10月24日(水) 村上市[イヨボヤ会館、おしゃぎり会館、若林家住宅、村上歴史文化館](31km)②
次に、おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)に行く。
ここでは、新潟県の三大祭りの一つである「村上大祭」の屋台山車(おしゃぎり)を展示するほか、主に村上藩に関する郷土資料を見ることができる。
館内に入ると、正面に屋台山車がドンと居並ぶ。毎年7月6〜7日に行われる祭りでは、19台の屋台山車が練り歩くらしい。
出陣するときは、一部を取り外して建物から出すとのこと。
豪華絢爛な屋台山車を見ると、村上地方はかなり豊かな土地だったのではと想像される。
2階の展示室に上がる階段の上り口には、「ソチオリンピック銀メダルおめでとう」と書かれた平野歩夢(村上一中3年)のポスターがあった。
利発な歩夢君は、ここ村上の出身だったのね。
2階は戦国大名・本庄氏から村上藩へと続く村上城主に関する展示があり、時代が下って幕末の戊辰戦争についての展示となる。
東北地方各地で見てきた戊辰戦争の展示が、やはり ここでも当然のようにあるわけだ。
村上藩は当初、様々な家が入れ替わった。18世紀に入り、この地に転封された内藤氏は、その後約160年間、村上を治めることになる。
戊辰戦争では、村上藩は奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦った。しかし、その経緯はかなり複雑なものだった。
1868年1月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が徳川慶喜を擁立して戦い敗れ、慶喜・松平容保らは江戸に逃亡、会津藩東征命令が下る。
江戸藩邸に居た前藩主・内藤信親は、新政府軍に抗することは愚としており、これは藩主・内藤信民も同様であった。
また、重臣のうちでも家老の久永惣右衛門、鳥居杢左衛門、江坂与兵衛らは帰順論者であった。一方、脇田蔵人、鳥居三十郎、杉浦宇右衛門らは抗戦を主張した。
同年5月、村上藩は奥羽越列藩同盟に加わる。しかし、藩論は依然二分していた。
7月、19歳の藩主・信民は藩意を一つにまとめることができず、なんと城中で自殺してしまい(病死説も有り)、藩内は大混乱に陥る。
村上藩は各地で善戦したが、8月10日に平林・岩船の陣地が破られると、翌11日に村上城は無血開城すると同時に炎上し焼失した。このため、村上市街地が戦火に見舞われることはなかったといわれている。
開城を前に、抗戦派の鳥居三十郎は藩士を集め、抗戦・帰順を自由とし、抗戦派200名の藩士を連れて羽越国境に進む。
その後、彼らは庄内藩と共に1ヶ月の間抗戦を続けたが、同年9月、米沢藩と仙台藩、その後幕府軍の主力である会津藩と庄内藩が相次いで降伏すると、9月27日、村上藩も新政府に対して降伏の嘆願書を出すことになる。
新政府は抗戦した各藩主の死罪を免ずる代わりに、各藩の首謀者を厳罰に処する方針とした。
村上藩の家老の中で、抗戦派の家老は3人居たが、戦闘の指揮をとった鳥居三十郎が処罰の対象となった。
鳥居が処刑されるという決定を知った藩内の抗戦派は激怒し、帰順派の代表格だった江坂与兵衛を、鳥居を死に追いやった張本人とみなして暗殺してしまう。
このため、鳥居の処刑は数日延期され、1969年6月25日に切腹した。
享年29歳。新政府からの命令は斬首であったが、村上藩はそれを無視し、安寧寺に切腹の場を設け、同じ抗戦派の藩士が介錯したという。
鳥居が鼠ヶ関の戦い(山形県鶴岡市)のあと村上に引き上げる際に、戦闘中に陣屋とした佐藤家にお礼として与えた赤い陣羽織が展示されている。
なお、江坂与兵衛を暗殺した抗戦派の島田鉄弥は、その後新政府が暗殺の犯人を捜索していると知り、1870年1月19日に自害している。
そのほか、「『鮭の子』歴史に残る人々」というパネルがある。
明治に入ると、村上藩は旧士族子弟に旧制中学の教育を受けさせるため「村上私学校」を開設した。
村上藩は鮭漁で得た資金を使い、彼らの授業料や文房具費、衣料費などを免除して人材の育成に努めた。こうした旧士族子弟の中からは、その後各界で活躍する者が多く輩出され、彼らのことを「鮭の子」と呼ぶようになったという。皇太子妃・雅子様の曽祖父、祖父もまた、この一員である。
続いて、おしゃぎり会館の隣にある若林家住宅を見学。
若林家は村上藩士としては中堅クラスであり、住宅は国指定重要文化財に指定されている。
茅葺き屋根が立派で、庭の松の木が歴史を感じさせる。
そして、軒にはお馴染み塩引き鮭が数本吊るされていた。
最後に、さらに隣接する村上歴史文化館を見学。
ここは、主に村上の食文化を紹介しており、お祝いや行事といったハレの席での食生活と、
日常の食事(「質素な」と書かれていたが、流れ者のKY夫婦には、とても質素な食事には見えず)などが展示されており、
そのサンプルがあまりにリアル過ぎて、空きっ腹を抱える二人には酷な展示内容であった。
他にも、服飾品の興味深い展示もあった。
気がつくと既に夕刻。閉館時間間近の歴史文化館を後にし、市街地を少しぶらぶらと歩く。
信号で立ち止まり、ふと足元を見ると、カラフルな色使いの鮭のイラストが。
よく見ると、それはマンホールであった。あまりの可愛さに思わず写真を撮る。
こんなイラストも描かれていたりして、なかなか楽しい町である。
路傍には種田山頭火の句碑も。
村上で開催された句会で詠まれたという句が刻まれている。
そして、民家の軒先には干し柿が吊るされている。
こうした、ほのぼのとした日常。当たり前の風景が心地よい。
おしゃぎり会館に戻り、先程見たマンホールと同じデザインのバッヂを2つ購入。
実は入館した時に売っているのに気づいて、買おうかどうか迷っていたのだが、実際にマンホールを見たら、どうしても欲しくなってしまった。
こうして村上市での観光を終え、昨日と同じ道の駅へと戻っていったのであった。