徐福伝承蓬莱の国・徐福と高天原伝説の国
http://xufu.sakura.ne.jp/2015.01.21maeda1.pdf 【神奈川徐福研究会東海地方・東三河の徐福伝承蓬莱の国・徐福と高天原伝説の国】 より
発想のきっかけ
1.牛川原人の碑
2.三角断面形状の石巻山:「神山」と呼ばれていた。
3.秋田県大湯の黒又山(クロマンタ)環太平洋ピラミッド文明の要素「ピラミッド」
その存在形態は、断面形状が三角形のピラミッド状で 頂上に祭祀用の磐座を有し、周囲に遥拝所である神社や祭祀場をもつ。
4.石巻山:三角断面形状で、環状配置の神社群を有したピラミッドと呼ぶに相応しいものである。→この地に隠された歴史がある!
石巻山ピラミッド説:謎の古代史発見の入口
1.秦の始皇帝を欺き、蓬莱の島に大船団を組んで船出した「徐福」の子孫の定住地伝承
→ 牛川稲荷神社、保福大神
2.持統上皇が崩御直前に1月を上回る期間、三河に御幸。
3.記紀(古事記・日本書紀)神話の舞台→アカイコ伝説、高天原、出雲
→「古代神都・東三河」(1996.4)
「倭国の真相」(1997.1)
東海の三神山
石巻山 本宮山 鳳来寺山
東三河は古代に繋がる神都・蓬莱国か
1.三河一宮・砥鹿神社・本宮山:「神の始めの神」と称される大元祖の神が住んだ神山との伝承。
2.鳳来町・鳳来寺山:鳳来寺の主仏は、薬師如来、神農、大国主。
古代中国の地誌文献「山海経」にも触れられた鳳凰の飛び交う「扶桑の国」、不老不死の霊薬の育つ仙人の住む「蓬莱の国」。中国伝説の蓬莱山を思わせる奇山(鳳来寺山-自然と文化)
3.東海の3神山に比定できる石巻山・本宮山・鳳来寺山が存在する紀元前6世紀生まれの孔子が行きたいといった東海の君子国、
3神山がある蓬莱の国の条件を全て満足している。
日本神話(記紀神話)の舞台
1.新城市大宮・大ノ木遺跡:石棒を含む非常に特殊な祭祀場が発見されている。
上質のひすい(糸魚川産)の飾りもの発見
2.石座(いわくら)神社:天御中主神と天稚比古尊(皇大神ともいわれている)を祭神とする。
3種の神器に相当する鏡・剣・まがたまの首飾りが保管されている。
3.高天原の営田(天照大神が高天原で五穀を栽培し始めたといわれる良田)が地名として存在する。
安田、長田、京田など、天サカルムカツヒメ( 天照大神)の住居田高原という地があって、天野姓の家が多数存在。
存在した古代東ヤマト
1.八名郡賀茂町に天忍日命を祭る大伴神社が存在天忍日命は、久米軍団を率いて、ヤマトの国を形成。忍日命は道臣命とも倭宿祢とも呼ばれた。
2.ヤマトの宿祢に由来の地:宝飯郡・豊津
3.海部氏勘注系図で、倭宿祢は神武天皇の役割石巻神社の祭神は、神武天皇の兄のサビヒコ命
4.豊川市の国府・久保神社の境内社は大和神社。
5.浜松東北の笠井町に式内若倭神社、倭下林など。
6.天竜川沿いには、東大和が存在したとの伝承
7.諏訪大社下社千尋池のいわれ:遠州浜松近くの海に続き、神楽歌に「諏訪の海、大和の浜よりよする波、千尋の池に重(しき)の浪立つ」という。
8.ホツマ伝:古代ヤマトは、伊勢から東海・関東にまたがり存在した。
考古学からみた東海地方
1.弥生時代の水田稲作技術の伝達
弥生時代初期、九州から尾張まで一気に広がったが、三河を境に、東国に広がるのは、数十年遅れた。
2.縄文系と渡来系の対峙
「突帯文土器の系譜を引く樫王式・水神平式土器が分布する三河の地域に、縄文系と渡来系の対峙する関係が存在した。「日本人のはるかなる旅⑤」)
3.三河の条痕文側から遠賀川側への一方的な交流
東海以東への遠賀川様式の拡散については、関東や中部高地では、交流の通過点である三河地域で縄文スタイルが固持された結果、接触の機会は少ない。
むしろ、三河の集団が、関東や中部高地へと広く影響を及ぼす。
4.三河の土器は拡がりたがる
三河の土器が日本の各地に出現。「東海学の創造をめざして」森浩一編
5.奈良ヤマト三輪山の麓の巻向遺跡近辺
東海地方の土器がもっとも多い。また、同地の前方後円墳と混じって、初期の古墳として、東海地方の前方後方墓が存在している。
邪馬台国時代から初期大和王権の誕生に至る過程において、東海地域が大きく関与している!「遺跡からのメッセージ」赤塚次郎
徐福と不二高天原の謎・徐福伝説とは
1.東三河には秦の徐福の定着地との伝承がある。
「徐福」東渡で、到着した地と言われる場所は、日本の各地にあるが、「本当に定着した地」は、決着していない。
「富士古文献」に記載されるところでは、「徐福」が目指した地は「トヨアシハラミズホの国」であり、「ホウライ」と呼ばれていた。
2.東三河は古代「ホの国」ホウライ(鳳来)
鳳来寺山は、古代の火山で、数千メートルの高さをもつ巨大な「不二山」であったと言われる。 東三河は、この不二山の南山麓に位置する。
そして、富士王宮と呼ばれたところが、豊橋市に3箇所(賀茂神社、浅間神社、椙本神社)確認された。つまり、東三河は、まぼろしの「富士王朝」と関係があるようだ。
3.牛窪記に徐福子孫の記述
鳳来寺山の少し南の「本宮山」の麓には、紀州「古座」から移り住んだ徐福の子孫が繁栄し、秦氏を名乗っていたとの伝承がある。そして、その子孫は全て、三河に居住していた、とのことである。現在の三河に「秦の氏名」は少ないが、羽田氏姓が住まわれている。
東三河・遠州は、「徐福」の求めてきた「平原広沢の地」の可能性が高い
富士古文献
1.秦始皇帝時代の方士「徐福」とは
徐福は、始皇帝の命により不老長生の霊薬を求めて東海の3神山に向けて船出したという。百工、童男童女を含む3000人を乗せた85隻の大船団は、弥生時代の日本を目指した先進文明を伝える福の神の一行であった。
2.徐福東渡の目的地
その徐福一行が目指したところは、蓬莱、方丈、えい州と呼ばれる蓬莱の国・3神山の地である。蓬莱がどこにあったかは、各種異論があり、台湾、韓国、日本、はたまたアメリカ大陸という説まである。
3.徐福の伝承・遺跡
中国、韓国、日本には徐福伝説が多数散在しており、徐福の歴史的実在性は、疑えないものになってきている。
徐福の伝説の存在する地は、日本に数十個所もあり、中には紀伊半島熊野や、富士山北麓吉田のように、徐福の墓と呼ばれるものまでが残っている。
徐福は、世界の大元祖の国・蓬莱を目指して渡来し、平原、広沢を見つけてそこに、王となって留まったという。そして、その地は、不二高天原・豊葦原瑞穂の国と呼ばれたという。
富士古文献の由来
1.富士古文献「宮下文書」は、阿祖山大神宮(富士太神宮)の宮司を代々務めてきた宮下家に保存されていたためこの名がある。 天竺真郡国から渡来した神皇農作比古神が富士山に高天原朝を開いたという伝承に始まる。ウガヤ朝になって九州霧島に移行し、51代の天皇が続いた後、神武天皇の神倭朝になったという内容である。
2.「徐福文献」といわれるのは、木片や石面などに神代文字で記されていた文書を、不老不死の霊薬を求めて富士に渡来した徐福が、この史伝に注目し、漢字に書き直したという伝承によるものである。
3.「寒川文書」とも呼ばれる延歴19年(800年)4月、富士山が大爆発を起こし、噴火が35日も続いたことがあった。この大噴火は「日本紀略」にも記されているが、伝承によると高天原は壊滅し、阿祖山大神宮も消失した。そこで、神宮関係者は、相模国に移住し、相模川の河口近くの高座郡に、高天原を流れていた川の名にちなんで寒川神社を創建し、伝来の文書を保管したという。このため「寒川文書」なる名称が付けられたという。
寒川神社は、弘安5年(1282)に起こった大洪水のため、社屋が流出するという被害をこうむり、文書も消失した。しかしその内容は、宮下源太夫が筆写したために残存した。
富士古文献の内容
1.東海の蓬莱山
徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。やがてその姿を見失い、海上をさまよい、陸地と大きな山をみつけ、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。船上で遥拝した霊山とは違い、上陸した処は木日国(紀伊国)木立野の大山であった。
2.富士山は蓬莱山?
