太子二歳像のご開扉を通し、我が身の日常生活を見直していただく機縁としています。

彼岸会

彼岸会は江戸時代に広く年中行事化し、寺や墓参りの慣習が生じたと考えらます。
瑞泉寺では、春分・秋分の日をはさむ七日間、午後からお勤めが行われます。


宗祖親鸞聖人報恩講(10月)

親鸞聖人のご命日を機縁とする法要で、真宗の門徒にとってはもっとも重要な行事です。別院では毎年十月一日午後の初逮夜から三日結願日中まで法要が行われ、その間ご法話や、「御伝鈔」の拝読、また帰敬式(おかみそり)が執行されます。


開基綽如上人お里帰り法要(10月)

綽如上人がご草庵を開かれた杉谷の地に、上人のご木像をお迎えして行われる法要です。現在は諸般の事情より、瑞泉寺両堂にて行われております。


略年表

1350(正平5年・観応元年) 本願寺五代綽如上人誕生

1384(至徳元年) 綽如上人、譲り状を記して越中へ赴く

1390(明徳元年) 綽如上人、勧進状を認め瑞泉寺建立に着手

1393(明徳4年) 綽如上人没

1436(永享8年)以降 二代如乗(巧如上人の子息、本願寺八代蓮如上人の叔父)を瑞泉寺へ派遣

1460(寛正元年)以降 蓮如上人二男蓮乗(永正元年没)を瑞泉寺三代住持とする

1469(文明元年) 瑞泉寺蓮乗に親鸞聖人絵像下付される

1481(文明13年) 瑞泉寺ほか門徒衆、石黒氏・惣海寺衆と田屋川原で合戦(砺波郡一向一揆)

1506(安永3年) 一揆衆、越後長尾能景を般若野で破る

1542(天文11年) これ以降、瑞泉寺(川上衆) 勝興寺(越中衆)の与力体制が定着する

1581(天正9年) 佐々成政の破却にあい、北野へ移転

1585(天正13年) 豊臣秀吉が北野瑞泉寺へ「禁制」を与える

1591(天正19年) 瑞泉寺、前田家から井波への屋敷替え許可を受ける

1596(慶長元年) 竹部屋敷跡に九間四面仮本堂建築

1605(慶長10年) 加賀藩の検地により瑞泉寺屋敷地が与えられる

1613(慶長18年) 北野より井波に戻り、屋敷地に仮本堂を移転

1619(元和5年) 瑞泉寺屋敷地検地。上田権助と境相論

1642(寛永19年) 瑞泉寺御堂の再建開始

1649(慶安2年) 十代宣良の時、西から東へ転派。教如上人の真影を下付される以後、城端別院善徳寺とともに触頭として隔月で任に当たる

1658(万治2年) 十四間四面の御堂、一八年がかりで完成

1694(元禄7年) 十一代常照(浪化)上人、向井去来の紹介で芭蕉の直弟子となる。山門再建

1713(正徳3年) 御坊となる

1716(享保)前後 十二代真照(桃化)、太子の絵解き始める

1738(元文3年) 鐘楼完成

1763(宝暦12年) 町屋出火、土蔵を残し瑞泉寺焼失

1774(安永3年) 十七間四面の本堂完成、 翌年九月一二日遷仏式行われる

1785(天明5年) 山門釿始

1791(寛政3年) 鐘楼完成

1792(寛政4年) 式台門(勅使門・菊の門)完成

1847(弘化4年) 太子堂完成

1809(文化6年) 山門上棟式

1808(文化7年) 山門天井絵、岸派絵師森間材により描かれる。

1821(文政4年) 大廊壁完成

1843(天保14年) 太子堂建立のための太子講会を挙行、講札発行

1847(弘化4年) 太子堂完成

1863(文久3年) 銃卒方稽古所を瑞泉寺内に設置

1873(明治6年) 太子絵伝等天皇に上覧

1876(明治9年) 大谷派別格別院となる

1879(明治12年) 寺内より出火、山門等を残し焼失

1885(明治18年)  本堂完成

1907(明治40年) 派内の学者を集め講演を実施。

1911(明治44年) 太子堂起工式

1918(大正7年) 太子堂完成

1927(昭和2年) 聖徳保育園を開設

1934(昭和9年) 後小松天皇五〇〇回忌法要記念として瑞泉会館完成


井波彫刻・日本遺産の見どころ地図

井波町

平野部



編集終えて…

さて、この度の井波彫刻のシリーズは如何でしたか?
彫刻技術も凄いですが、あの躍動的な浮彫紋様はどうすれば、あの複雑怪奇な(失礼‼)いや、絢爛華麗というべきデザインが発想し得るのか?

