「西郷どん」⑨西郷と庄内藩1
譜代大名の庄内藩は、外様大名が多い奥羽地方にあって会津藩とともに徳川家に忠誠を尽くす藩とされていた。庄内藩は、文久3年(1863年)江戸市中取締役となったが、やがて薩摩と反目。薩摩は西郷隆盛の指令で江戸市中を騒擾化して「薩摩御用盗」といわれる略奪と放火を繰り返したためだ。慶応3年(1867年)12月22日、薩摩藩邸に匿われる浪士たちは庄内藩お預かりの新徴組の屯所を襲い、鉄砲を撃ちかけて薩摩藩邸に引き上げる。翌23日には、浪士らは庄内藩の屯所を銃撃、使用人一人を殺す。ここに至り、将軍留守中の江戸を預かる老中・稲葉正邦は、薩摩藩邸を根城にする不逞浪士らの討伐を決断。12月25日、庄内藩を中心とする討伐勢は未明に三田の薩摩藩邸を包囲すると、薩摩藩に賊徒引渡しを要求し、薩摩藩がそれを拒むと一斉に砲撃を開始、薩摩藩邸に討ち入る。3時間ほどで薩摩藩邸は焼失。この討ち入り騒ぎで、薩摩藩邸側は浪士を含む64人が討たれ、112人の浪士が捕縛される。一方、討伐勢は11人が命を落とした。
その知らせが大坂城の慶喜のもとに届くと、幕府軍主戦派は激昂し、「討薩の表」を掲げて、京に向け進軍することになった。戊辰戦争の始まりである。 この庄内藩、東北戦争でも奮戦し、奥羽鎮撫軍(新政府軍)を一度も領内に入れなかった。しかし、会津が明治元年(1868年)9月22日に降伏すると(9月8日明治に改元)、26日に降伏。戊辰戦争に敗れた会津藩を始めとする奥羽越列藩同盟の各藩には、重い処罰が下される。薩摩藩邸を焼き討ちし、最後まで新政府軍への抗戦を続けた庄内藩にも当然厳しい処分が予想された。
庄内藩の降伏式。場は悲壮な雰囲気に包まれていた。藩主も重臣も白装束に身を包み、切腹する覚悟。しかし、その場にいた西郷は穏やかにこう言う。
「切腹して詫びるなどとはとんでもない!」
降伏の証として差し出された武器一切の目録も、こう言って返してしまう。
「貴藩は北国の雄藩。ロシアなどに備えて北国の守りをしてもらわねばいけもはん。これらの武器はそのままお持ちいただければよか」
あまりの寛大さに、藩主、家臣一同、みな感涙にむせんだと言われる。城明け渡しにあたっても、次のように官軍の面々に伝え、丸腰で入場させ、逆に庄内藩士には帯刀を許した。
「敵となり味方となるのは運命である。一旦帰順した以上、兄弟も同じと心得よ」
当然、西郷の寛大すぎる処分に官軍内部から懸念、不満の声が上がる。しかし、それに対して西郷はこう言い放つ。
「そげな心配は要りもはん。武士が一旦兜を脱いで降伏した以上、後ろは見ないもんでごわす。武士の一言を信ずるのが武士でごわはんか。もし叛逆したら、また来て討てばよろしい」
この西郷の「恕(じょ)」「赦す心」、ユリウス・カエサルの「寛容」やイエス・キリストの「愛」にも通じるように感じる。
(酒田市南洲神社の西郷像)
もう一人は 菅実秀(すげ さねひで)。庄内藩の中老。戊辰戦争後、西郷に師事し西郷没後『南洲翁遺訓』を編集
(「南洲神社」酒田市)
(鶴ヶ岡城復元図)
(庄内藩主 酒井忠篤)
旧庄内藩士七十余名とともに、明治3年(1870年)に薩摩を訪ね西郷に学んだ
(佐藤均「西郷隆盛」致道博物館 山形県鶴岡市)