10月22日 佐渡市[佐和田→小木(たらい舟)→宿根木集落→佐渡博物館→両津地区](91km)②
たらい舟に乗船した小木港は、江戸から明治にかけて北前船の寄港地として栄え、お隣の宿根木港の集落と共に、「荒波を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」として、文化庁が「日本遺産」に認定している。
ということで、次は いよいよ本命、ここから5kmほど西に行った 国の重要伝統的建造物群保存地区 宿根木港の集落のある、宿根木港へと向かう。
宿根木は、13世紀中頃に佐渡の地頭であった本間氏の出城が築かれ、廻船業を営む人々の移住が始まり、北前船の寄港地としても栄えた港町であった。
しかし、江戸時代に入ると、小木港が江戸幕府によって整備され、新たな北前船の寄港地となり、商業の中心が小木港へ移行してしまう。
そこで、宿根木の船主は自ら先頭となり、十数人の船乗りと共に全国各地へ乗り出して商いを続け、それと同時に、宿根木は船大工などを中心とする北前船の基地として発展していく道を選ぶ。
江戸時代後期の1841年には、120世帯570人、船主9戸、船頭3戸、船員27戸、船大工13戸で、13艘の船を所有。
ほかにも、四十物屋、桶屋、紺屋、鍛冶屋、石屋といった様々な職業人が集まり発展していった。
この時代の集落形態が、今日見られる宿根木集落の町並みを形作っていったという。
さらに、明治維新後は松前藩の入港制限が撤廃され、蝦夷地との往来が盛んになったことで航海回数が増え、さらに多くの廻船業に携わる多くの人々が居住するようになり、多いときには40人もの船大工が暮らしていた。
また北前船では、春先に越後の米を西廻りで大坂へと運び、大坂では塩や雑貨を仕入れ、秋に蝦夷地の松前・江差で販売。蝦夷地では昆布を仕入れるという、こうした多くの寄港地で売買を繰り返す「買い積み方法」によって、この「動く商店」は、一航海で現在の1億円にのぼる利益を生み出し、全盛期には佐渡の富の3分の1が宿根木に集まったといわれている。
ところが、明治後期になると、蒸気船や鉄道の発展、和船建造禁止によって宿根木は徐々に衰退し、住民の多くは海を離れ、この集落を後にした。
現在、約60戸180人ほどが半農半漁の生活を営みながら、この集落で暮らしているそうである。
さて、車は集落の入り口に到着。
付近の駐車場は満杯で、係員の男性に、道路を挟んで下った所にある海沿いの場所に誘導される。
この場所は、大浜と呼ばれる広場で、駐車場の先は入り江になっている。
ここは北前船の荷揚げ場であった港であり、かつては北前船も寄港していたとのことだが、それにしては随分と小さい入り江に思える。なんでも、1802年の小木地震により、このあたりは1m隆起してしまったとのこと。それまでは、全く違った光景が広がっていたことになる。
入江には、安永5年(1776)頃に立てられたという7本の「船つなぎ石(地元では『シロボウズ』と呼ぶ)」が点在しており、かつての面影を残している。
これは、石橋や石鳥居と同じく瀬戸内海から運ばれてきた御影石で造られている。
この入り江でも「たらい舟」に乗れるらしく、おじさんが「夕陽がきれいだよ〜」と勧誘してきた。
なんでも、小木港とは違って全く波がなく、ライフジャケットを着用して潜望鏡を使って水中を見せてくれるとのこと。
残念ながら、「たらい舟」は一足先に小木港で体験してしまったので、ここでは見送らせて頂いたが、夕陽をバックにたらい舟というのは、なかなか魅力的だった。
そして、お目当ての伝統的建造物群へと足を進める。
集落の入り口には「世捨小路」という物哀しい名前の標札があり、前方の狭い路地へと延びている。
この光景は、中国の蘇州近郊の周荘や、黄山周辺の桃源郷・西递村の風景を思い起こさせる。
外観はこげ茶色の縦板張りで統一。用いられている板や釘は船材を再利用。屋根は木羽(こば)と呼ばれる薄く割った木の板を敷き、石で押さえた石置木羽葺屋根が伝統的な家屋だ。