一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。
3.徐福の止住地
徐福は一族とともに富士山麓の地に止まり、一行全員を大室、中室、小室に分散居住させて、専門分野ごとに、開墾、農作、製紙、機織り、養蚕などを行う。
4.徐福の墓
徐福が死んだのは、孝元天皇7年(前208)の2月8日、場所は富士中室。遺体は中室の麻呂山に埋葬されたが、相次ぐ富士山の噴火によって、多くの遺跡とともに埋没してしまった。富士吉田市の太神社に徐福の墓がある。
富士古文献の内容解釈への批判
1.富士山北麓に徐福関連の史跡
確かな史跡はなく、宮下文書の記述の信憑性が少ない。
2.火山噴火の影響の研究
延暦の噴火によって天都を焼いたとされる溶岩は、寄生火山から噴出した剣丸尾(けんまるび)ではないかといわれている。この溶岩は標高2900メートルの山腹割れ目から流れ出して、スバルライン2合目と丸山との間を流下し、富士急ハイランドの敷地を経て、下吉田の赤坂で止まっている。
その溶岩下から縄文式土器や古銭が出土しているので、かなり長期にわたる人間の居住が確かめられたが、町田洋氏はこの丸尾を延暦または貞観の噴火の産物ではないかと推定している。しかし、その流れは帯状に長く、青木ケ原を埋めた溶岩のような広大さはないので、天都絶滅説は怪しくなるのである。
3.地質学者にとっては、
かつての帝都の存在「高天原伝説」は語る必要もない「異次元の世界」なのであった。ただ、「高天原伝説」を夢として語るならば、壮大でこの上なくすぐれた叙事詩であり、文学の世界での存在価値があるという。だからこそ「幻の帝都富士山高天原」でもある、という。→ 富士古文献は、富士山北麓の史実を表しているのではなく、場所の設定が間違っている。それは、宮下文書に出てくる地名を共有する他の地域にある。→東海の3神山の地、東三河から奥三河の地
蓬莱とは鳳来のことか-山田久延彦氏
1.「東海の蓬莱山」は「愛知県鳳来町の山々だ」
「古事記」研究者・山田久延彦氏は、「真説古事記Ⅳ」の中で、徐福伝説について述べ、出雲は東海地方にあったという説あり。
2.徐福は東海の蓬莱山を探して、現在の富士山に!
徐福は約五百人の部下を連れて中国の港を出航し、南九州に到達した。そして、海
岸線伝いに東に向かい、和歌山県新宮に到達し、その地に上陸し、根拠地を築いた。
また東海の蓬莱山という道教の言い伝えをたよりに、富士山麓に到った。
3.富士山で秘薬を発見できず
不老不死の秘薬を探しまわったが、ついに発見することができず、かつて、富士の山
麓には壮大な都市と神殿があり、人々は楽園のような生活をしていた。たび重なる富
士山の噴火により、その古代文明は滅亡し、深く溶岩の下に埋もれた、と記載。
4.三河山中に古代文明遺跡を発見!
徐福は、”東海の蓬莱山”を東海地方の蓬莱山=富士山と考えたが、日本には蓬莱と名のつく山はたくさんある。”蓬莱”とは、本来は”鳳来”と書くべきで、鳳(おおとり)すなわち天の鳥船が天降ってくるところという意味なのである。
”史記”に記された蓬莱が鳳来であるならば、東海の蓬莱山とは富士山ではなく、東海地方のほぼ中心にある鳳来町の山々だと考えられる。
鳳来寺山と世界文明
1.山田久延彦氏の日本の古代文明に対する意見
高度な文明が日本に存在し、それが中国に伝えられたと中国道教。
2.楢崎皐月の説
楢崎皐月が満州・吉林の製鉄技研の所長であった頃、中国の道師・芦有山 から道教に伝えられている秘伝のいくつかを聞いた。
1)「日本には八鏡文字( 八尺の鏡の文字) があった」という言い伝え。2)「中
国の哲学や医学は、神農氏などによって、日本の上古代の文化が伝えられ、派生し
たものである」。
3.東海の蓬莱とは須弥蓬莱
徐福の撰録したといわれる宮下文書の歴代天皇記の中に、第15代”天之神農氏神・諱農作比古”天皇がいる。 この農作比古神は、天竺真郡の州から天降って、須弥の蓬莱国を統治したと記されている。徐福の探し求めた東海の蓬莱とは、須弥の蓬莱のことだったのである。
4.楢崎皐月と宮下文書
楢崎皐月が中国で聞いてきたことと、宮下文書の記述は、あまりに一致しており、また両者の間で、情報交流が起こり得なかった背景からみて、これらのことはすべて真実であると解釈する他はない。
鳳来寺山と宮下文書の共鳴
1)蓬莱と考えるべき鳳来寺山の薬師堂「薬師如来と、神農、大国主」の3体の木像が保管されているという。
2)子守神社の御祭神は国狭槌命
鳳来寺山の上り口・門谷の渓谷西辺の子守神社の御祭神は「国狭槌尊」である。
3)国狭槌尊は、先行した国常立尊を追って海路で蓬莱の国を目指した。
佐渡島、富山、若狭、丹波、播磨を巡って、再び北陸地方に戻り、飛騨から美濃、尾張、三河を通って、ついに蓬莱に到着。立ち寄ったところをスルガといい、湧き水があって、食料が豊富であった。更に行くとおお海があり、カキ津の小室に留まり、そこを拠点として国を治めた。(スルガは高山の南麓=天国を意味する)
湯あり、湧き水あり、絶好の地である。国狭槌尊らは、この地を雅に称して高天原と呼んだ。この辺りを阿祖谷といい、住んだ処を小室とも言った。
4)国常立尊と国狭槌尊は日本を、東西二つに分けて統治
国常立尊は、丹後の桑田に移り西国を治め、国狭槌尊は、高天原と東国を治めた。
5)日本神話の神々
これらの皇祖神から代を経て、いざなぎ・いざなみ神が生まれ、更に、天照大神、月読神、スサノオ神が生まれる。天照大神の孫神のニニギ尊から、ヒコホホデミ尊、ウガヤフキアエズ尊を経て、神武天皇という初代天皇家につながって行く。
富士古文献の高天原を東三河の地に比定
1.富士古文献記載の高天原の阿祖谷
「あそ」は、阿祖や浅間とか阿蘇とか記されることがあるが、「阿蘇」は、噴火口を意味する(楢崎皐月氏の解釈)。あそ谷は、火山に関係した地の谷として解釈できる。富士山の麓の谷々もあそ谷と呼んで差し支えないであろうが、日本の各地にある火山の麓の谷々 もあそ谷と呼んで全く差し支えない。
2.愛知県鳳来寺周辺の谷々もあそ谷と呼べる
鳳来寺山は、設楽火山の南主峰であり、煙岩山とも呼ばれた。三河国総国風土記
に、その東南の谷「宇連川=三輪川」に怪石が流れた記述 油谷温泉という温泉も
あり、設楽火山群は、1600万年前の火山地帯。
3.鳳来寺山周辺の「あそ」
豊川中流に麻生田(あそうだ)、作手から流れる巴川流域に「麻生島(あそうじ
ま)」。鳳来寺山主峰の南麓の門谷は「あそ谷」と称するに相応しい。
4.門谷の子守神社の国狭槌尊
門谷には上浦、中浦、下浦など、湖畔の浦に関する地名があり、その北西には、
杉風呂、森脇などの地名が残っている。そこにある子守神社は、小室神社がなまっ
たものと考えられ、その御祭神が「国狭槌神」である。
宮下文書に、天竺真郡国から里帰りした「国狭槌神」は、阿祖谷の小室に居を整
えたと書く。
鳳来寺山は、太古の不二山か
1.鳳来寺山=不二山
1)鳳来町三河大野の地に、瑞穂稲荷「不二庵跡」を発見。鳳来寺山の峰が眺められる。
2)南西を流れる寒狭川(豊川)流域に「布里」という村あり。その上流には、縄文時代の西向遺跡、「古社」「高宗」という地名。
2.三河大野の不思議な地名、社寺、遺跡、地形
1)琴森
