第1章(立ち読み3/4)
二
知恵子は拍手の渦に立っていた。舞台の中央で観客席に向かって深くお辞儀をすると、拍手は徐々に収束していった。顔を上げた知恵子は眩しい照明に目を細める。
肌が焼けそうなほど熱い光に体中じっとりと汗が滲み、フルートを持つ手はカタカタ震えていた。知恵子は祈るようにフルートを胸にあて、そっと目を閉じた。
「大丈夫、大丈夫」
深呼吸をしながら自分に言い聞かせる。舞台にいる以上、もう逃げ場はない。そして逃げる気もない。やるしかない。覚悟を決め再び目を開けた時、真っ暗な観客席が星空のように見えた。
知恵子は半歩足を開きフルートを構える。するとパラパラと残っていた拍手の音がぴたりと止み、観客の呼吸も身じろぎする音もない、完全な無音となった。
風一つ吹かない会場の空気が、時が、止まる。その一瞬、知恵子は大きく息を吸った。
細く光が差すようなトーンが会場を吹き抜ける。淡く柔らかい音はやがて色付き、物語の幕を開ける。広い会場に響く深い音色が心地よく、手の震えもいつの間にか消えていた。膝を曲げ、空気を持ち上げるようにして高い音へと駆け上がる。
青いドレスをなびかせながら、しなやかに息を吹き込む。寂しげに消えていく音を、観客の心が追っていくのを感じた。緊張が和らぐのに代わり、ここに立っている喜びを胸いっぱいに感じた。
そして物語を閉じる最後の一音で知恵子は目を閉じる。ここから新しい物語へとつなぐように、祈るように、初めと同じトーンを未来へ。音がぶれることなく消えていくと、再び場内は無音になった。
余韻が遠く消えると知恵子はそっと目を開け、ようやくフルートを下ろした。すると途端に拍手が沸き、観客たちは次々と立ち上がった。まさかのスタンディングオベーションんに知恵子は驚いた。
慌ててお辞儀をすると、拍手はより一層強くなり、耳が壊れそうなほど空間中に響いた。知恵子が顔を上げても止まない。素晴らしいという言葉より正直な、称賛の雨。こみ上げる涙をこらえながら、知恵子は何度も、何度もお辞儀を繰り返した。
遠くでカモメの声がして目が覚める。剥き出しの配線と等間隔に縦横三つずつ垂れ下がる裸電球が目に付いた。
左側の壁にはリアルな海の絵、反対側にはドラムセットとキーボード、頭元にはショーケースがある。自分が今どこにいるのか頭をフル回転させてもピンとこず、知恵子は怖くなった。
耳を澄まして周囲に人の気配がないことを確認し、恐る恐る頭を持ち上げる。ひどい頭痛がして顔をしかめた。何があったのか余計に分からなくなった。どの角度にしても頭が痛い。
五分ほどかけて体を起こし、部屋を見渡すと、小麦粉やナッツなど雑多に置かれた食料品が棚二台にそれぞれ乗っているのが見えた。品揃えはあまり良くないらしく、所々歯抜けになっている。まったく見覚えのない場所だった。
知恵子はこめかみを押さえながらソファを降り、ショーケースの中を覗いた。
「わあ、金のフルートだ」
そこには何とも美しい、金色に輝くフルートがあった。ケースに収められた三つのパーツが外から差し込む光を反射して、キラキラ輝いている。その様は神々しいほどだった。まだ誰も触れていないだろうキイの輝きに思わず見とれる。きれい、と時間も忘れてうっとりしていた。
「起きたのかい」
後ろから声がして飛び上がる。頭の薄い、黒くてボロボロのエプロンをした店主が奥の部屋から出て来た。それこそ初対面の店主を知恵子は警戒した。知恵子は思わずドラムの陰に隠れる。
「おいおい、そんな目で見るんじゃねえ。俺は何もしてねえぞ」
店主は平然としながら知恵子から目を逸らし、換気のために店の入り口を開けた。潮の香りが部屋を駆け巡る。
「嬢ちゃんはな、ゆうべ酒に酔って、階段の傍で倒れてたんだとよ」
そう言われても思い出せない。しかしソファの下に転がる空の酒瓶には見覚えがあった。おずおずと立ち上がり、ぐるっと部屋を見渡す。
「あの、ここは、どこなんでしょうか」
「廃港通りだよ」
「廃港通り?」
