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鈴木桂一郎アナウンス事務所

10月20日(土)『歌舞伎座芸術祭参加10月は中村勘三郎七回忌追善興行』

2018.10.20 00:45

 歌舞伎座10月公演の昼の部を観に行った。三人吉三巴白浪、大江山酒呑童子、佐倉義民伝の三題。

 三人吉三巴白浪は、大川端庚申塚の場だけ出た。お嬢吉三を七之助、お坊吉三を巳之助、和尚吉三を獅童が演じた。大川端の場面だけだと、河竹黙阿弥の七五調のセリフを味わうだけが楽しみだが、台詞に書かれた七五調のセリフを言うのに留まり、心地よく耳に届かず、初春の情感は感じなかった。役者の年齢が若いだけなのだろうか。若い世代の役者には、七五調のセリフの心地良さ、そのものを感じていないのかもしれない。七五調は、台詞が七五調だけなのではなく、言葉に情感が詰まっているので、一粒一粒のセリフを歌い上げないと駄目だが、単調でつまらなかった。特に獅童のセリフのスピードが速すぎて、機械的に、七五調にしているだけで、情感も、ためもなかった。和尚吉三の言葉には、争う二人を止めるだけの言葉を覆いかぶせる技量が必要だと思うが、それはなかった。

 大江山酒呑童子は、勘九郎が演じたが、きりっとした動きが勘三郎生き写しのようで、気持ちよかった。あまりに高く飛び上がって、ズドンと落ちるのは、気持ちのいいものだが、足腰を傷めないようにしてほしい。

 佐倉義民伝は、暗い暗い話で、観ていて陰鬱な気持ちになる芝居だ。

私が子供の頃は、江戸時代の農民は、年貢で搾取されて、ろくに食べることも出来ず、塗炭の苦しみの中に置かれていたと教科書で習った。江戸時代は、農民にとっては、搾取されるだけの苦しい時代、暗黒時代と習ったのだが、実は、江戸時代は、後半に入ると、農民が経済的に恵まれてきて、農民の間にも地域文化が芽生え、生活が豊かになったと分ってきた。この芝居の舞台は、1600年代後半に設定されていて、1800年代ほど経済的に恵まれてはいなかったと思う、この芝居自体も、江戸時代の農民は暗黒の中にあったという枠組みの中で作られているので、私は、白々しく思うのだ。まあ、こんな事を考えては、芝居に入っていけないので、搾り取られるだけ絞られる、悲惨な農民たちをイメージして芝居を見ることにした。

芝居は、下総の国の名主木内宗吾が、凶作と重い年貢に苦しむ農民を代表して、領主に年貢の免除を訴えるが、聞き入れられず、自らの死を覚悟して、将軍に直訴すると言うストーリーだ。将軍に直訴すると言うことは、自らは処刑されること覚悟している事を前提にして、芝居を見る。

甚兵衛渡し、子別れ、直訴の三幕。私は、この中でも、一面の雪の中、渡し守の甚兵衛が、夜の渡航が禁止される中、宗吾の覚悟を知って舟に乗せるシーンは、ジーンと来て好きだ。日本人は、こうした情を見せる場面は好きだ。勧進帳の富樫と同じで、武士の情けならぬ、船乗りの情けである。

子別れ、妻と子供四人の家族との別れが、舞台の中心になる。辛い物語だ。宗吾を白鷗が演じると、泣き落としが過ぎて、ドラマチックではあるが、逆に悲劇性が薄くなる。七之助の妻の情が薄いので、白鷗の一人芝居になり、ますます泣きが入り、暗くなっていく。見ていて疲れてきた。

直訴は、紅葉の中の舞台で、絵柄が綺麗だ。舞台中央に大きな橋が架かっていて、大名に混じって将軍が通る。忍んできた宗吾は、ここを見計らって、紅葉の枝に直訴状を挟んで、差し出す。高麗蔵扮する松平伊豆守が直訴状を受け取り、読み上げた後、訴状は懐に入れ、訴状を包んだ紙を宗吾に投げ返すのだが、白鴎は、もうこの時点で、思いが遂げられたと判断したのか、虚脱状態となり、安心しきった顔で、ある一点を見つめて、芝居が終わり、幕が引かれる。訴えを、聞き入れてもらえるか、命を賭けた訴えだけに、まだ安心は出来ないと思うが、どうなんだろう。将軍は勘九郎だったが、無表情で、橋の上に立っているだけ。訴えには、まるで関心がない様子だったが、こういう状況下での将軍の立ち振る舞いは、無関心でいる事が当然なのだろうが、それでは芝居が面白くないと思った。伊豆守が、直訴を受け入れるのか、無視するのか、演技では、今一つ分からなかった。