古代中国の地誌書「山海経」で東経大荒外の章に、夏の舜帝が大荒で楽器を忘れたことを記している。琴森は、「このもり」と呼び、「湖の守り」「こもり」「こむろ」に通ずる。
2)大野神社
扶桑国三州八名郡大野村総社大明神=スサノオ命、タナバタ姫、国狭槌神
3)天橋: 阿寺川、赤引温泉
4)榎下遺跡:縄文遺跡、湿地
高天原と徐福の痕跡
1.三河大野は豊葦原瑞穂国の高天原の拠点?
宇連川上流には、鳳来湖があり、鳳の島がある。 鶴亀伝説の亀渕川が川合に流れ、そこに縄文時代の人の居住遺跡。三河川合には、丹野という地名があり、朱(水銀)の産出地があった。
2.不思議な風習
新城市有海から鳳来町の乗本にかけて、盆には「なべづる(つる)」の火送りの行事がある。当地の火踊り祭り「ひおんどり」は、徐福一行が持ち込んだと解釈。
3.福のつく地名、神社
富栄と長篠の境に、正福寺川が流れ、鳳寿山・正福寺。その一角に「招福稲荷神社」があり、蓬莱山弁天島を模した池がある。大宮勅養寺の古名は「中福寺」。
4.その他徐福関連事跡
小坂井町には徐福上陸の伝承があり、名社「菟足神社」には、「徐福」の人形を飾って「招福」との札を掛けているのを目撃している。牛窪記の徐福伝承、石巻牛川稲荷神社の「保福碑」など。赤塚山の麓からは、布目瓦が出土しているが、中国の徐福村の遺跡から、布目板瓦が出土したという。
鳳来寺山と徐福
1.鳳来寺山は1000メートル以上沈下
鳳来町在住の地質学者・横山良哲氏著「奥三河1600万年の旅」によると、鳳来寺山は、かつて、富士山に匹敵する活火山であった(1600万年前)。湯谷温泉辺りで1000メートルも沈下していた。
2.鳳来寺山の地形
鳳来寺山(昭和6年、国指定 名勝天然記念物)の最高峰は、瑠璃山(標高695メートル)で、流紋岩、凝灰岩などから構成されている。約2000万年前に激しい火山活動によって、噴き出し、その後の長い間の風化浸食作用によって、こんにちのように複雑で、険しい地形ができ上がったものである。
山頂近くの奥の院からは、目前に東三河から渥美半島までの眺望を楽しむことができる。
3.徐福は超能力者?
中国から日本の蓬来山を「霊視」した、超能力者は、鳳来寺山を、富士山だと思ってもおかしくないのではないか。また、三河遠州には、徐福霊会という会があって、気功の有段者などが会員になっている。
牛久保の徐福伝説
1. 牛窪記
著者未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録。成立年代未詳。神宮文庫所蔵。牛久保の熊野神社は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏 熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。 得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。 民屋之族 尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。
徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。 長山之神者 常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事 熊野三所大権現之事
「家秘ノ旧記ニ 伊ザナミノ尊 火ノ神ヲ産ミ給ヒテ カン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ 密義有り。
「一座者 秦国徐氏之霊也。 東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ 艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族 併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ル トイヒテ我ガ日本ニ来ル。 徐市ハ 不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ 金峯山ニ入ル。徐林ハ肥前金立山ニ住シ、徐福ハ 着岸ノ津 紀州古座ニ止リ 後熊野山ニ入ル。徐福ガ孫 古座侍郎 三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。」
義楚六帖の徐福
志茂田景樹氏の”ついに明かされた徐福王朝の秘密・・謎の邪馬台国” による。
1.徐福が止まった山
「日本国伝愈伽大教弘順大師賜紫寛輔なるものありて又言う。 " 本国の都城の南五百余里に金峰山あり。" " また東北千余里に富士と名付け、また蓬莱と名付く。その山峻にして三面これ海。一だ上に聳えて頂きに火煙あり、日中は上に諸々の宝ありて流下し、夜はすなわち却って上がる。常に音楽を聞く。徐福はここに止まりて、蓬莱といえり。今に至るも皆秦氏と言う。" 」
2.都城の位置
高天原が、賀茂町“ 間川” ほとりの高台であり、いまの賀茂神社の前身が都城ということにすると、これを基点に南五百余里( 昔の短里=90m、を仮定して約45Km南) には田原蔵王山があり、これはピラミッドの金字山、金峰山である。この金峰山から、東北千余里(約90Km) は鳳来町の鳳来寺山( 蓬来とも呼ぶ) に当たる。徐福の来朝されたBC200年頃は、石巻山麓まで海が近づいており、地名にも浜とかなぎ江といった、海にちなんだものが残されている。 三面海とは三河湾、太平洋、浜名湖をさす。
3.三神山(石巻山、本宮山、鳳来寺山)は不二山
いずれも急峻で、富士の名をつけるに値する山であることは言うまでもない。 本宮山麓の上長山には宝川があり、流下している。一だ上に聳えて火煙ありとは、鳳来寺山が昔煙巌山。
4.即ち、弘順大師が頂きに火煙ありと言ったのは、この護摩をたく煙の事であり、常に音楽を聞くとは、開山利修仙人が鳳凰にのり、笛を吹きながら空を飛んだという、言い伝えを反映したもののようである。尚利修仙人のことを笛楽仙人ともいう。
三河の謎の古代史まとめ
1 . 江 島 の 定 池 近 辺 は 、 穂 の 国 の 国 造 か ら 、 遠 の 小 狭 田 と 呼 ば れ て い た 。高天原のユニワは、天の長田 → 高天原を再現
2.丹波の温泉町の古記に大己貴命は、丹波から三河に遷移したと記載。
ニギハヤヒ命・ウマシマジとその子孫、出雲色大臣と大木喰命は三河一宮・大木から豊川下流の神社に鎮座。 → 出雲神話の遷移
4.物部文書によれば、鳥海山に降臨した物部氏の祖は、三河から移った。→ 東三河はニギハヤヒの拠点
5 . 徐 福 伝 説 、 持 統 天 皇 来 訪 、 文 武 天 皇 の 皇 居 所 在 の 伝 承 、 参 遠 式 銅 鐸 、環濠集落、物部氏の統治、倭のスクネ、朝廷別王、ホムチワケ伝承、先祖の古代丹後からの遷座、朝鮮式積み石塚、前方後方墳や水神平式土器の大和巻向遺跡へ。→ 記紀の世界の舞台
6.伊勢の内外宮で、三河赤引糸が和妙(ニギタエ)の神御衣として用いられる。
由来は天照皇太神が、高天原に御座した時よりのもの。→ 徐福の求めた蓬莱(神仙)の国は21世紀の神話の原点!
