わかれた男女が協力して子育てするという麗しき神話について
離婚後共同親権導入について話を聞く機会があった。
詳しく知るにつれ、なんとも意味不明な、目的不明な制度案だなって思うようになった。
こどもについて急を要する判断の際は単独親(権)にて判断できるそうなのだけれど、その単独というのは父母両方それぞれ、という意味らしい。だとすると、そもそも離婚するほど不穏な関係性にある二人の考えは相違することが多く、同意を見られない場合は裁判所の判断に委ねることになるそうだ。そもそも子供の思いはさておかれている。
そして、当の家庭裁判所が開廷する頻度は月に数回程度で、裁判所の判断が明確になるまでに、こどもにとって必要な案件はすでに時おそし、ということになることは自明だ。
共同親権になれば、養育費も支払われやすくなるだろう、との見方もあるなか、そもそも養育費を払おうという親じゃないから離婚に話が進んだということ。しかも共同親権下での養育費は、両親ともに子どもを養育しているのだから養育費は減額してもよかろう、という考え方になるようだ。
いやはや。
よくわからないよ。この制度案はそもそもなんのために発案されたのだろう。
日本は、いまだに夫婦ともに協力して子育てにあたることが、子どもの幸せであり、そもそも家族の共同・むすびつきこそ、美しく、人とあるべきすがた、という神話を信じて推進したいひとたちがいるのだろうか。
家族が共同することで、何かいいことがあるのだろうか。日本が発展するとでも?
あるいは別の企みが?
家族や夫婦、という単位でひとくくりにすると、いろいろ都合がよいのかしら?
・・・・・・・・・・・などと、理屈っぽく考えている私の過去を振り返ってみれば。
まったくの神話信者であったとしかいいようがない。
夫婦は、きずなさえあれば、式も入籍も必要ない、愛さえあれば、という「理想」のもと別姓婚を選んだ。
そして、パートナーシップを解消し、わたしと子ども&父(元夫)という二つに分かれたあとも、子と父のきずなはあり、「夫婦」という単位はなくとも、二人の親が子を育てていることに変わりはないのだ、と、固く、無邪気に考えていた。
だが一方で、パートナーシップ解消後も、さびしいから会いたいと連絡してきたり、花(お金のほうがよかったんだけど)を毎月送ってきたりすることに困惑し、自分を責めさえした時期もある。
つきまとい、子どもの連れ去り懸念のある危ない状況と紙一重だったともいえる。
なんて無邪気だったわたし。
そして、子どもの人権っていう点で言ったら、わたしは本当に毒親だった。
休日に仕事が入っている日、親子の集いに出掛けていって知人ママに「子どもをお願いします」と託して子どもには黙って、仕事に出掛けていってしまった。こんなのほんとに、子どもの気持ちを考えない行為だ。
やむなく、仕事に同行させることになったときは、前日ではなくその日の朝に「行くわよ」と言って、事情もわからず眠い目をこする我が子を連れ出していた。
友人と旅行にいくから、と、祖父母(わたしの実父母)に預けて、ひとり遊びほうけることもあった。
キャベツはいちばん外側の緑色のところを料理に平然とつかったり、夕食といえば生姜焼き、五目ラーメン、焼きそば、鍋、のサイクルだったことも。にものを作ったのはいつのことだったか。
今じゃ子ども(30代)は、母とは「大人同士の理性的な距離感」を保つことが賢明であることを知ったようだ。必要以上に介入することも、忌避することも、少なくともないようなのだけれど。これは救いといったら救いなのかもしれない。もともと我が強い側面も持ち合わせていたのが、大人になって、どちらかといえば良い方向に行ったとも言えるのか。
自分のことはさておき。(さておいちゃいけないのだけど)
やっぱり離婚後共同親権っておかしいでしょ。
今の私なら、そう言える。