入口隣の窓から外を見ると、波のきらめく海が広がっていた。わお、と思わず状況を忘れて感嘆する。隣接する公園からゲートを経て続くこの海道は、通称廃港通りと呼ばれている、と店主は説明した。そして左手遠くの港を指差してみせる。
「向こうに海緑港がある。あれなら分かるだろ」
「あ、分かります。昨日、あの町でライブがあったんでした」
それでようやく自分がどこにいるのか分かった。
「昨夜何があったか思い出せるか」
今は目覚めたから良いものの、彼女が泥酔してこんな場所へ来た理由は当然店主も気にかかっていた。知恵子は床を見ながら思い出す。
「ライブの打ち上げに行ってお酒を飲みました」
そこまで言ってハッとする。そわそわ辺りを見回し、寝ていたソファの近くに鞄を見つけると飛びかかるようにして中を開け、手帳を取り出す。
「おじさん、今日は何月何日ですか」
「三月の二十九日だな」
「二十九。休み。わあ良かった」
手帳を指でなぞり、二十九日が空欄になっているのを見て胸をなで下ろした。バイトの勤務日であれば無断欠勤になるところだった。安堵の表情で店主を見上げる。
「どうもありが……うっ、気持ち悪い!」
店主の顔を見た途端に吐き気を催し手帳を取り落とした。
「人の顔見て失敬なやつめ」
店主は憤りながらも早急に知恵子を洗面所まで連れて行った。
酔い覚ましの薬をもらい、気分の悪さが落ち着く。
「すみません、何から何まで」
店主への警戒が解けたものの、ソファに戻った知恵子は数々の失態を恥じしょげていた。大人の階段だな、と店主は軽く笑う。そして昨夜のことを話しているうち、知恵子が酔って家とは反対側の廃港通りへ迷い込んだことが分かった。
「まったく、どこに住んでるか知らんが早く帰んな。家族が心配してるぞ」
慣れない酒に呑まれた知恵子にチクリと言う。しかし知恵子は寂しげに笑った。
「一緒に住んでいません」
「何だ、一人なのか」
はい、と知恵子は恥ずかしそうに頷く。
「まだ越してきたばかりで土地勘がなくて」
越してきたばかりといってもひと月は経っている。家とバイトを往復するだけで冒険をしないままでいた。
「だったら余計、酒には気をつけろってもんだ。夏じゃねえんだからよ、あのまま気づかれなきゃどうなってたことか」
はい、と知恵子は縮こまった。
店主は知恵子を寝かせていたソファに一斗缶やらクッションやらのディスプレイを戻し始めた。その様をじっと見ていた知恵子は、ふと顔を上げる。
「私を運んでくれた人って、ギター、弾いてた人ですか」
ああそうだよ、と店主が言う。
「そうだったんですね。おじさんはあの人と知り合いですか」
「んん、まあな」
「あの人、またここに来ますか。お礼がしたいです」
「いらねえいらねえ、この界隈じゃ酔っ払いの世話なんて日常茶飯事だからよ」
店主は大げさなくらい両手を振って却下する。でも、と知恵子が食い下がるのも顔をしかめて拒否した。
「無事に帰ってくれりゃそれでいいから。こんな憂さぶれた場所、嬢ちゃんみたいな子が来る所じゃねえんだ。次は何が起こるか分かんねえし、もう二度と迷い込むんじゃねえぞ」
「挨拶だけでもできませんか」
「ダメダメ。そんな律儀さここらじゃ必要ねえから。さあ、もうこんな時間だ。酔いが醒めたんなら家に帰ってくれ」
知恵子の思考を遮るようにして出入口へと促す。知恵子は腑に落ちない様子でウッドデッキへ出た。入口の上には「BORDER」の文字がでかでかと描かれていた。
「気をつけて帰んな」
「はい……ありがとうございました」
威圧感たっぷりに言われ、頷くしかなかった。渋々お辞儀をし、ウッドデッキの階段を降りてすぐ、背後で扉の閉まる音がした。
廃港通りから望む広大な海は、奥へ行くほどエメラルド色に見えた。沖合にはマストが傾いている。破れた幌が風に揺れ、その一帯だけは晴れた空に不釣合いだった。
波の音に混じってミャーというカモメの鳴き声が聞こえる。少し肌寒いけれど日差しは柔らかかった。
〔立ち読み④に続く。立ち読みは④まで〕
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