花祭の神楽の歌詞
1.奥三河は高天原
「千早や振るここも高天の原なれば、集まり給え四方の神々」
「伊勢の国高天原がここなれば 集まり給え四方の神々」
と、この地が高天原であることを、幾重にも宣言している。
しかも神楽の歌詞に現れる地名(鳳来寺、宮川、金山、香久山、境川、御殿山等々)の大半は、鳳来寺山から石巻山にかけての東三河に比定できる。
2.花祭りで舞う鬼たちは、高天原の主役
榊とはいかなる神と問うなれば 土公神(塩土老翁)と答えきかせよ
山割はいかなる神と問うなれば 須佐男神と答えきかせよ
姫神はいかなる神と問うなれば 日の大神(天照大神)と答えきかせよ
しおふきはいかなる神と問うなれば たぢから神とぞ答えきかせよ
即ち、奥三河の花祭においては、日本の原点、即ち古代倭国の朝廷を形成した高天原の神々の鎮魂祭が行われていたのであった。つまり、東三河高天原説を傍証するものである。
三河赤引き糸をニギタエに
1.神宮雑例集(抄)
伊勢の内外両宮の由緒・神事・所領などに関する文書・記録を収録したもの。
三河赤引きの糸が、伊勢神宮で神御衣として取り扱われる由来が書かれている。
第2巻 1)神機殿政印事「任式条 以三河国神調赤引御糸、可被奉織 神御衣 由所言上也。
況於 神御衣勤者、掛畏天照坐皇太神 御坐高天原之時、以神部等遠祖 天御牟命 為司。
以八千々姫為織女、奉織之間御垂跡之後、干今其勤誠以厳重無隻也。
因之以彼国赤引御糸、斎戒潔清、可奉織之由、所被定置神祇令。
天之御中主と国常立命・国狭槌命 国狭槌命と八王子「トホカミエミタメ」
1.富士(徐福)古文献
アム川、シル川のある中央アジアから、神農比古がその子孫を連れて、日本列島に渡ってきた。海道を通ってたどり着いたのが、その第7子・国狭槌命で不二高天原に住み着いた。遅れて到着したのが、5男の国常立命である。
高天原で会見し、高天原より東を国狭槌命が治め、西側を国常立命が治める。
国狭槌命の8人の子供:八王子と呼び国狭槌命と習合されることがある。
八王子は祝詞で「トオカミエヒタメ」の神々となり、世界各地に統治する。
2.三河本宮山の砥鹿神社の神はトの神?
鳳来寺門谷の子守神社の祭神は国狭槌命。大野町神社も国狭槌命、八王子を祭る。
→大昔高山であった鳳来寺山は不二山で、その麓に高天原があった!?
鳳来寺山は、1600万年前の死火山であるが、周辺には温泉が湧き(湯谷温泉、赤引温泉ほか)、三河国総国風土記なる古文書には、当地を流れる豊川を、三輪川とよび、怪石が流れたことを記している。
3.鳳来寺の宝物像は、薬師如来と神農と大国主
神農と国狭槌命、八王子が祭られる鳳来町は、まさに富士古文献に述べられた、古代の不二高天原を意味しているようである。
奥三河・鳳来町は日本の源流・扶桑国か!?
1.三星堆の遺跡
中国5000年の謎・驚異の仮面王国「三星堆」は、四川省成都市郊外。この三星堆遺跡から1トンを越す青銅器が発掘され、飛び出した目をもつ仮面群と全高3.84メートルという巨大神樹(扶桑樹)を発見。三星堆の蜀国という農耕社会では、祭祀の中心的内容が太陽崇拝だった。
2.扶桑
「太陽柱」という自然現象から「扶桑(ふそう)」という想像上の太陽樹が誕生し、扶桑を中心とした独特の信仰体系が成立した。中国最古の扶桑樹の青銅製の実物が古代蜀国で作られた。
3.扶桑国
中国の有名な古代文献「山海経(せんがいきょう)」によれば、「海外東経」と「大荒」の章に扶桑のことが記され、扶桑国は日本のことと考えられてきた。
「大荒の中に山あり。山の上に扶木(扶桑)があり高さ300里。谷あり、湯源の谷(湯谷)という。その湯谷の上に扶桑があり、10個の太陽が湯浴みしている。 不姜の山があり、豊水が流れ、不死の国があり、五彩の鳥・鳳鳥が舞う」という。
一方、奥三河の鳳来町には、湯谷という温泉街のある豊川上流の渓谷があり、鳳凰が住んだという伝説の山がある。「扶桑国三州八名郡」である。
邪馬台国・卑弥呼に関する驚愕の資料
源為朝公直系子孫が保有する卑弥呼伝承
1)為朝公守護神 古代女王卑弥呼伝
古代邪馬台国の女王・卑弥呼については、漢委奴国王の位を授けられ、位を書いた純金の印章および銅鏡百枚、また、航海の守護章(石剣)を授けられた。卑弥呼は国家を樹立するため、伊都国を東へ遷すことを決心。瀬戸内海航海に際し、紀氏水軍に命運を掛けた。
2)天女卑弥呼は、伊都の国から、紀伊、大和へ皇祖・神武天皇が九州から東へ遷ったと同じ海路を、紀氏水軍を使い瀬戸内海を軍船によって航行。
卑弥呼は海路を進み、大和近く、河内国で上陸計画。しかし、このとき海が荒れ、上陸不能。神国である紀伊国に一時滞在。その後、卑弥呼は、大和へ向かわれた。
3)大和の国に入ったのち、大邪馬台国へ
卑弥呼は、中国の後漢の光武帝から授かった権威の守護銅鏡を活用し、大邪馬台国とした。
卑弥呼は、太陽神。 天の神・太陽の光が消え、黒い太陽になることを恐れた。
4)卑弥呼は恵那へ
正始9年、太陽神である卑弥呼は、誰よりも早く自分の目で確かめようと、太陽の消える時を知るため、東の地・美州(美濃)恵那郷に向かった。9月5日になり、早朝から太陽が現れたが、間もなく黒い太陽になった。卑弥呼は、黒い太陽霊が恐ろしいと気を失って倒れ、その後、敵方賊の襲撃を受けた。
5)貴人卑弥呼の御首級は、敵方見張りの所・小牧山頂へ
ここは、巨岩が置かれ、その中、立石と直下は石組みの洞穴がある。
卑弥呼の終焉地・中津川の恵那神社には、天照大神が祀られており、不思議な遥拝所がある。神が南南東に向かったと行き先を示す歌碑が立っているのであるが、その方向は東三河を含む三遠地方である。http://xufu.sakura.ne.jp/2015.01.21maeda1.pdf 【神奈川徐福研究会東海地方・東三河の徐福伝承蓬莱の国・徐福と高天原伝説の国】 より
発想のきっかけ
1.牛川原人の碑
2.三角断面形状の石巻山:「神山」と呼ばれていた。
3.秋田県大湯の黒又山(クロマンタ)環太平洋ピラミッド文明の要素「ピラミッド」
その存在形態は、断面形状が三角形のピラミッド状で 頂上に祭祀用の磐座を有し、周囲に遥拝所である神社や祭祀場をもつ。
4.石巻山:三角断面形状で、環状配置の神社群を有したピラミッドと呼ぶに相応しいものである。→この地に隠された歴史がある!