ここには、約1ヘクタールの土地に110棟の建造物を配置する高密度で、家屋が肩を寄せ合う。
庭や塀を持つ家が少なく、総二階建ての主屋や納屋を敷地いっぱいに建てて、小路と呼ばれる路地や水路と接している。
小路の大半は海に向かっており、我々が車を停めた大浜に出るようになっている。
宿根木には七軒の船主の家が存在する。いずれも外観こそ簡素で一般の家屋と大差がないものの、その内部は良材をふんだんに用い、漆や弁柄、柿渋などを塗った、大変に豪壮なものとなっているそうだ。
この集落では珍しい洋館は、大正10年に、廻船業で財を成した石塚氏が建てた郵便局。
特徴のある間口を持つ家には、綺麗に花が飾られている。
水路には清涼な水が流れており、今でも野菜を洗ったりするのに使われているらしい。
今日は天気が良く、水の流れが目に心地よい。
土蔵を持つ家も多いが、漆喰を潮風から守るため覆屋の中にあり、一見すると普通の家屋のようである。
路地の一番奥にあるのは称光寺。
そこから裏手にある急な階段路を上がっていくと、来るときに前を通った佐渡国小木民俗博物館の近くに出た。
ここは、旧小木小学校校舎を博物館としたもので、江戸時代の北前船に用いられた千石船を再現した「千石船展示館」が目玉となっている。
まずは、恒例のビデオ観賞「北前船の歴史」から。
北前船とは、江戸時代に北海道から日本海の酒田、能登を経由し、下関から瀬戸内海を大阪まで結んだ航路のこと。ここ宿根木は、北前船の寄港地として大いに栄えた。
また、宿根木では造船も盛んに行われ、ここで造られていた千石船は700石以下の中型船。
船の積載量に基づき呼称されるいわゆる「千石船」は、1石を150kgとして、150トンの積載量を持つ船を指す。ここに展示される船は約500石の積載量であり、厳密には「千石船」とは言えないが、千石船という呼称は「巨大な北前船の輸送船」の意味で使われている、ということだ。
次は、千石船の建造過程について。
9ヶ月をかけたこの船の再現過程はまさに職人技であり、豪快かつ繊細な作業に息を飲む。
そして、実際に再現された千石船に乗り込んでみる。船荷を積み込む船底は思ったほど広くはない印象。
大きな御影石がデンと置かれているが、これは155畳に及ぶ帆を掲げる船体のバランスをとるため、船全体の重心を下げる目的がある。
これだけの巨船を操作するのだから、船の後部に突き出す舵も立派なものだ。巨木の丸太を削り、補強して作られている。
突き出す部分から海水が入ってきそうなものだが、船体の黒い部分あたりが水面となるらしく、その辺は大丈夫らしい。
船内には畳敷きの小さな「船頭部屋」があり、船箪笥が鎮座している。港での取引や非常時には、貴重品をしまったこの船箪笥を真っ先に持ち出すのだろう。
また、安全を祈願し寄港地の神社に奉納された船の模型や船絵馬も展示されている。
千石船展示館だけで結構満足してしまったが、次に別室にある民俗資料を展示するコーナーを見る。
旧小学校校舎の各教室に、衣服や信仰、人形や陶磁器など分かれて展示されているのだが、その量たるや物凄い。これだけで骨董屋が優に数十軒開けるのではないか。
面白かったのは、身体の悪いところを人形にして、治癒を願って神社に奉納したもの。
この校舎の裏には新館があり、そこには漁具を中心にした更に多くの展示品があった。ここまで集めた関係者の執念のようなものを感じる。
期待以上だった民俗博物館を出て、丘を下り、ぎっちり詰まった家並みを見下ろしながら、先ほど辿ってきた道を戻る。
先程気づかなかった吉永小百合のポスターの撮影場所で、これまた恒例の記念撮影。あとで見ると顔の方向が逆だった。
路地の出口あたりには、「ちとちんとん」という踊りの説明がある。
「ちとちん」とは「金精棒」、つまり男性器を指す。面を被った男女が「ちとちん」を中心にして踊るという、なかなかユーモラスなものであったので、記念に残す。