なぜ古いテクノロジーはノスタルジーを誘うのか
1年に1回ほど会う友人がいる。
出身校は違うが、同年齢だ。
団塊世代の少し下という世代である。
その彼は、昔からクルマの好きな男で、マニアックな知識をいっぱい蓄えている。
駆動系を自分で自由に改造できる時代にクルマにのめり込んでいた人なので、「ボアアップ」とか、「ソレックスの3連」とか、「2T-G」とか、もう私が30年も遠ざかっていたボキャブラリーが飛び交うような会話で盛り上がった。
その彼が、「自動ブレーキ」が定着しつつあるような風潮を嘆き始めた。
「ドライバーが自分で危険を感知し、緊急回避できないようなクルマに乗るぐらいだったら、もうクルマから遠ざかって生きていた方がまし」だという。
内燃機関の鼓動が感じられないEVとかハイブリッド車なども、クルマから得られる人間の感性を衰えさせたとも。
要するに、「クルマが便利になりすぎて、“白物家電”のようになってしまったから、若者のクルマ離れが進行した」という。
そして、最後は「我々はいい時代に生きた」という結論になった。
ま、そうなんだけど、私は新しいテクノロジーが登場すれば、古い時代のテクノロジーに郷愁を感じるのは人間の常であって、「我々」だけが良い時代を生きたということではないように思った … が、そのときはそうは言わず、「ほんとうに言うとおりだよ」と相槌を打った。
しかし、たぶん20~30年して、EVやハイブリッドの運転感覚に慣れた人たちは、その後の新技術を搭載した自動車に、我々と同じものを感じるはずだ。
なぜ、我々は、古いテクノロジーに郷愁を感じるのか
真空管のアンプに凝ったり、ターンテーブルを回してレコードをかけることに生きがいを感じたり、古いネジ巻きの柱時計を収集したりしている人も後を絶たない。
誰もが、自分が生まれて最初に手にしたテクノロジーに、生涯そこはかとない郷愁を抱き続けるというのは、いったいなぜなのだろう。
それは、テクノロジーこそが人間の感受性を決定づけてきたという近代の歴史があるからだ。
普通、人の感性は、絵画だとか、音楽とか、小説だとか、詩のようなアート系の創造物の影響を受けると思いがちである。
だが、そのような絵画や文学というものは、感性を磨くというよりも、「永遠・普遍」というものが存在するという啓示を授ける役目を負ったものなのだ。それらは、時代を超えて人を感動させるものがあることを教えてくれる。
それに対し、テクノロジーは、決して「永遠・普遍」に至ることがない。いわば使い捨ての文物だ。
特に近代の資本主義社会が確立されてからは、時代の先端を行くテクノロジーは新しい商業価値を実現するシンボルとして喧伝されるようになり、古いテクノロジーは侮蔑的なレッテルを貼られて葬り去られる運命となった。スマホの普及で、それまでの携帯電話が「ガラケー」(ガラパゴス的ケータイ電話)と言われるようにである。
フィルムカメラもレコードも、それぞれデジカメやCDにとって代わられるようになり、いまやそのCDですらも、街の商店から姿を消そうとしている。
まさに、諸行無常の響きあり。
万物流転の法則、ここに極まれり。
だからこそ、テクノロジーは、逆にひとつの時代を生きた人間に決定的な感受性を植え付けるのである。
ひとつのテクノロジーが「お役ごめん」となって消え行こうとしている姿を見て、それに密着して生きてきた人々は、そこに時の推移の非情さを感じ、物質のはかなさを発見する。
そこにノスタルジーが生まれる。
しかし、そのようなノスタルジーを誘う古いテクノロジーでさえも、実は、それが普及する前には別のテクノロジーを葬り去っていたことは忘れられている。
SLにノスタルジーを感じるファンは多いが、そのSLだって、19世紀の中ごろに「馬車」というそれまでの移動手段を排除して、世に広まったものである。
作家の中には、今でも紙の原稿用紙に向かって手書きの文字を書くほうが、パソコンやワープロを使うよりも小説がうまく書けるという人が多数存在する。
だが、その原稿用紙を構成する紙だって、一般庶民が手に入れられるような現在のスタイルが確立されたのは、15世紀ぐらいからである。
しかし、そのことは忘れられており、あたかも紙は、古代エジプトあたらりから連綿と続く人類の文化遺産のような価値を与えられている。
そして、それはさらに神格化され、電子メディアでは実現できない人間の“温かみ”を伝えるコミュニケーションツールのようなイメージを付与されている。
しかし、そのようなイメージも、やはりテクノロジーの産物にすぎない。
テクノロジーの変化によって、新しい感性が生まれる例を、もっと卑近な例からあげてもいい。
たとえば、ロックサウンド。
エレキギターが主流になってきた1950年代以降のポピュラーミュージックシーンにおいても、初期のロックンロールといろいろなサウンドエフェクトが多用されるようになったジミヘン以降のギターの音は全然違う。
ビートルズにおいても、4トラックで録音していた時代のものと、多重録音に移行した後期のものとでは、表現される音が違うだけでなく、背後にひかえた世界観まで異なっている。
当然、その差異は、聞き手の音楽に対する感性をも変えていく。
われわれの感性というのは、新しい時代がくれば容易に捨て去られる運命にあるテクノロジーがによって左右されている。
しかし、そのことを自覚するのは、たいてい自分の感性を育てたテクノロジーがこの世から消えようとしているときである。
(写真/佐藤旅宇)
※初出:2014年11月「町田の独り言」
著者プロフィール
町田厚成 (まちだ・あつなり)
1976年、自動車週報社入社。編集者としてトヨタ自動車広報誌『モーターエイジ』や自動車評論家・徳大寺有恒氏の著書『ダンディートーク (Ⅰ・Ⅱ)』、作詞家・竜真知子氏の著書『TOKYO DAYS』などの編集に携わる。1993年、『全国キャンプ場ガイド』編集長に就任。後に『RV&キャンピングカーガイド(後のキャンピングカースーパーガイド)』を創刊。キャンピングカー情報のほか、映画、音楽、芸能に関する独自の視点を盛り込んだブログ『町田の独り言』の書き手としても人気がある。著書に2003年『キャンピングカーをつくる30人の男たち』(みずうみ書房)ほか。1950年東京生まれ。