石巻山ピラミッド説:謎の古代史発見の入口
1.秦の始皇帝を欺き、蓬莱の島に大船団を組んで船出した「徐福」の子孫の定住地伝承
→ 牛川稲荷神社、保福大神
2.持統上皇が崩御直前に1月を上回る期間、三河に御幸。
3.記紀(古事記・日本書紀)神話の舞台→アカイコ伝説、高天原、出雲
→「古代神都・東三河」(1996.4)
「倭国の真相」(1997.1)
東海の三神山
石巻山 本宮山 鳳来寺山
東三河は古代に繋がる神都・蓬莱国か
1.三河一宮・砥鹿神社・本宮山:「神の始めの神」と称される大元祖の神が住んだ神山との伝承。
2.鳳来町・鳳来寺山:鳳来寺の主仏は、薬師如来、神農、大国主。
古代中国の地誌文献「山海経」にも触れられた鳳凰の飛び交う「扶桑の国」、不老不死の霊薬の育つ仙人の住む「蓬莱の国」。中国伝説の蓬莱山を思わせる奇山(鳳来寺山-自然と文化)
3.東海の3神山に比定できる石巻山・本宮山・鳳来寺山が存在する紀元前6世紀生まれの孔子が行きたいといった東海の君子国、
3神山がある蓬莱の国の条件を全て満足している。
日本神話(記紀神話)の舞台
1.新城市大宮・大ノ木遺跡:石棒を含む非常に特殊な祭祀場が発見されている。
上質のひすい(糸魚川産)の飾りもの発見
2.石座(いわくら)神社:天御中主神と天稚比古尊(皇大神ともいわれている)を祭神とする。
3種の神器に相当する鏡・剣・まがたまの首飾りが保管されている。
3.高天原の営田(天照大神が高天原で五穀を栽培し始めたといわれる良田)が地名として存在する。
安田、長田、京田など、天サカルムカツヒメ( 天照大神)の住居田高原という地があって、天野姓の家が多数存在。
存在した古代東ヤマト
1.八名郡賀茂町に天忍日命を祭る大伴神社が存在天忍日命は、久米軍団を率いて、ヤマトの国を形成。忍日命は道臣命とも倭宿祢とも呼ばれた。
2.ヤマトの宿祢に由来の地:宝飯郡・豊津
3.海部氏勘注系図で、倭宿祢は神武天皇の役割石巻神社の祭神は、神武天皇の兄のサビヒコ命
4.豊川市の国府・久保神社の境内社は大和神社。
5.浜松東北の笠井町に式内若倭神社、倭下林など。
6.天竜川沿いには、東大和が存在したとの伝承
7.諏訪大社下社千尋池のいわれ:遠州浜松近くの海に続き、神楽歌に「諏訪の海、大和の浜よりよする波、千尋の池に重(しき)の浪立つ」という。
8.ホツマ伝:古代ヤマトは、伊勢から東海・関東にまたがり存在した。
考古学からみた東海地方
1.弥生時代の水田稲作技術の伝達
弥生時代初期、九州から尾張まで一気に広がったが、三河を境に、東国に広がるのは、数十年遅れた。
2.縄文系と渡来系の対峙
「突帯文土器の系譜を引く樫王式・水神平式土器が分布する三河の地域に、縄文系と渡来系の対峙する関係が存在した。「日本人のはるかなる旅⑤」)
3.三河の条痕文側から遠賀川側への一方的な交流
東海以東への遠賀川様式の拡散については、関東や中部高地では、交流の通過点である三河地域で縄文スタイルが固持された結果、接触の機会は少ない。
むしろ、三河の集団が、関東や中部高地へと広く影響を及ぼす。
4.三河の土器は拡がりたがる
三河の土器が日本の各地に出現。「東海学の創造をめざして」森浩一編
5.奈良ヤマト三輪山の麓の巻向遺跡近辺
東海地方の土器がもっとも多い。また、同地の前方後円墳と混じって、初期の古墳として、東海地方の前方後方墓が存在している。
邪馬台国時代から初期大和王権の誕生に至る過程において、東海地域が大きく関与している!「遺跡からのメッセージ」赤塚次郎
徐福と不二高天原の謎・徐福伝説とは
1.東三河には秦の徐福の定着地との伝承がある。
「徐福」東渡で、到着した地と言われる場所は、日本の各地にあるが、「本当に定着した地」は、決着していない。
「富士古文献」に記載されるところでは、「徐福」が目指した地は「トヨアシハラミズホの国」であり、「ホウライ」と呼ばれていた。
2.東三河は古代「ホの国」ホウライ(鳳来)
鳳来寺山は、古代の火山で、数千メートルの高さをもつ巨大な「不二山」であったと言われる。 東三河は、この不二山の南山麓に位置する。
そして、富士王宮と呼ばれたところが、豊橋市に3箇所(賀茂神社、浅間神社、椙本神社)確認された。つまり、東三河は、まぼろしの「富士王朝」と関係があるようだ。
3.牛窪記に徐福子孫の記述
鳳来寺山の少し南の「本宮山」の麓には、紀州「古座」から移り住んだ徐福の子孫が繁栄し、秦氏を名乗っていたとの伝承がある。そして、その子孫は全て、三河に居住していた、とのことである。現在の三河に「秦の氏名」は少ないが、羽田氏姓が住まわれている。
東三河・遠州は、「徐福」の求めてきた「平原広沢の地」の可能性が高い
富士古文献
1.秦始皇帝時代の方士「徐福」とは
徐福は、始皇帝の命により不老長生の霊薬を求めて東海の3神山に向けて船出したという。百工、童男童女を含む3000人を乗せた85隻の大船団は、弥生時代の日本を目指した先進文明を伝える福の神の一行であった。
2.徐福東渡の目的地
その徐福一行が目指したところは、蓬莱、方丈、えい州と呼ばれる蓬莱の国・3神山の地である。蓬莱がどこにあったかは、各種異論があり、台湾、韓国、日本、はたまたアメリカ大陸という説まである。
3.徐福の伝承・遺跡
中国、韓国、日本には徐福伝説が多数散在しており、徐福の歴史的実在性は、疑えないものになってきている。
徐福の伝説の存在する地は、日本に数十個所もあり、中には紀伊半島熊野や、富士山北麓吉田のように、徐福の墓と呼ばれるものまでが残っている。
徐福は、世界の大元祖の国・蓬莱を目指して渡来し、平原、広沢を見つけてそこに、王となって留まったという。そして、その地は、不二高天原・豊葦原瑞穂の国と呼ばれたという。
富士古文献の由来
1.富士古文献「宮下文書」は、阿祖山大神宮(富士太神宮)の宮司を代々務めてきた宮下家に保存されていたためこの名がある。 天竺真郡国から渡来した神皇農作比古神が富士山に高天原朝を開いたという伝承に始まる。ウガヤ朝になって九州霧島に移行し、51代の天皇が続いた後、神武天皇の神倭朝になったという内容である。
2.「徐福文献」といわれるのは、木片や石面などに神代文字で記されていた文書を、不老不死の霊薬を求めて富士に渡来した徐福が、この史伝に注目し、漢字に書き直したという伝承によるものである。
3.「寒川文書」とも呼ばれる延歴19年(800年)4月、富士山が大爆発を起こし、噴火が35日も続いたことがあった。この大噴火は「日本紀略」にも記されているが、伝承によると高天原は壊滅し、阿祖山大神宮も消失した。そこで、神宮関係者は、相模国に移住し、相模川の河口近くの高座郡に、高天原を流れていた川の名にちなんで寒川神社を創建し、伝来の文書を保管したという。このため「寒川文書」なる名称が付けられたという。
寒川神社は、弘安5年(1282)に起こった大洪水のため、社屋が流出するという被害をこうむり、文書も消失した。しかしその内容は、宮下源太夫が筆写したために残存した。
富士古文献の内容
1.東海の蓬莱山
徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。やがてその姿を見失い、海上をさまよい、陸地と大きな山をみつけ、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。船上で遥拝した霊山とは違い、上陸した処は木日国(紀伊国)木立野の大山であった。
2.富士山は蓬莱山?