最近、俄に若い女性の間で縄文ブームが起きていると聞いておりますが、あの火焔土器のエネルギーたるや、岡本太郎氏をして、「何だ!これは〜」 と言わしめた、魂の根源から沸き上がるイマジネーションのなせる技!その遠い祖先の遺伝子に繋がる何かが流れているにちがいありません。

南砺市制作のオリジナルマップを参考に各地域の施設を訪ね、是非体験してみて下さい。
ハマるでしょうね…きっと!
南砺市、井波の町、そこで暮らす人々、伝統を活かした手工芸の井波彫刻をはじめとする衣食住の文化や、自然の素晴らしさにあなたもきっと感動するに違いありません請合いです。


鎹八咫烏 記
伊勢「斎王」の明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

真宗大谷派井波別院瑞泉寺 〒932-0211富山県南砺市井波3050 Tel: 0763-82-0004

井波彫刻協同組合 〒932-0226 富山県南砺市(井波)北川733Tel(0763)82-5179

南砺市役所 ブランド戦略部 文化・世界遺産課
〒939-1596 富山県南砺市苗島4880番地 TEL:0763-23-2014

(一社)南砺市観光協会 〒939-1842南砺市野田1058-1 TEL 0763-62-1201

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話(代表)03(5253)4111


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。


参考

井波では井波彫刻の匠を養成しています!

職業訓練法人 井波彫刻工芸協会

井波木彫刻工芸高等職業訓練校


伝統ある井波彫刻の発展、技術の継承のため、戦後間もない昭和22年に創設され、今日まで60年の歴史を持つ、日本で唯一の木彫刻だけの職業訓練校です。

訓練の種類は、「日々は親方の元(職場)で、指導を受けながらの分散訓練(応用実技)と、訓練校において「井波彫刻に必要な知識・技能修得のための実技のセミナー」とあわせて5年間で修了します。 入校資格は、25歳ぐらいまでで男女は問いませんが、井波彫刻師になりたいという強い意志があれば、県外出身者でも受け入れ可能です。


技と伝統を誇る井波木彫刻技術・技能の基礎訓練及び創造力開拓を目指す

◇訓練課程 短期

◇訓練科目 木材工芸科

◇訓練内容
・普通課程(休止中)は、日々は親方(事業主)の元(職場)で指導を受けながら分散訓練(応用実技)と、週に一回訓練校において基礎学科と基礎実技を学ぶ集合訓練を行う。
・短期課程は、井波彫刻に必要な知識・技能習得のための実技のセミナー

【入校資格及び終了後の特典】

・中卒(15歳)以上25歳まで。井波彫刻師になりたいという強い意志さえあれば、県外出身の方の受入は可能です。

・富山県井波木彫刻技能審査の受験資格において経験年数の短縮となる。

・訓練終了時の技能照査合格者は、富山県井波木彫刻技能審査受験時、学科試験が免除となる。

【訓練科目及び定員】

◇普通課程 工芸系木材工芸科
(休止中) 期間:3年 定員:各20名

◇短期課程 5コース
延時間:各16~32時間


【主な年間行事】

4月 入校式・特別講義
6月 県展見学
9月 スケッチ旅行
11月 訓練校展(創遊館)
2月 進級・卒業試験
3月 修了式

【入校規定】

第一条 [目的] この規定は、井波木彫刻工芸高等職業訓練の入校等に関し、必要な事項を定めるものとする。

第二条 [訓練方法] 学科及び関連実技は井波木彫刻工芸高等職業訓練校において集合訓練し、木彫刻の実習については、それぞれの事業所において訓練する。

●普通課程(休止中)としての訓練期間を3ヵ年とする。(休止中)

●短期課程としての訓練期間は2ヵ年とする。

第三条 [入校資格] 下記の者については、訓練校の入校を認めない。

●厚生事業主以外の入門生。

●その他、悪質なる目的または行為のある者。

第四条 [出願手続き] 入校希望者は、下記に定める書類を所定の期日までに訓練校へ提出しなければならない。

●入校申込書

●履歴書

●写真一枚

第五条 [進級・終了]

●普通課程(休止中)及び短期課程には、年1回の試験を実施する。

●普通課程(休止中)には修了時に技能照査を行い、その成績により合格証明書を交付する。

●普通課程(休止中)には修了証を交付する。

●短期課程にはその成績により認定証を交付する。

第六条 [訓練生心得] 訓練生としての心得は別に定める。

第七条 [細則] この規定に定めるもののほか、必要な事項は別に定める。


沿革

昭和22年4月 (1947) 井波木彫刻技能者養成所開設

昭和26年9月 (1951) 県の指導を受け富山県木彫刻職業訓練所に改める。

昭和33年7月 (1958) 職業訓練法の制定により富山県認定職業訓練所となる。

昭和35年 (1960) 技能者養成の模範として県知事賞を受賞

昭和42年 (1967) 富山県事業内職業訓練所のモデル指定

昭和45年4月 (1970) 職業訓練法の改正により富山県木彫刻工芸高等職業訓練校に改める。

昭和48年 (1973) 技術育成に秀れ県知事賞を受賞

昭和49年 (1974) 優良訓練校労働大臣賞受賞

昭和51年 (1976) 全国職業訓練展に入選 労働大臣賞を受ける。

昭和52年5月 (1977) 職業訓練法人井波彫刻工芸協会 井波彫刻工芸高等職業訓練校に改める。

昭和54年3月 (1979) 新校舎竣工


井波彫刻の匠にご興味のおありの方は下記にご連絡ください。

お問い合わせ先

職業訓練法人 井波彫刻工芸協会

井波木彫刻工芸高等職業訓練校

〒932-0211 富山県南砺市井波700-111 TEL(0763)82-0196 FAX(0763)82-6648

開校年月:昭和33年4月

構成団体:職業訓練法人 井波彫刻工芸協会