一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。
3.徐福の止住地
徐福は一族とともに富士山麓の地に止まり、一行全員を大室、中室、小室に分散居住させて、専門分野ごとに、開墾、農作、製紙、機織り、養蚕などを行う。
4.徐福の墓
徐福が死んだのは、孝元天皇7年(前208)の2月8日、場所は富士中室。遺体は中室の麻呂山に埋葬されたが、相次ぐ富士山の噴火によって、多くの遺跡とともに埋没してしまった。富士吉田市の太神社に徐福の墓がある。
富士古文献の内容解釈への批判
1.富士山北麓に徐福関連の史跡
確かな史跡はなく、宮下文書の記述の信憑性が少ない。
2.火山噴火の影響の研究
延暦の噴火によって天都を焼いたとされる溶岩は、寄生火山から噴出した剣丸尾(けんまるび)ではないかといわれている。この溶岩は標高2900メートルの山腹割れ目から流れ出して、スバルライン2合目と丸山との間を流下し、富士急ハイランドの敷地を経て、下吉田の赤坂で止まっている。
その溶岩下から縄文式土器や古銭が出土しているので、かなり長期にわたる人間の居住が確かめられたが、町田洋氏はこの丸尾を延暦または貞観の噴火の産物ではないかと推定している。しかし、その流れは帯状に長く、青木ケ原を埋めた溶岩のような広大さはないので、天都絶滅説は怪しくなるのである。
3.地質学者にとっては、
かつての帝都の存在「高天原伝説」は語る必要もない「異次元の世界」なのであった。ただ、「高天原伝説」を夢として語るならば、壮大でこの上なくすぐれた叙事詩であり、文学の世界での存在価値があるという。だからこそ「幻の帝都富士山高天原」でもある、という。→ 富士古文献は、富士山北麓の史実を表しているのではなく、場所の設定が間違っている。それは、宮下文書に出てくる地名を共有する他の地域にある。→東海の3神山の地、東三河から奥三河の地
蓬莱とは鳳来のことか-山田久延彦氏
1.「東海の蓬莱山」は「愛知県鳳来町の山々だ」
「古事記」研究者・山田久延彦氏は、「真説古事記Ⅳ」の中で、徐福伝説について述べ、出雲は東海地方にあったという説あり。
2.徐福は東海の蓬莱山を探して、現在の富士山に!
徐福は約五百人の部下を連れて中国の港を出航し、南九州に到達した。そして、海
岸線伝いに東に向かい、和歌山県新宮に到達し、その地に上陸し、根拠地を築いた。
また東海の蓬莱山という道教の言い伝えをたよりに、富士山麓に到った。
3.富士山で秘薬を発見できず
不老不死の秘薬を探しまわったが、ついに発見することができず、かつて、富士の山
麓には壮大な都市と神殿があり、人々は楽園のような生活をしていた。たび重なる富
士山の噴火により、その古代文明は滅亡し、深く溶岩の下に埋もれた、と記載。
4.三河山中に古代文明遺跡を発見!
徐福は、”東海の蓬莱山”を東海地方の蓬莱山=富士山と考えたが、日本には蓬莱と名のつく山はたくさんある。”蓬莱”とは、本来は”鳳来”と書くべきで、鳳(おおとり)すなわち天の鳥船が天降ってくるところという意味なのである。
”史記”に記された蓬莱が鳳来であるならば、東海の蓬莱山とは富士山ではなく、東海地方のほぼ中心にある鳳来町の山々だと考えられる。
鳳来寺山と世界文明
1.山田久延彦氏の日本の古代文明に対する意見
高度な文明が日本に存在し、それが中国に伝えられたと中国道教。
2.楢崎皐月の説
楢崎皐月が満州・吉林の製鉄技研の所長であった頃、中国の道師・芦有山 から道教に伝えられている秘伝のいくつかを聞いた。
1)「日本には八鏡文字( 八尺の鏡の文字) があった」という言い伝え。2)「中
国の哲学や医学は、神農氏などによって、日本の上古代の文化が伝えられ、派生し
たものである」。
3.東海の蓬莱とは須弥蓬莱
徐福の撰録したといわれる宮下文書の歴代天皇記の中に、第15代”天之神農氏神・諱農作比古”天皇がいる。 この農作比古神は、天竺真郡の州から天降って、須弥の蓬莱国を統治したと記されている。徐福の探し求めた東海の蓬莱とは、須弥の蓬莱のことだったのである。
4.楢崎皐月と宮下文書
楢崎皐月が中国で聞いてきたことと、宮下文書の記述は、あまりに一致しており、また両者の間で、情報交流が起こり得なかった背景からみて、これらのことはすべて真実であると解釈する他はない。
鳳来寺山と宮下文書の共鳴
1)蓬莱と考えるべき鳳来寺山の薬師堂「薬師如来と、神農、大国主」の3体の木像が保管されているという。
2)子守神社の御祭神は国狭槌命
鳳来寺山の上り口・門谷の渓谷西辺の子守神社の御祭神は「国狭槌尊」である。
3)国狭槌尊は、先行した国常立尊を追って海路で蓬莱の国を目指した。
佐渡島、富山、若狭、丹波、播磨を巡って、再び北陸地方に戻り、飛騨から美濃、尾張、三河を通って、ついに蓬莱に到着。立ち寄ったところをスルガといい、湧き水があって、食料が豊富であった。更に行くとおお海があり、カキ津の小室に留まり、そこを拠点として国を治めた。(スルガは高山の南麓=天国を意味する)
湯あり、湧き水あり、絶好の地である。国狭槌尊らは、この地を雅に称して高天原と呼んだ。この辺りを阿祖谷といい、住んだ処を小室とも言った。
4)国常立尊と国狭槌尊は日本を、東西二つに分けて統治
国常立尊は、丹後の桑田に移り西国を治め、国狭槌尊は、高天原と東国を治めた。
5)日本神話の神々
これらの皇祖神から代を経て、いざなぎ・いざなみ神が生まれ、更に、天照大神、月読神、スサノオ神が生まれる。天照大神の孫神のニニギ尊から、ヒコホホデミ尊、ウガヤフキアエズ尊を経て、神武天皇という初代天皇家につながって行く。
富士古文献の高天原を東三河の地に比定
1.富士古文献記載の高天原の阿祖谷
「あそ」は、阿祖や浅間とか阿蘇とか記されることがあるが、「阿蘇」は、噴火口を意味する(楢崎皐月氏の解釈)。あそ谷は、火山に関係した地の谷として解釈できる。富士山の麓の谷々もあそ谷と呼んで差し支えないであろうが、日本の各地にある火山の麓の谷々 もあそ谷と呼んで全く差し支えない。
2.愛知県鳳来寺周辺の谷々もあそ谷と呼べる
鳳来寺山は、設楽火山の南主峰であり、煙岩山とも呼ばれた。三河国総国風土記
に、その東南の谷「宇連川=三輪川」に怪石が流れた記述 油谷温泉という温泉も
あり、設楽火山群は、1600万年前の火山地帯。
3.鳳来寺山周辺の「あそ」
豊川中流に麻生田(あそうだ)、作手から流れる巴川流域に「麻生島(あそうじ
ま)」。鳳来寺山主峰の南麓の門谷は「あそ谷」と称するに相応しい。
4.門谷の子守神社の国狭槌尊
門谷には上浦、中浦、下浦など、湖畔の浦に関する地名があり、その北西には、
杉風呂、森脇などの地名が残っている。そこにある子守神社は、小室神社がなまっ
たものと考えられ、その御祭神が「国狭槌神」である。
宮下文書に、天竺真郡国から里帰りした「国狭槌神」は、阿祖谷の小室に居を整
えたと書く。
鳳来寺山は、太古の不二山か
1.鳳来寺山=不二山
1)鳳来町三河大野の地に、瑞穂稲荷「不二庵跡」を発見。鳳来寺山の峰が眺められる。
2)南西を流れる寒狭川(豊川)流域に「布里」という村あり。その上流には、縄文時代の西向遺跡、「古社」「高宗」という地名。
2.三河大野の不思議な地名、社寺、遺跡、地形
1)琴森
古代中国の地誌書「山海経」で東経大荒外の章に、夏の舜帝が大荒で楽器を忘れたことを記している。琴森は、「このもり」と呼び、「湖の守り」「こもり」「こむろ」に通ずる。
2)大野神社
扶桑国三州八名郡大野村総社大明神=スサノオ命、タナバタ姫、国狭槌神
3)天橋: 阿寺川、赤引温泉
4)榎下遺跡:縄文遺跡、湿地
高天原と徐福の痕跡
1.三河大野は豊葦原瑞穂国の高天原の拠点?
宇連川上流には、鳳来湖があり、鳳の島がある。 鶴亀伝説の亀渕川が川合に流れ、そこに縄文時代の人の居住遺跡。三河川合には、丹野という地名があり、朱(水銀)の産出地があった。
2.不思議な風習
新城市有海から鳳来町の乗本にかけて、盆には「なべづる(つる)」の火送りの行事がある。当地の火踊り祭り「ひおんどり」は、徐福一行が持ち込んだと解釈。
3.福のつく地名、神社
富栄と長篠の境に、正福寺川が流れ、鳳寿山・正福寺。その一角に「招福稲荷神社」があり、蓬莱山弁天島を模した池がある。大宮勅養寺の古名は「中福寺」。
4.その他徐福関連事跡
小坂井町には徐福上陸の伝承があり、名社「菟足神社」には、「徐福」の人形を飾って「招福」との札を掛けているのを目撃している。牛窪記の徐福伝承、石巻牛川稲荷神社の「保福碑」など。赤塚山の麓からは、布目瓦が出土しているが、中国の徐福村の遺跡から、布目板瓦が出土したという。
鳳来寺山と徐福
1.鳳来寺山は1000メートル以上沈下
鳳来町在住の地質学者・横山良哲氏著「奥三河1600万年の旅」によると、鳳来寺山は、かつて、富士山に匹敵する活火山であった(1600万年前)。湯谷温泉辺りで1000メートルも沈下していた。
2.鳳来寺山の地形
鳳来寺山(昭和6年、国指定 名勝天然記念物)の最高峰は、瑠璃山(標高695メートル)で、流紋岩、凝灰岩などから構成されている。約2000万年前に激しい火山活動によって、噴き出し、その後の長い間の風化浸食作用によって、こんにちのように複雑で、険しい地形ができ上がったものである。
山頂近くの奥の院からは、目前に東三河から渥美半島までの眺望を楽しむことができる。
3.徐福は超能力者?
中国から日本の蓬来山を「霊視」した、超能力者は、鳳来寺山を、富士山だと思ってもおかしくないのではないか。また、三河遠州には、徐福霊会という会があって、気功の有段者などが会員になっている。
牛久保の徐福伝説
1. 牛窪記
著者未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録。成立年代未詳。神宮文庫所蔵。牛久保の熊野神社は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏 熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。 得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。 民屋之族 尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。
徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。 長山之神者 常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事 熊野三所大権現之事
「家秘ノ旧記ニ 伊ザナミノ尊 火ノ神ヲ産ミ給ヒテ カン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ 密義有り。
「一座者 秦国徐氏之霊也。 東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ 艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族 併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ル トイヒテ我ガ日本ニ来ル。 徐市ハ 不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ 金峯山ニ入ル。徐林ハ肥前金立山ニ住シ、徐福ハ 着岸ノ津 紀州古座ニ止リ 後熊野山ニ入ル。徐福ガ孫 古座侍郎 三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。」
義楚六帖の徐福
志茂田景樹氏の”ついに明かされた徐福王朝の秘密・・謎の邪馬台国” による。
1.徐福が止まった山
「日本国伝愈伽大教弘順大師賜紫寛輔なるものありて又言う。 " 本国の都城の南五百余里に金峰山あり。" " また東北千余里に富士と名付け、また蓬莱と名付く。その山峻にして三面これ海。一だ上に聳えて頂きに火煙あり、日中は上に諸々の宝ありて流下し、夜はすなわち却って上がる。常に音楽を聞く。徐福はここに止まりて、蓬莱といえり。今に至るも皆秦氏と言う。" 」
2.都城の位置
高天原が、賀茂町“ 間川” ほとりの高台であり、いまの賀茂神社の前身が都城ということにすると、これを基点に南五百余里( 昔の短里=90m、を仮定して約45Km南) には田原蔵王山があり、これはピラミッドの金字山、金峰山である。この金峰山から、東北千余里(約90Km) は鳳来町の鳳来寺山( 蓬来とも呼ぶ) に当たる。徐福の来朝されたBC200年頃は、石巻山麓まで海が近づいており、地名にも浜とかなぎ江といった、海にちなんだものが残されている。 三面海とは三河湾、太平洋、浜名湖をさす。
3.三神山(石巻山、本宮山、鳳来寺山)は不二山
いずれも急峻で、富士の名をつけるに値する山であることは言うまでもない。 本宮山麓の上長山には宝川があり、流下している。一だ上に聳えて火煙ありとは、鳳来寺山が昔煙巌山。
4.即ち、弘順大師が頂きに火煙ありと言ったのは、この護摩をたく煙の事であり、常に音楽を聞くとは、開山利修仙人が鳳凰にのり、笛を吹きながら空を飛んだという、言い伝えを反映したもののようである。尚利修仙人のことを笛楽仙人ともいう。
三河の謎の古代史まとめ
1 . 江 島 の 定 池 近 辺 は 、 穂 の 国 の 国 造 か ら 、 遠 の 小 狭 田 と 呼 ば れ て い た 。高天原のユニワは、天の長田 → 高天原を再現
2.丹波の温泉町の古記に大己貴命は、丹波から三河に遷移したと記載。
ニギハヤヒ命・ウマシマジとその子孫、出雲色大臣と大木喰命は三河一宮・大木から豊川下流の神社に鎮座。 → 出雲神話の遷移
4.物部文書によれば、鳥海山に降臨した物部氏の祖は、三河から移った。→ 東三河はニギハヤヒの拠点
5 . 徐 福 伝 説 、 持 統 天 皇 来 訪 、 文 武 天 皇 の 皇 居 所 在 の 伝 承 、 参 遠 式 銅 鐸 、環濠集落、物部氏の統治、倭のスクネ、朝廷別王、ホムチワケ伝承、先祖の古代丹後からの遷座、朝鮮式積み石塚、前方後方墳や水神平式土器の大和巻向遺跡へ。→ 記紀の世界の舞台
6.伊勢の内外宮で、三河赤引糸が和妙(ニギタエ)の神御衣として用いられる。
由来は天照皇太神が、高天原に御座した時よりのもの。→ 徐福の求めた蓬莱(神仙)の国は21世紀の神話の原点!
花祭の神楽の歌詞
1.奥三河は高天原
「千早や振るここも高天の原なれば、集まり給え四方の神々」
「伊勢の国高天原がここなれば 集まり給え四方の神々」
と、この地が高天原であることを、幾重にも宣言している。
しかも神楽の歌詞に現れる地名(鳳来寺、宮川、金山、香久山、境川、御殿山等々)の大半は、鳳来寺山から石巻山にかけての東三河に比定できる。
2.花祭りで舞う鬼たちは、高天原の主役
榊とはいかなる神と問うなれば 土公神(塩土老翁)と答えきかせよ
山割はいかなる神と問うなれば 須佐男神と答えきかせよ
姫神はいかなる神と問うなれば 日の大神(天照大神)と答えきかせよ
しおふきはいかなる神と問うなれば たぢから神とぞ答えきかせよ
即ち、奥三河の花祭においては、日本の原点、即ち古代倭国の朝廷を形成した高天原の神々の鎮魂祭が行われていたのであった。つまり、東三河高天原説を傍証するものである。
三河赤引き糸をニギタエに
1.神宮雑例集(抄)
伊勢の内外両宮の由緒・神事・所領などに関する文書・記録を収録したもの。
三河赤引きの糸が、伊勢神宮で神御衣として取り扱われる由来が書かれている。
第2巻 1)神機殿政印事「任式条 以三河国神調赤引御糸、可被奉織 神御衣 由所言上也。
況於 神御衣勤者、掛畏天照坐皇太神 御坐高天原之時、以神部等遠祖 天御牟命 為司。
以八千々姫為織女、奉織之間御垂跡之後、干今其勤誠以厳重無隻也。
因之以彼国赤引御糸、斎戒潔清、可奉織之由、所被定置神祇令。
天之御中主と国常立命・国狭槌命 国狭槌命と八王子「トホカミエミタメ」
1.富士(徐福)古文献
アム川、シル川のある中央アジアから、神農比古がその子孫を連れて、日本列島に渡ってきた。海道を通ってたどり着いたのが、その第7子・国狭槌命で不二高天原に住み着いた。遅れて到着したのが、5男の国常立命である。
高天原で会見し、高天原より東を国狭槌命が治め、西側を国常立命が治める。
国狭槌命の8人の子供:八王子と呼び国狭槌命と習合されることがある。
八王子は祝詞で「トオカミエヒタメ」の神々となり、世界各地に統治する。
2.三河本宮山の砥鹿神社の神はトの神?
鳳来寺門谷の子守神社の祭神は国狭槌命。大野町神社も国狭槌命、八王子を祭る。
→大昔高山であった鳳来寺山は不二山で、その麓に高天原があった!?
鳳来寺山は、1600万年前の死火山であるが、周辺には温泉が湧き(湯谷温泉、赤引温泉ほか)、三河国総国風土記なる古文書には、当地を流れる豊川を、三輪川とよび、怪石が流れたことを記している。
3.鳳来寺の宝物像は、薬師如来と神農と大国主
神農と国狭槌命、八王子が祭られる鳳来町は、まさに富士古文献に述べられた、古代の不二高天原を意味しているようである。
奥三河・鳳来町は日本の源流・扶桑国か!?
1.三星堆の遺跡
中国5000年の謎・驚異の仮面王国「三星堆」は、四川省成都市郊外。この三星堆遺跡から1トンを越す青銅器が発掘され、飛び出した目をもつ仮面群と全高3.84メートルという巨大神樹(扶桑樹)を発見。三星堆の蜀国という農耕社会では、祭祀の中心的内容が太陽崇拝だった。
2.扶桑
「太陽柱」という自然現象から「扶桑(ふそう)」という想像上の太陽樹が誕生し、扶桑を中心とした独特の信仰体系が成立した。中国最古の扶桑樹の青銅製の実物が古代蜀国で作られた。
3.扶桑国
中国の有名な古代文献「山海経(せんがいきょう)」によれば、「海外東経」と「大荒」の章に扶桑のことが記され、扶桑国は日本のことと考えられてきた。
「大荒の中に山あり。山の上に扶木(扶桑)があり高さ300里。谷あり、湯源の谷(湯谷)という。その湯谷の上に扶桑があり、10個の太陽が湯浴みしている。 不姜の山があり、豊水が流れ、不死の国があり、五彩の鳥・鳳鳥が舞う」という。
一方、奥三河の鳳来町には、湯谷という温泉街のある豊川上流の渓谷があり、鳳凰が住んだという伝説の山がある。「扶桑国三州八名郡」である。
邪馬台国・卑弥呼に関する驚愕の資料
源為朝公直系子孫が保有する卑弥呼伝承
1)為朝公守護神 古代女王卑弥呼伝
古代邪馬台国の女王・卑弥呼については、漢委奴国王の位を授けられ、位を書いた純金の印章および銅鏡百枚、また、航海の守護章(石剣)を授けられた。卑弥呼は国家を樹立するため、伊都国を東へ遷すことを決心。瀬戸内海航海に際し、紀氏水軍に命運を掛けた。
2)天女卑弥呼は、伊都の国から、紀伊、大和へ皇祖・神武天皇が九州から東へ遷ったと同じ海路を、紀氏水軍を使い瀬戸内海を軍船によって航行。
卑弥呼は海路を進み、大和近く、河内国で上陸計画。しかし、このとき海が荒れ、上陸不能。神国である紀伊国に一時滞在。その後、卑弥呼は、大和へ向かわれた。
3)大和の国に入ったのち、大邪馬台国へ
卑弥呼は、中国の後漢の光武帝から授かった権威の守護銅鏡を活用し、大邪馬台国とした。
卑弥呼は、太陽神。 天の神・太陽の光が消え、黒い太陽になることを恐れた。
4)卑弥呼は恵那へ
正始9年、太陽神である卑弥呼は、誰よりも早く自分の目で確かめようと、太陽の消える時を知るため、東の地・美州(美濃)恵那郷に向かった。9月5日になり、早朝から太陽が現れたが、間もなく黒い太陽になった。卑弥呼は、黒い太陽霊が恐ろしいと気を失って倒れ、その後、敵方賊の襲撃を受けた。
5)貴人卑弥呼の御首級は、敵方見張りの所・小牧山頂へ
ここは、巨岩が置かれ、その中、立石と直下は石組みの洞穴がある。
卑弥呼の終焉地・中津川の恵那神社には、天照大神が祀られており、不思議な遥拝所がある。神が南南東に向かったと行き先を示す歌碑が立っているのであるが、その方向は東三河を含む三遠地方である。